恋文

松風 陽氷

恋文

貴女をお慕いしております。

身分違いを重々承知で、それでも貴女に恋をして仕舞った、こんな愚かな私をどうか、許して下さい。

自分でも如何して良いのやら、全く見当がつかないのです。此の想いを如何して仕舞うのが一番最適なのか、頭の悪い私には答えが出せませんでした。只、衝動的にペンを手にしたのです。貴女にお伝えしたいと、何故かそう強く、私の全神経が叫んだのです。


私は貴女の全てに魅了されて仕舞いました。

初めて貴女を目にした時、貴女は枝垂れ桜の下で川面に流るる薄紅を眺めておりまして、其の伏せ目がちの長い睫毛には、誰も寄せ付かせない霞の様な孤独が降り掛かっておりました。今思うと、きっと、その時僕は貴女に堕ちたのだと思います。

美しい。と、刹那桜が舞いました。景色が桜色に染まったまま、僕は今も其の桜色に悩まされているのです。其の日其の瞬間から、ずっと。貴女が、何処の誰かも名も知らぬ貴女が、僕に染み込んで仕舞って、僕には為す術もないのです。

お恥ずかしながら、僕は生まれて此方恋と云うものをした事が有りませんでした。貴女が僕の初恋の人になるのです。恋をして分かった事があります。恋をすると音楽が豊かになりますね。今迄聞き飛ばしていた様な一言も、じんわりと末端まで染み込んで行くのです。又、外に出る事が希望に満ち満ちたものになります。貴女に出逢えるかもだなんて浮かれて、少しの散歩でも小綺麗にめかしこんで行くようになりました。お陰で徒歩五分のお花屋に行くのに何故だか十五分も掛かるという始末です。この間なんか、少し散歩でもしようかと思い立ち、いざ外に出ると斜向かいの谷野さんから

「あら、どこかお出掛けですか?」

だなんて言われて仕舞いまして。

赤面したのを隠す様にしてそそくさと

「ええぇ、一寸元町の方へ。あの、あれです、此の間美味しいパン屋さんが有ると云う話を耳にしたものですから」

と言って会釈をし、不完全であったでしょう笑顔でスススっと逃げました。そうして其の日の晩御飯は適当なパン屋の食パンとシチュウと云う事になったのです。下らない嘘を吐いて仕舞った事の罪滅しの様にして私なんかに購入される事となった、可哀想な可哀想な食パンでしたが、此れは又、思いの外美味しい物でして、怪我の功名とでも言いましょうか、でも矢張り、どれもこれも貴方様のお陰の様な気がしてなりません。貴女を思って日々を生きているから、こんな矮小な生活でも華を持つ事が出来るのでしょう。

貴女に教えて貰ったのです。世界と云う物は、こんなにも素晴らしかったのですね。毎日ドキドキと胸が小さく踊って、そして偶にきゅううと酸っぱい様な感覚に陥って、ふわふわりとして温かいのです。落ち着かなくなって何かに付けてそわそわして、其れはもう、自分でも笑って仕舞う程なのです。どうやら私は、貴女のお陰で随分な阿呆にされた様です。今迄一人で泣く事は有りましたが、一人で居て笑う事など生まれて初めてです。貴女の事を考えて一喜一憂して、阿呆の様に笑うのです。住み慣れた港の潮風がこんなにも優しいなんて。嗚呼、私の隣で、烏の濡れ羽色をした美しい御髪を靡かせながら儚げに微笑みを湛える貴女の姿を想像すると顔を覆いたくて堪らない気持ちになります。きゅううっと、鮮やかに熟れる檸檬の様な心地になるのです。


貴女をお慕いしております。此の気持ちの変わるのなんぞ、如何に想像が出来ましょうか。

実を申しますと、今ペンを握っている此の手だって、先程から震えが止まらなくて本当に困っているのです。其れ程迄に、私は貴女の事を想っているのです。真剣なのです。


何時でも構いません、此の手紙に返事を下されば幸いです。私に春をほんの少しだけ分けて下さい。


桜の君へ。





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恋文 松風 陽氷 @pessimist

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