いつかの雫が還る場所

第1話

 それはしっとりとした雨の季節のことだった。その日は土曜日で授業もなく、患者も、職員も、サナトリウムで生活を営むすべての人間がひっそりと息を静めていた。いつも通りの朝だったが、唯ひとつだけ昨日と違っていたのが、ある病室に一枚の名札が増えていることだった。佐藤雨莉。わたしはなんて読むのかわからないその名前を数秒間見つめてからそっと目をそらし、その場を離れた。

 次に名札のことを思い出したのは昼過ぎだった。数日ぶりに顔を見せた太陽に惹かれるようにわたしはふらふらと外へ出ていた。日光を浴びた雨粒がきらりきらりと輝いて、白い建物を覆い隠すように茂っている植物たちをいつも以上に美しく飾っていた。

 庭を散歩していると突如、自動車のエンジン音が聞こえ、わたしは入居者がいることを思い出した。元々、サナトリウムの中で友達を増やしたい方ではない。中にはおしゃべり好きな顔の広い患者もいるが、わたしはひとりで過ごしている時間が圧倒的に多い。新人といきなり顔をあわせるのが嫌だったわたしは咄嗟に紫陽花の植え込みの影に隠れて様子を伺った。

 車からはまず中年の女性が降りてきた。それから後を追うようにわたしと同い年くらいの少女が現れた。白く透き通った肌と対照的な長い黒髪が、彼女を人形のように印象づけていた。

 外見から病状を判断することはできなかったが、わたしには一目でその少女が入居者であることがわかった。心臓がうるさいほどに激しく鼓動した。自分でも気づかないうちに、わたしは自分の運命が変わってしまったことを悟っていたのだ。運転席から男性が降り、両親に連れられた少女が建物内へ消えていった後も、わたしはじっと紫陽花の影にしゃがみこんだままだった。葉っぱの上にいるカタツムリだけがわたしのことを見ていた。その他は誰にも知られることなく、わたしは変わってしまった運命を必死に受け入れようと足掻いていた。

 なんとなく帰る気分になれなくてそのままあたりを散歩していたが、夕食時にはそうもいかず、いい加減に歩き疲れていたわたしはしぶしぶと建物内へと戻った。玄関で屋内用のスリッパへと履き替えて廊下を曲がると目の前に彼女はいた。あっと小さな声が漏れた。彼女は少し驚いたようにぱちくりと目を瞬かせてから、こちらの顔色を伺うようにおずおずと話しかけてきた。

「部屋への戻り方がわからなくって」

 想像よりも少し高いソプラノトーンの声は、サナトリウムの静寂に吸い込まれるように消えていった。人形のように見えた彼女は、並んでみるとわたしと同じくらいの背丈の、なんてことはない普通の人間だった。そして生身の少女の表情は、余計にわたしを緊張させた。わたしは緊張をごまかすように話しかけた。

「あなたが佐藤さん?」

「はい。佐藤雨莉っていいます」

 さとうあめり。さとうあめり。脳内で聞いたばかりの名前を反芻し、名乗ったばかりの少女を見つめた。ワンピースタイプの白い寝巻きは彼女もまた病人のひとりであることを表していた。真新しい寝巻きに対してわたしが着ているのはくたびれた室内着で、裾にはしゃがんだときのものであろう泥がはねていた。少し恥ずかしく思ってから、わたしは相手が戸惑った様子であることに気がついた。

「乃木まちこです。どうぞよろしく」

 今思い返してみても、どこにでもあるような凡庸な出会いだ。しかしその出会いが、わたしたちふたりには大きな意味を持っていた。あの日出会わなければ、わたしたちはどんな人生を歩んでいたのだろう。どんな人生であれ、それはきっと退屈でつまらない日々に違いない。あめちゃんと出会わない人生なんて。

 さとうあめり。通称あめちゃん。わたしの大事な大事なお嫁さん。

 あめちゃんとの出会わない人生なんてそんなものに意味はない。


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