第六章~正しい嫁入り前の過ごし方~

 つい今しがたまでオールを漕いでいた両腕が少し張っている。

 ビーチサンダルにダイビングスーツ。この上にリュックの中に入ったエプロンを着れば十分だ。いつも身に着けていた鋼の装具(アイアン・ドレス)や魔剣は必要ない。もう、ランは魔王と戦う理由を持たないのだから。

 ここ数日、正確にはユーキたちと「コウフクのむら」へ行って以来。

 アンリは人が変わったように、ランの「花嫁修業」を真面目に受けるようになった。

 昨日は、ついに簡単な炒め物ではあったが、アンリは単独で一つの皿を完成させた。これは大きな進歩だ。何がアンリを変えたのか、ランには分からなかったが、素直にランの言うことを聞き、奮闘するアンリと過ごす時間は、ランにとっても今までのような苦痛を伴う時間ではなくなっていた。

 魔王島の浜辺はキラキラと輝いている。

 白い砂浜と銀の海面を踊る陽光に顔をしかめながらも、ランの足取りは軽い。

どうして、自分はこんなにも浮かれているのだろう。

城までの道中、一瞬だけそんなことを考えた。……答えは簡単だ。何せ、ついに、レオンハルトへの想いが報われる可能性が見えてきたのだ。どこか腑に落ちない気もしたがすぐさま納得して、ランは城へと向かった。

 人の手が入っていない魔王島の自然は穏やかで、澄んでいる。先日ユーキたちと行ったコウフクのむらと比較しても、緑にあふれた優しい世界と言えるだろう。

そんな島の路を、ランはやはり軽い足取りで歩んでいく。城までの道に潜む魔物たちも、ランがこうして敵意を示さなければ、挑みかかってくることもなかった。

「魔王、来たわ」

 重々しい城門を開け放ち、ランは城の庭をずんずん進んでいく。いつもなら、その内異常に聴力の優れたアシュリーが迎えに来る頃だ。今日は何をしようか。ランは物静かな城の庭を眺めながら、そんなことを考えた。

「……今日はあの子、忙しいのかしら」

 だけど、ランが城の表玄関にたどり着いてもアシュリーはやってこない。あの出来の悪い偽メイドが仕事に追われていることなどあるのだろうか。あり得ない。そう考えると、さすがにランも今日の状況を不審に思い始めた。

「ちょっと、魔王。出てきなさい。今さら隠れても無駄よ」

 玄関右手に伸びる掃除の行き届いた絨毯が敷かれた長い廊下は、どこか余所余所しく感じられた。思えば、この廊下を一人で歩くのは久しぶりだ。ふと、窓の外の景色に目をやると、芝生の上で跳ねていた小鳥がちょうど飛び去ったところだった。

「もう、何をしているのよ……」

 さっきまでの浮かれた気分が嘘のように、ランは無性に苛立ち始めた。知らず知らず、廊下を踏みしめる足音は大きくなり、そのテンポも速くなってくる。廊下の角を曲がり、これまた長い廊下を進んでいく。この廊下の奥が玉座の間、つまりアンリがいつも待っている部屋だ。中庭に面した窓に映った自分の顔を見て、ランは考える。どうして今、こんな怖い顔をしているのだろう。この顔をしてアンリに会って、まずなんと言おうとしているのだろう。

「魔王、アシュリー! 今日はどうして――」

 玉座の間を開け放ったランは、思わず言葉を切った。

 玉座の間は空いている。

 主のいない玉座の間は、普段以上に広々と感じた。アンリもアシュリーも、部屋にいない玉座の間。慣れ親しんだはずのそこに立ち尽くしていると、ランは言いようもない寂しさを感じた。

「……おや」

 唐突に背後から聞こえてきた低い声に、ランは思わず身構えた。

ここは勇者のランにとって敵の本拠地なのだ。

そんな当たり前のことに今さらのように思い当たったが、今のランには力となってくれる魔剣も、身を守ってくれる防具もない。ランはのこのこ丸腰でこんなところにまでやってきた自分を呪いたくなった。

「ほっほっほ……。そんなに驚かれなくともよろしいでしょうに。勇者殿」

 廊下から玉座の間へ入ってきた大きな影に、ランは警戒を緩めた。「確かあなたは……ドルジ、と言ったかしら」

「はい、勇者殿。覚えていてくださり、光栄にございます。ほっほっほ……」

 黒い鎧に全身を包んだ毛むくじゃらの魔人は大げさに両手を広げてもう一度笑う。ドルジ・バーンハート。ランがアンリの花嫁修業を本格化させるまで、この城の家事炊事を担っていたアンリの配下だ。

「ねぇ、魔王はどこに行ったのよ」

「魔王様は今朝キンダムへ向かわれました。なんでも『結婚する相手と会う約束がある』と朝からたいそう入念な準備をされておりましたが……」

 相変わらず濃い体毛に包まれたドルジの表情は読み取れない。「勇者殿こそ、魔王様をレオンハルト様のもとへご案内してくださったものだと思っておりましたが……」

「も、もちろんよ!」

 直感的に、ランはアンリの言う「結婚する相手」がレオンハルトではないと悟った。アンリがレオンハルトと今さら自主的に会うはずがない。きっと、彼女は……ユーキと会いに行ったのだ。

「そう、まだ帰ってきてないのね。あはは、レオンハルト様と魔王は案外、うまくやってるのかもしれないわね」

 渇いた笑みを浮かべてランはドルジの大きな胸板を見上げる。会話の機会は少なかったものの、この魔人はアシュリーと異なりレオンハルトとアンリの縁談を強く願っていることに、ランも気付いていた。だからこそ、ユーキの存在を知られては不都合だ。

「……なるほど、分かりました」

 ランが自らの機転に驚き始めた頃、再び重々しい声が降ってきた。

「ところで勇者殿。せっかくお越しいただいたのです。よろしければお食事でもいかがですか?」

「いいえ、遠慮するわ」

 そして、その機転が長持ちするとはラン自身も思っていない。できる限りの笑みを浮かべて、ランは言った。

「生憎私、イケメン男性以外のお誘いはお断りしているのよ」

 魔王のいない魔王城に、自らの居場所などない。

 そんな本音を押し隠すように、ランは笑みを貼りつけたまま玉座の間を去っていった。


「ほっほっほ……。イケメン男性以外はお断り、ですか……」

 玉座の間に一人、取り残された大きな影が笑みを漏らす。

「売れ残り風情が、大泥棒を演じようなどとはなんとも滑稽な」

 ゆっくりと、玉座に近づいたドルジが、もう一度「ほっほっほ」と笑みを漏らした。


     ◇◇◇


 ランがキンダムに帰ると、もう日も傾き始める時刻となっていた。

「はぁ……」

 城門をくぐってなお、ため息が止まらない。

……さっきからずっと、この調子だ。

そしてその度、自分が何を落ち込んでいるのか考える。……そう、きっと、これは時間を無駄にしたことに対する苛立ちなのだ。

「あ、あの、兵士長様!」

 城へと続く街道をフラフラと歩いていたランは自らの名を呼ぶ声に振り返る。最近城門のところで番兵をしている、長身の新人兵だ。城門のところから駆けてきた甲冑姿の青年は足を止めたランの前までやってくるとビシ、と長い腕で敬礼を決めた。

「今日もお勤め、ごくろうさまです!」

「今日は何もできてないわ」

 番兵としては何も悪意などないのだろうが、魔王城で空振りして帰ってきたばかりのランはどうしても卑屈になってしまう。そして直後に罪悪感。これでは番兵へのやつあたりだ。

「兵士長様。陛下が今朝、兵士長様をお探しでした」

「レオンハルト様が?」

 だが、そんな暗い気持ちも番兵の続く言葉に吹っ飛んだ。レオンハルトがランを探している。用件が何かは置いておいて、その事実こそがランに恍惚をもたらしてくれるのだ。

「他に? レオンハルト様は他に何か言ってたっ!?」

 無我夢中で番兵に詰め寄るラン。

 その鬼気迫る表情に圧されたように、番兵は後ずさって答えた。「……こ、ここを通ったら直接謁見の間まで向かうよう伝えてくれと、御言葉を承っております」

「こ、このまま!? どうしよう、私、今汗臭くないかしらっ!?」

「い、いえ、特に。むしろいい匂いがします……」

 脇を開いてランに迫られた番兵は顔を赤らめながら首を振る。ランもレオンハルトのことで頭がいっぱいだったからか、番兵が漏らした失言には気付かない。

「何にせよ、レオンハルト様が私をお呼びならば、シャワーを浴びてる時間もないわね。そうよ。レオンハルト様にはやっぱりありのままの私を感じてほしいもの!」

「あ、あの、兵士長様……」

 一人変な方向に盛り上がってしまっているランに、番兵がおずおずと申し訳なさそうに声をかけた。

「俺なんかが差し出がましいことを言うようですが、兵士長様が毎日、陛下のために尽くしておられること、俺は知ってますよ」

 兜に包まれた番兵の顔は相変わらずぎこちない。

「今日だって、兵士長様は陛下のために精一杯ご奉仕なさっています。今日だってその服……魔王を立派な花嫁にするためにわざわざ、魔王島まで向かわれたんですよね。しかも、身を守る武具を持たずに……」

 ……だけど、その声が温かく柔らかいものであることだけはランにも分かった。

「だから……兵士長様は兵士長様らしく、振る舞われたらいいと思います」

「……ありがとう、えっと……」

 不器用に笑おうとしている番兵の顔を見ていると、不思議とランはガチガチに緊張した全身が弛緩していくのを感じた。

「あ、すみません! そろそろ俺、持ち場に戻ります!」

 ランが言葉を探している内に、番兵はそそくさと城門へと戻っていく。

 その背中を見送ってから、ランは少しだけしっかりとした足取りで城への街道を再び歩き始めた。


     ◇◇◇


 キンダム城内はどこか張り詰めた雰囲気が漂っているように、ランには感じられた。

「兵士長様。陛下がお待ちです」

 いつも通り余所余所しい態度の若い次女が、そそくさとランの前を歩く。その後ろからついてくるのは衛兵二人。城内を行き交う人々からは遠慮のない冷たい視線が投げつけられる。いつものこととはいえ、これではまるでランが何か悪いことをしているみたいだった。

「陛下に粗相のないよう、よろしくお願いいたします」

「分かっているわよ」

 ピシャリと言い捨て、謁見の間の扉を衛兵たちと共に開く次女を睨みつけ、ランはそそくさと謁見の間へ入室する。緊張は先ほどよりマシになったとはいえ、この部屋に入る時にはいつも身が引き締まる。ランは生唾を呑み込み、顔をわずかにうつむかせながら、少し足を緩めた。

「アンリちゃんの嫁入りの日が決まらない」

 ランが跪くや否や、レオンハルトは珍しく苛立ちを含んだ声音で言った。「魔族どもは何か企んでいるんじゃないだろうか」

「……私には分かりかねます」

 鮮やかな赤い絨毯に目線を固定したまま、ランは咄嗟に答えた。魔族もこの縁談に関しては一枚岩ではない。アシュリーとドルジの二人の魔人の姿を思い浮かべながらもランが口を閉ざしていると、レオンハルトの長い溜息が謁見の間に響き渡った。

「顔を上げてよ、ラン」

「ありがとう存じます」

 レオンハルトは、玉座の後方……寝室につながる階段の窓を見上げるようにして立っていた。

差し込んでくる西日に目を細め、物憂げな様子で立ち尽くすその御姿もまた、美しい。ランは胸が高鳴るのを抑えるため、ヒッヒッフーと呼吸を整えようとしていた。

「アンリちゃんはどうしてる?」

「……レオンハルト様の花嫁として相応しい女となるよう、目下修行中でございます」

「そっか。苦労をかけてすまないね」

 アンリの花嫁修業自体は継続しているものの、それはもはやレオンハルトのためのものではなくなってきている。レオンハルトの期待を裏切った上にレオンハルトに対して嘘までついてしまった。その事実に、ランの胸は締め付けられたようにジンジンと痛んだ。

「アンリちゃんとの縁談は、キンダム人と魔族にとって大きな意味を持つんだ。隣国ディバインとの冷戦が続く今、魔族との関係の発展はキンダムにとって大きな意味を持つ。大変な役割を任せて申し訳ないけど、アンリちゃんのこと、しっかり頼むよ」

 だけど、ランの胸を焦がすのは罪悪感だけではない。

 疲れた笑みを浮かべるレオンハルトに、ランはやるせなさを抑えられなかった。ここでもアンリ、アンリ。ランの想いはいつまでたってもレオンハルトには届かない。もしも、このままアンリがユーキと仲良くなって結ばれて、アシュリーが約束通りキンダムと魔族を結び付けてくれたら、レオンハルトは喜んでくれるだろうか。ランを見てくれるだろうか。それを考えるのが怖くて、ランは思考を中断した。

「ねぇ、ラン。お爺様……初代レオンハルトはキンダム史に残る賢王だ。僕も……キンダム史に名を遺す、そんな王となれるだろうか」

「もちろんでございます。現に、レオンハルト様は先々代の生まれ変わりとのお声が国民の間でも、」

「僕はお爺様になりたいわけじゃない!」

 突如響いた、今まで聞いたことのないレオンハルトの刺々しい叫びに、ランは固まる。

 幾度となく魔王と命のやり取りをしてきたランだが、この時のレオンハルトの憎しみの籠った形相は、魔王以上に恐怖を感じさせるものだった。

「……すまない、ラン」

 だけど、それも一瞬のことだった。

 レオンハルトは元の疲れた笑みをすぐに浮かべて、ゆっくりと玉座に腰かけた。憂いを帯びた碧い瞳が細められる。この瞳にずっと見つめられていたい。この視線を独占したい。そんな想いが胸の奥で再び強く、燃え始める。

「本題に入ろう。近く、アンリちゃん本人と会おうと思っている」

「そ、それは……」

 唐突な意思表示に、ランは戸惑った。

 今、アンリはレオンハルトに全く興味を持っていない上、ランの気持ちをレオンハルトに話さないとは限らない。しかも、アンリの花嫁修業自体は最近になってようやく実を結び始めた段階だ。これではランがレオンハルトの縁談のために、さほど役立っていない事実が露見してしまう。

「どうやら、僕が直接出張っても、相手はなかなかアンリちゃんを出してくれないようだ。そこで、僕は君にお願いしたい。アンリちゃんをこのミッドラン本土まで、連れ出して、僕と逢引きさせてほしいんだ」

 引き受けてはいけない。

 ランの理性的な部分が、脳内でそう囁く。

 だが――

「かしこまりました。必ずや、その役割、果たしてみせます」

 気付けば、ランはそう答えていた。

「助かるよ、ラン」

 そう言い残して、寝室へ続く階段をのぼっていくレオンハルト。

 その背中を茫然と眺めながら、ランは激しい後悔を感じていた。


     ◇◇◇


 私はレオンハルト様に尽くす女。自分の気持ちなど関係ない。

 まるで自己暗示をかけるみたいに、ランは一日に何度も自身に言い聞かせるようになった。

「洗濯物にシワが少し残ってるし、廊下の掃除も全体的に隅の埃が取れていないわ。やり直し」

「えぇ……。なんか最近勇者、キツイぞ……」

 額に汗をかいたアンリが悪態をつくが、ランは取り合わない。

「あと、今作ってる味噌汁、出汁の足が強すぎて下品な味になってるわ。以後気をつけなさい」

「まるで嫁をいじめる小姑でございますね」

「何を言っているのアシュリー。魔王はレオンハルト様に嫁ぐのよ? こんな状態じゃ話にならないのよ!」

「……結局、勇者様も、」

 恨めしげにアシュリーは何かを言いかけた後、口をつぐんだ。もちろん、ランは取り合わない。

「……アシュリー。ユーキさんとはどうなってるの?」

 文句を言いながらも部屋を出ていくアンリを見送って、ランは言った。「この間、私がここに来た時も会っていたみたいだけど」

「さぁ? 魔王様にお尋ねになった方がよろしいかと」

「知らないのね。主のことなのに」

「年頃の魔王様が出かけるのに干渉するほど、私も過保護ではございません故」

 どこまでも素っ気ないアシュリーに、ランは「そう」とだけ答えた。

 ユーキとアンリがどこまで仲を発展させているのか。こうなると、それはランの目的遂行のための懸念事項でしかない。そして二人の関係については確かに、アシュリーの言う通り、アンリに尋ねたら出るのだろう。

 だけど、ランはどうしてか、アンリにユーキのことを尋ねるのが怖かった。

「今日の夕飯の時にでも魔王様に尋ねられてはいかがです?」

 機械的な口調でアシュリーが言う。それができればどれだけ楽だろう。

レオンハルトに尽くすと言いながら、ユーキにも未練を持っていると魔王に悟られたくない。

だから、ランはアンリと直接ユーキの話をしたくないのだ。

……きっと、そうだ。だから、こんなにアンリからユーキの話を聞かされることを怖れているのだ。

「残念だけど、今日は私、もう帰らないといけないの」

「おや、驚きました。魔王様のお料理を召し上がらないのですか?」

 言葉とは裏腹に、あまり驚いた様子のないアシュリー。彼女はわずかに目を伏せて呟いた。「魔王様はがっかりなさるでしょうね」

「人との約束があるのよ。しょうがないじゃない。……じゃ、そういうことだから」

 嘘ではない。

 それでも、ランはアシュリーから目線を逸らした。

「……仕方ありませんね。門のところまでお見送りいたします」

「そう。悪いわね」

 まるで逃げるように魔王城の台所から早足に去るランに、アシュリーが続く。廊下の窓から眩い斜陽の輝きが差し込んできて、ランは顔をしかめて俯いた。

「本当に、魔王様に黙って帰られるのですか?」

 城門までたどり着いたランの背中に、アシュリーが声をかける。

「今日の献立はイモニクでございます。魔王様も、勇者様にお料理を振る舞うため、大層意気込んでおられましたが……」

「言ったでしょ。約束があるの」

 どこか強張った声でピシャリと言って、ランは門の外へ早足のまま去っていく。

 一度も振り返らない背中は、アシュリーから見て心なしか小さく見える気がした。


     ◇◇◇


「こんばんは、ランさん。なんかすみません、お時間いただいてしまって……」

 キンダム城下にあるとある酒場にて。

 ランの待ち人が現れたのと、外で定時の鐘が六度鳴るのが同時だった。

「いえ、私こそお誘いいただきありがとうございます」

 ややぎこちなくランが応じる。いつもの通いなれた「ロイヤルチキン」とは違う、心なしか洒落た感じのするカウンター席だけの酒場。ここを指定したのは、ユーキだった。

「ランさんは何を飲みますか?」

「私はゴールデンポップ……いいえ、果実酒かしら。何かユーキさん、おすすめはありますか?」

「実は僕もあまりお酒詳しくなくて。店員さんに訊いてみましょうか」

 カウンターの中でゆったりと動く二人の店員の内、ユーキは人のよさそうな女性の方に声をかける。「葡萄酒がおすすめだそうですよ」とにっこり笑うユーキに流されるがままに、ランはオーダーを済ませた。

 それを最後に沈黙が訪れたので、ランは店内を見渡した。

 店内にはランたち以外の客はおらず、女性店員が何やら調理を行う音だけが聞こえてくる。全体的に薄暗い灯りに照らされた店内には落ち着いた雰囲気が漂っている。

「お待たせしました」

 男性店員が低い声と共に、グラスを二つ置く。二つとも濃い赤色の葡萄酒。グラスの半分くらいが満たされている。ユーキが再び柔らかな笑みを浮かべ、グラスを一つ、ランにすすめた。

「乾杯しましょうか」

「えぇ、そうね。そうしましょう」

 カン、と短い音を打ち鳴らし、二つのグラスが離れる。ユーキはそのままチビリと口をつけ、ランは香りを楽しむかのように少しグラスを唇の前で傾けた後、コクリと喉を鳴らした。

「……お察しかと思いますが、アンリさんのことなんです」

 一口目の葡萄酒を飲んだ後ボーっとしていたユーキが、ようやく口を開いた。近くでグラスを磨いている初老の男性店員を気にする素振りを見せながら、おずおずと声を潜めるユーキに、ランは苛立ちを少しだけ感じる。そしてそんな自分の気持ちに気付き、ランは驚きと、自己嫌悪を抱いた。

「アンリさんは、他に気になっている方がいらっしゃるのでしょうか?」

 やがて、意を決したようにユーキは話した。「ご友人のランさんなら何かご存じかと思いまして……」

 考えるまでもなく、レオンハルトの顔が思い浮かんだ。ユーキは、アンリに関することを知らなすぎる。そう考えると、ランは笑いを抑えられなくなってきた。

「ラ、ランさん……?」

 そんなランの反応に、ユーキが上擦った声をあげる。

 例えば、アンリが魔王であること。

 例えば、アンリが絶望的なまでに家事ができないこと。

 例えば、アンリがキンダムの劇画を愛好していること。

 例えば……アンリが困っている人に対してとても優しくしてくれること。

 そうだ、ユーキはアンリのことを知らなすぎるのだ。

「ごめんなさい、私が彼女の『ご友人』ってのがおかしくて」

 困ったようにランの言葉を待っていたユーキに、ランは適当な言葉を返す。それに、これはいい機会だ。

「私は、アンリ・マユの教育係なの」

「教育係? それは何の教育なんです?」

「花嫁修業よ」

 酔いが回ってきたのか、ランの口調には迷いがない。空っぽのグラスを固く握りしめたまま、ランは言葉を続けた。

「彼女には元々婚約者がいる。だから、本当はあなたなんかが手を出していい相手じゃなかったのよ!」

「ちょ、ちょっと待ってください」

 グラスに手をかけたまま、ユーキは真顔で固まった。静かな酒場の中、ランの言葉だけが響いている。

「婚約者ってのは……誰なんです?」

「事情は詳しくは話せないのだけれど」

 さあ、折れろ。

 口元に笑みすら浮かべながら、ランは真っすぐにユーキを見つめた。

「アンリ・マユは国王様……レオンハルト様の花嫁候補なのよ。だから、」

 ユーキの口がぽっかりと開いたのを見て、ランは艶やかな笑みを浮かべた。

「私で我慢しておきなさい。あなたが私のことを好きでいてくれるのならば、私はあなたを全力で愛し続けるわ」

「どうして……そんなことを」

「言ったでしょう? 私はあなたのことも、好きなのだから」


 不思議と言葉は自然と出た。それは酒の勢いで転び出た言葉だったのかもしれないが、ランの本心の一部でもあった。

 レオンハルトへの恋慕と忠誠心。そしてその狭間を埋めるのに、ユーキという「都合のいい男」の存在を欲した孤独感。

 自身の心の図式をこれ以上見てみぬふりするには、ランは脆すぎた。

 

     ◇◇◇


 前日とは打って変わって、朝からしとしとと長い雨が続いていた。

 キンダム城の領地内にある寮の自室から、ランはさっきからずっと窓の外を眺めている。今頃、アンリとユーキは会っているのだろうか。そう考えると、胸の奥がまたモヤモヤし始めた。


「……明日、アンリさんとお会いする約束をしています」

 結局、ユーキはアンリのことを諦めなかった。

「その時に、真剣なお付き合いを申し込もうかと思っています」

「……私じゃやっぱり不満かしら」

「いいえ。ただ、僕はランさんではなく、アンリさんに惚れてしまったので」

「相手はレオンハルト様よ? 叶う恋じゃないわ」

「恋は叶うかどうかではありません。するかどうか、です。僕はアンリさんに恋をしています」

 普段から優男にも見えるユーキの瞳が、この時ばかりは強い意志に満ちていた。そしてこの瞬間、ランは説得を諦めた。本気で一人の相手に恋をする人間は強い。それは、レオンハルトを長年思い続けてきたランにも、よく分かっていたことだった。

「……今日はありがとうございました。今日のランさん、なんだか話しやすかったです」

 別れ際、ユーキにそんなことを言われた。酷いことを言ったつもりなのに、人の良いことだ。

「だけど……ランさんにも自分を大切にしてほしいです」

 ちょっぴり心配そうな顔をしてくれたユーキに、ランは愛想笑いを浮かべて別れた。本当は心がチクチク痛んでいた。……だけど、顔では何とか笑えたはずだ。


 アンリとユーキはどうなるのだろう。

 そんなことを考えてみるけど、雨の音がノイズとなって思考がまとまらない。ひょっとしたら、レオンハルトとアンリを逢引きさせる余地なんて残っていないのではないだろうか。そんな言い訳じみたことを考えている自分に気付き、ランはまたも自己嫌悪に陥った。

「ほんと、バカみたい……」

 もうこうなったら魔王のことなど無視して、レオンハルトのことだけ考えればいいのに。これはレオンハルトへの想いを熟成させてきた自分にとってチャンスなのに。理屈では分かっているのだが、ランの気持ちはやはり晴れてこない。

 こういう時にアミがいてくれれば……。

 ランは目の前にあるルームメイトの机を眺めた。二人同じ部屋で暮らしてはいるものの、そういえばここ数日はお互いの都合が合わず、ゆっくりと話せていない。

 ポツン、ポツン……。

 雨粒が窓枠を叩く音に、ランはしばし耳を傾ける。

アミの言う通り、ランはアンリとの花嫁修業に充実感を覚えていた。

だけど、本当にそれだけなのだろうか? 

陰鬱な逡巡の中、ふとランはそんな疑問を抱いた。

ユーキとアンリの仲は、レオンハルトとの縁談ほど性急な話ではない。このまま、だらだらと今まで通り、アンリの変化を見守ればいいだけの話ではないか。

……その頻度は、減っていくのだろうけれど。

 コツン、コツン……。

 その時、雨音に混じって聞こえてきた弱々しい異音を、ランは捉えた。

 すぐさま、それが窓とは反対側、部屋の扉が遠慮がちにノックされた音だと気付く。すぐに、友人の顔が思い浮かんだ。

「アミ、どうし……」

 飛びつくように扉を開いたランだったが、そこに立っているのはアミではなかった。代わりに立っていたのは、甲冑姿の青年。見覚えがある。確か……。

「あなた……城門の番兵ね?」

「は、はい! 兵士長様!」

 青年はわずかに上擦った声で答える。よく考えたらアミにとってここは自室だ。ノックの必要などない。それにしても甲冑姿だけでも堅苦しいのに、ここまで畏まられては敵わない。青年には何の非もないが、アミの登場に期待をしていたことも手伝って、ランは早くも青年に興味を失い始めていた。

「私の部屋に何か用かしら? 何なら私を抱いていく?」

「お、お戯れを……」

 乱雑な口調でふざけてみたが、青年は赤面してしまった。これじゃ自分が尻軽女みたいじゃないか。いらぬ冗談を口にしたことをランが後悔していると、青年は小さく咳払いをした。

「城門のところに客人が来ております」

「お客? 私に? そんなのここまで通せばいいじゃない」

「いえ、それが少々怪しい女でございまして……」

「怪しい?」

「はい。全身を黒ずくめのローブですっぽり隠しておりまして顔には鉄仮面、両手には黒い手袋と肌の色も分かりません。身体のラインからして、女性であるのは恐らく間違いはありませんが、肌の色も分かりませんし隣国ディバインの間者の可能性もあります故……」

 相変わらず緊張した様子で青年は報告する。そんなにガチガチにならなくても取って食べたりしないのに。デカい図体をしている割には気の小さな男だ。内心で青年の態度に苛立ちを感じながらも、ランは頷いた。「分かったわ。私を案内しなさい」

「は、はい!」

 城の人間のランへの態度は大きく分けて三種類だ。

 ある者は露骨に敵意をぶつけ、ランを疎外しようとする。

 ある者は露骨にランに対しておべっかを使い、ランに取り入ろうとする。

 ある者は露骨にランに対して怯え、極力ランを避けようとする。

 この青年は、タイプ的には三つ目のパターンだろうか。そう思ったが、寮の廊下を歩く青年の歩みは思いの外軽やかだ。前を歩く青年を何となく観察しながら、ランは少し首を傾げていた。

「あ、あの、傘はお持ちですか?」

「あぁ、そういえば忘れてしまったわ」

 寮の入り口から城の裏口に当たる庭に出た途端足を止めた青年に、ランは慌てて足を止めた。空を見上げると、パラパラと細やかな雨粒が目に入る。ひんやりと冷たい雨粒に晒されている内に、ランはなんだかおかしくなって小さく笑った。「いいわよ、傘なんて。私が濡れたところでもう誰も困らないわ」

 魔王はキンダム人と恋に落ちた。

 きっとこれからはランが何もしなくても、アンリはユーキと仲を深めるだろう。キンダム人と魔族の間には友好が結ばれるだろう。レオンハルトの望み通り、そして、ランの望み通り、

「いけません!」

 鼻先をつついていた冷たい雨粒の感触が唐突に収まった。

「自分は兜があるので平気です。ですが……兵士長様は生身のお身体。お風邪を召されては一大事でございます」

 見上げると、青年がランの濡れた頭の上に傘をかざしていた。ランの視線に気付いた青年は慌てたように視線を逸らした。

「……客人を待たせるのは良くありません。早く門へと参りましょう」

「……ありがとう」

 傘を受け取ったランは、雨を弾く青年の甲冑に包まれた背中に続く。

 人類最高戦力は、あまりにも弱い。

 こうして人の好意無しには生きていけないのだから。

 それでも……。

 ランの気持ちは自分でも驚くほど晴れやかになっていく。

「あなた、いつも門前にいるでしょう?」

 黙々と雨を弾きながら歩く背中に、ランは声をかけた。「寂しくないのかしら?」

「二人で番をしてますからね。話し相手もいるし、仕事も少ないし、暑いのやら寒いのやらを除けば、意外と快適ですよ」

「それでも、もう一人の番兵以外と話す機会が欲しいとは思うことはないの?」

「そうですねぇ……」

 ランが問いを重ねると、青年は少し考え込むように街並みを見渡した。釣られるように、ランも城下の街並みを見渡す。人。人。人。同じ城下に住んでいる彼らのほとんどの名前を、ランは知らない。

「兵士長様は、この城下町に住む人間全員と仲良くなりたいと思いますか?」

「そんなの無理よ」

「ですよね。俺も無理です」

 青年は軽く振り返って笑みを浮かべた。

「人と人の繋がりって、取捨選択なんです。誰かと仲良くするってことは、それだけ他の誰かと仲良くなる可能性を削ってるようなもんですよ。だから、俺は今の立場でも楽しいです。相方は面白いやつですし、一日に何人かは話しかけてくれる人がいる。顔を覚えてくれた町の人間だっています」

「そう……」

 青年の言葉にランは頷く。

 考えてみれば、ランにはアミがいる。

 それに最近は……

「勇者様!」

 二人の会話は突然近づいてきた足音に遮られた。

「おい、止まれ」

 青年が剣を抜き、その切っ先を向ける先。

 鉄仮面に黒いローブをまとった長身の女性が、後に続くもう一人の番兵の男を振り切って走ってくる。

「お願いです、お力をお貸しください!」

 悲痛な響きを含んだその声に、ランはハッとした。最近、耳にすることが多かった声。いつもの落ち着いた声音とは異なる上に、鉄仮面でくぐもった声になっているものの、忘れるわけがない。

「……やめて。彼女は私の客よ」

「し、しかし……」

「いいの、大丈夫よ」

 青年と追ってくるもう一人の番兵を制し、ランは女の手を取った。

「とりあえず、町の外までいきましょう。ここでは目につきすぎるでしょう、アシュリー」

 なおも訝しげな番兵二人に丁寧に礼を言い、ランは黒ずくめの女、アシュリーを門の外へ連れ出した。

「それで、わざわざこんなところまで来てどうしたのよ」

 珍しく取り乱すアシュリーは鉄仮面を取ることもなく、勢いよく頭を下げた。

「申し訳ございません! ユーキ様がさらわれてしまいました!」


     ◇◇◇


「さ、さらわれたって……。誰にさらわれたというの? まさか盗賊とか?」

 昨日、別れ際に優しい笑みを浮かべてくれたユーキの顔が脳裏を過る。

 アンリに想いを告げると意気込んでいたユーキ。その彼が、災難に見舞われたと聞いても、ランは信じられなかった。

「いいえ……」

 鉄仮面を被ったままアシュリーが首を小さく振る。その表情は相変わらず見えないが、仮面の下の表情が良くないのは挙動を見ていれば一目瞭然だった。

「……海に向かっているようだけど、魔王たちはこっちにいるの?」

 ランの問いに、早足で進むアシュリーは答えない。

「……ねぇ、アシュリー。そろそろ話しなさい。ユーキさんはどこへ行ってしまったの? 魔王は何してるの?」

「魔王様はユーキ様を追っていかれました」

 無人の砂浜で足を止め、アシュリーは霧がかった水平線を見つめていた。波が雨粒を呑み込み、荒々しく浜辺に打ち付けている。今この瞬間にもその波は目の前で立ち尽くすアシュリーを呑み込んで、自分の前からさらっていってしまうのではないか。打ち寄せる波と無言の背中を眺めていると、ランはさらに不安に駆られた。

「……助けてください、キンダムの勇者様」

 不意にアシュリーが振り返り、鉄仮面を外す。

その瞳は憔悴に淀み、元々青白い肌は悲痛なまでに蒼白になっていた。

「……あっという間でした。ユーキ様をさらったのは、私たち魔族です。一部の魔族が……魔王様とユーキ様の仲を良く思わない輩が、反乱を起こしてしまったのです」

「っ……!」

 ランが唇を噛んだのは、魔族を憎んでのことではない。

 そうではなく……これは十分に想定できることだったのだ。

 ランは、ユーキをアンリにあてがえば、レオンハルトの縁談は無効になると考えていた。

 でも、それはキンダム人の都合でしかない。レオンハルトとの縁談が流れたら困る者が、魔族にもいる。それを察してしかるべきだったのだ。

「……分かったわ」

 ランは大きく頷き、来た道を引き返し始めた。

「アミの所にいって、魔剣を取ってくるわ」

「ユーキ様はおそらく、私たちのお城に監禁されております。魔王様も……」

「大丈夫よ」

「どうか……勇者様。私たちをお許しください」

「大丈夫だって」

 アンリは確かに粗雑だし、言うことを聞かない、ランにとっての宿敵だ。

 だけど、今のアンリはユーキにもしものことがあった時、必ず悲しむ。現に彼女はユーキを助けるために彼を追っている。そして何より、ランは心のどこかで、アンリの悲しむ顔を見たくないという気持ちを持っていた。彼女に、大切な人を奪われる悲しみを味わってほしくなかった。

「魔王は強いわ。案外私が行くまでもなく、どうにかなるかもしれないわね」

 ランはアシュリーを落ち着かせるように、微笑んだ。本当は怖い。魔王は強いが今回の敵は身内だ。どんな計算が敵にあるのか分からない。

「……さぁ、あなたは先に魔王を追いなさい。私は魔剣を回収してすぐに追いつくわ」

「……最後に勇者様。一つだけお教えください。あの魔剣は普段、どちらに保管されておりますか?」

「キンダム城の祭殿よ。それがどうしたの」

「いえ……。勇者様。どうか、お気をつけて。何かございましたらまずはこの浜辺までお戻りください」

「……戻ったってあなたはもう魔王を追って城に戻っているでしょう?」

 どこか歯切れの悪いアシュリーに首を傾げながら、ランは駆けだした。


 砂浜から遠ざかってゆくランの背中が小さくなっていく。

 その影が小さな黒い点になった頃、アシュリーはもう一度小さく呟いた。

「勇者様。私たちをお許しください。……私たちはあなたを本物の『悲劇のヒロイン』に仕立て上げてしまったのかもしれません」


     ◇◇◇


「――ありがとうございました、巫女様。そうですね、私ももう少し、妻と向き合ってみたいと思います」

「いえいえ。あなたにも奥さんにも、精霊様の御加護がありますように」

 祭殿から去っていく男の背中を見送り、アミはふぅ、と息を吐いた。「結婚できなくて大変な人もいるけど、結婚できたらできたで大変なんだねぇ」

 アミは城内での勤めの内、多くの時間をこの祭殿で過ごしている。

本来はここで祭られる魔剣の言葉を受け取る「巫女」の役割ではあるが、魔剣の言葉をアミが受け取ったのはランが魔剣に選ばれた時だけだった。つまり、彼女の仕事のほとんどは祭殿にやってくる来訪者への対応である。

 祭殿へやってくる者は魔剣に選ばれたランを除くと、大体二つのグループに分けられる。

一つ目は怪我や病気の治癒、あるいは魔族や魔具から受けた呪いを解きに来る者だ。彼らに対しては魔剣の力の一部を借りることで対応し、「お布施」という形で少額の料金を取っている。もちろん、そのお金は城に献上だ。

 二つ目は、今の男のように悩みの告白に来る者だ。先代の巫女の時は、このような「悩み相談」に来る者はほとんどいなかったのだが、アミの人柄なのか、今やキンダムの人間にとって巫女は「相談役」という認識になっているらしい。下手をすれば、「お布施」を払わない者までいる始末だ。

「頼られるのはいいことなんだろうけどねぇ……」

 やれやれ、とばかりにため息を吐きながら、アミは立ち上がる。今日は相談者が朝から絶えず、日課である祭殿の掃除すらする時間がなかった。今がそのチャンスだ。愛用のハタキを手に、アミは祭殿最深部の祠へと向かう。……ここに祭られているのが、ランの使う魔剣「万物の根源(ゼロ)」本体だ。

「最近また、調子悪そうだよね……。今日は早めに部屋へ帰ってあげようかな」

 その魔剣を眺めていると、どうしてもランのことを考えてしまう。

ランの心は脆く移ろいやすい。

しかも、雨の日は特にランの心もネガティブになりやすい。

本当に大丈夫だろうか。

堂々巡りになる自らの思考を振り払うように、アミは祠の埃をハタキで払い落とした。

 雨の音が祭殿の屋根を叩き、その音が閉ざされた室内を満たしていく。一日中こんな音を聞かされ続ければ、自分も憂鬱に支配されてしまいそうだ。アミは首をぶんぶん振りながら、祠の掃除を続けた。作業に集中していれば、余計なことは考えなくて済む。

「ん……?」

 雨音の聞こえ方が変わった。

 しばらく掃除に集中していたアミはふと、手を止める。わずかに肌で感じる冷たい風。少し遅れて聞こえてきた、重々しく扉が閉まる音。続いてカツカツとこだまする足音。やれやれ、またか。ハタキを手にしたままアミは背後に声をかける。「はーい。そこのソファーに腰かけて少しお待ちくださいねー」

 早足に近づいてくる足音は言葉を返さない。

それどころか、足音はソファーが置いてある地点を通り越し、祠へと近づいてくる。ようやく訝しく思ったアミはハタキを持つ手を再び止めた。

「もしかして、ラン……?」

 どうしたのだろう。今になって魔剣が必要となるなんて。何かよくないことがあったのだろうか。まったく、ランは最近アンリのことばかり考えている。

 自然と浮かんできた苦笑を抑えることもなく、アミは祠の上の魔剣を手に取り、振り返った。


     ◇◇◇


 帯剣と甲冑の装備を済ませたランは再びキンダムの海岸に戻ってきた。

 雨は先ほどまでより強くなっており、波は荒々しく渦巻いている。ランは浜辺で舟を探していたが、やがて苛立たしげに砂浜を踏みしめた。

「もう、どうしてこういうときに限って!」

「勇者様!」

「……アシュリー? あなた魔王を追ってたんじゃなかったの?」

 声のした方向へ視線をやると、雨風の中、びしょ濡れの給仕服を着たままアシュリーが鉄仮面を片手に駆けてきた。白と黒のドレスには茶色い泥がこびりつき、長い髪先からは大粒の水滴が滴り落ちている。

「勇者様。まさかこの雨の中、島まで泳いで行かれるおつもりですか?」

「行かないわよ!」

「ではまず服を脱ぎましょう。私もすっぽんぽんになりますのでどうかご安心を」

「だから泳がないって! 何を安心しろっていうのよ!?」

 出会いがしらにボケるアシュリーに喚きながらも、ランは少し安心した。少なくとも、さっきよりはアシュリーも落ち着いたようだ。

「……もしかして舟を探しておられますか?」

「えぇ、だけど見つからなくて……」

「しかし勇者様なら……」

 もの言いたげに一瞬、アシュリーはランの腰元に視線をやった後、小さく首を振った。「いえ、勇者様。事は一刻を競います。よろしければ私の転移魔法でお城まで飛びますが」

「……! 助かるわ!」

「かしこまりました。もとよりそのつもりで勇者様を待っておりました故」

 文字通りの渡りに船だ。

 アシュリーの申し出にランは食いつくように頷いた。

「……では勇者様。私に密着するようにして抱きついてください」

「分かったわ」

「……自分で言っておいてなんですが勇者様、相変わらずチョロ……流されやすいですね」

 濡れた身体同士が絡み合う。

 自らの腰に回された冷たい手を握り、アシュリーは集中力を高めていった。

「勇者様。気持ち悪くなると思うので、目を閉じていてください」

 一瞬、世界の音が止んだのをランは感じた。

 続いて、全身を打つ冷たい雨の感触、最後に閉じた瞼の向こうで感じていた弱々しい光が消える。


「……もう大丈夫ですよ。勇者様」

 気付けば、再び雨の音が全身を打っていた。

 おそるおそる目を開けると、アシュリーが身をよじるようにして離れた。「これ以上抱きつかれていると私、百合汁プシャーしてしまいそうです」

「……相変わらず魔族の魔術はすごいわね」

 アシュリーが浮かべる恍惚の表情に気付かず、ランは周囲を見渡す。雨が降りしきる木々の中。何度も通った道、ここは魔王城と海岸を結ぶ、魔王島の林道だ。

「魔王たちは城にいるのね……」

 雨が降りしきる空には、暗雲が立ち込めている。

 ランはやがて、迷う素振りもなく城への道を駆け出した。ぬかるみに足を取られそうになりながらも、ランは足を速める。……ここで立ち往生するくらいなら、最初から魔剣を取りに城まで戻ったりしない。

「勇者様、お気をつけてください!」

 アシュリーが叫んだのと、ランが回避動作に入ったのは同時だった。

 灰色の雲から雨粒を切り裂くように黒い魔弾が飛来する。

「……ったく、この間までとはえらく違った歓迎の仕方をしてくれるわね」

 柔らかくなった土に滑りながらも、ランはなんとか踏ん張った。その視線の先には翼を生やした赤眼痩躯の青い魔族が飛んでいる。

「……いくら私が魅力的でもそんなにがっつかれると困っちゃうわ」

 浮遊する青い魔族の登場を待っていたかのように、周辺の林道から大型の黒い魔族が次々と現れた。ランがアンリと交戦を続けていた頃何度も戦っていた、魔術を行使しない鈍器などを装備した近接型の低級魔族。だけどこの数になると、さすがに厄介だ。

「だから、援護は頼んだわよ!」

 振り返ることもせず、ランは剣を抜き、黒い魔族の群れに突っ込んでいく。上空の青い魔族が当然のように再び魔弾を放つ動作に入るが、それには目もくれない。

「悪いけど私、レオンハルト様みたいなイケメンかユーキさんみたいな優しい人以外お断りよ!」

「その通り、勇者様は虫すらつかない腐った果実でございますからね!」

 先頭の黒い魔族を叩き切ると同時に、アシュリーの指先から鋭利な氷柱が伸び、一瞬にして青い魔族を貫く。断末魔の叫びをあげる青い魔族が地面に落ちるのを振り返ることもなく、ランは新たに敵を叩き切る。

「何よ! どいつもこいつも私のこと敬遠して! そんなに強い女が嫌いなのかしら!?」

「強い女はともかく、面倒くさい女は嫌われる傾向にございます!」

 ランを取り囲んだ五体の魔族が一瞬にして氷漬けとなり、その氷と共に四散する。雨粒に溶けゆく氷の残骸を蹴り飛ばして、ランはさらに剣を振う。

「アシュリー! 先を急ぐわよ!」

 多勢に無勢。

 それでも確かに勝機はランたちにあった。

 怯んで陣形を乱した黒い魔族の間を切り裂くように、ランとアシュリーは駆ける。途中、空から青い魔族が襲来したが、ランはこれを正面から斬り捨て、難なく叩き落した。

 幸い、ここからなら城まであまり距離はない。降りしきる雨の中、二人は城までの林道を駆ける。泥が跳ねようが足が滑りそうになろうが、足を止めたらまたすぐさま黒い魔族に追い付かれ、取り囲まれる。

「……ねぇ、アシュリー。本当に魔王は、ユーキさんを取り戻すつもりなのね?」

「当然でございます」

「魔王はどこへ向かったの?」

「それはきっと……玉座の間でしょう」

「……分かったわ。とにかく魔王に合流しましょう」

 島について以来胸の中で膨らんでいく違和感に首を傾げながら、ランはやはり先行する。これは魔族サイドの問題だ。恐らく敵の狙いは二つ。アンリとユーキとの関係を断つことと、アンリとレオンハルトの縁談を強引に進めること。……だけど、反乱を起こしたのは誰で、それをアンリは分かっているのか? だとしたら……彼女はどうするつもりで、単身城へ戻ったのだろうか。そして、アシュリーの煮え切らない態度も気になる。

「あぁ、もう……」

 目の前に現れた新たな黒い魔族を斬り伏せ、ランは苛立たしげに舌打ちした。

どうするつもり? そんなもの、自分だって分からない。

この様子では、最悪アンリとアシュリー以外の全ての魔族が敵に回っている可能性すらある。そんな大軍相手にしてまで、何がしたいのか。ランはそれすら分かっていない。分かっていないけれど、足は止まらない。まるで本能がそう仕組まれたかのように、アンリが待つ魔王城へと向かっている。

「勇者様、城内は中級魔族もいるかもしれません!」

「分かっているわ」

 一度背後を振り返って、ランは覚悟を決めたように魔王城の城門を開け放つ。黒い魔族の大軍は林道の中で撒けたのか、もういなかった。

「……意外と静かね」

 城門を開け放ったまま城の庭園に踏み込んだランは、拍子抜けしたように呟いた。てっきり、城門を開いたら庭中に魔族が待ち受けているかと思ったのに。内心で安堵しながら、ランは真っすぐに城の表玄関へと向かった。

「……敵が現れたら頼むわよ」

 さっきまでと違って、ゆっくりとランは城の廊下を歩いていく。足音を忍ばせて、まるで泥棒のように。どうして自分がこんなコソコソとしないといけないのか。ランは自らの力不足を痛感せずにはいられなかった。

 曲がり角を一つ、二つ……。この廊下に、玉座の間への入り口がある。

 扉のノブに手がかかるその瞬間まで、二人は足音を忍ばせ続けた。

「……この先に、いるのかしら?」

「おそらくは……」

 今になって迷ったところで仕方がない。

 二人は頷きあって、扉を力任せに開いた。

「魔王!」「魔王様!」

 まず初めに見えたアンリの小さな背中に、二人が声を上げる。

 アンリの向こうに見えるのは、玉座に磔(はりつけ)にされるように座らされた下着姿のユーキの姿。そして、その隣で悠然と笑みを浮かべているのは、

「ほっほっほ……。結局彼女に縋りましたか」

 魔王城でアシュリーの配下として動いていたはずのドルジだった。


     ◇◇◇


「あなたが、ユーキさんをさらったのね……?」

 怒りを隠す様子もなく、ランがドルジを睨む。ドルジは全くそれを意に介した様子もなく、「ほっほっほ、申し訳ございませんねぇ」と微笑んだ。

「勇者、すまない。あたしたちのせいで、こんなことに巻き込んじまって……」

 背を向けたままのアンリの表情はランには分からない。

「……ここは、あたしに任せてほしい。今、ドルジと交渉中なんだ」

「交渉? 魔王様、それは……」

「もちろん、魔王様とレオンハルト殿との縁談の件ですよ、アシュリー様。あなたたちがいらぬ気を起こさなければ、私もこのような勝負に出る必要もなかった」

 全身を緊張させるアンリに代わって、ドルジが答える。その姿は堂々としており、余裕を感じさせるものだった。

「さぁ、魔王様。もう一度言います。今すぐにこの男を諦め、レオンハルト殿との縁談をご決意ください」

「それは……」

 ドルジの要求に、アンリが身を震わせる。

 アンリが強い葛藤と戦っているのはその後ろ姿を見ているランにも分かった。

「ほっほっほ。どうしてあなたに迷う余地があるんですかねぇ」

 アンリが黙り込んでいると、ドルジが相変わらず余裕しゃくしゃくの笑みを漏らす。

「断ればあなたの最愛の人はここで死ぬ。それに、レオンハルト殿との縁談自体は悪い話ではなかろうに」

「それでも、あたしは……!」

 初めて、アンリが助けを求めるようにランを振り返った。

 泣きそうな少女の顔は、「どうしたらいい」と言わんばかりに弱々しい。

「ほっほっほ。まったく、魔王様も弱くなったものです」

 ドルジは手にしたナイフの柄でユーキの額をコツコツと突いた。

口をふさがれたユーキはくぐもった悲鳴を上げ、アンリが「やめろ!」と叫ぶ。

そこまで、アンリはユーキのことを想っているのか。

そう思うと、ランはアンリのことが羨ましくなってくる。同時に、この期に及んでそんな感想を抱いてしまう自分に嫌悪感を抱いた。

「人間の男を人質に取られ、人間の勇者に助けを求める。あなたのような恥知らずが魔族を率いては、魔族は栄えることなど到底できない!」

「黙って聞いていれば調子に乗って!」

 ドルジの言葉にアシュリーが殺気を膨らませる。だけど、アンリは「手を出すな」とばかりに制止のポーズを取った。

「……なぁ、ドルジ。あたしさ、人間という生き物を初めて知ったんだ」

「そんな知識、魔王であるあなたには不要です」

「最初はあたしもそう思ったよ。レオンハルトとの縁談が決まって、その花嫁修業とかいってランが来てさ。どうしてこんな面倒なこと、あたしがしなきゃいけないんだろって思った」

 アンリの言葉が途切れる度に、窓の外の雨音が聞こえてくる。

「人間って、本当に面倒くさいんだ。結婚する相手も探さなきゃいけないし、結婚したらしたで、相手のこと考えて生きていかなきゃいけないし、繁殖以外にもたくさん気を遣わなきゃいけない」

「だからレオンハルト殿のために、その女が遣わされたんでしょう? それは彼らの都合であって、私たち魔族の問題ではない」

「あぁ、そうだ。……けどな、ドルジ。人間の想いってのはとても強いんだ! そこのランはレオンハルトのことが大好きだ。本当はあたしになんて譲りたくないに決まってる。なのに、ランは大好きなレオンハルトのため、あたしを無理やりにでもレオンハルトの嫁にしようとした! 自分の都合を諦めて、想い人のために頑張ろうとしてたんだ!」

「それは弱者の考え方です!」

 ドルジが苛立ったように叫んだ。

「本当に強い心を持っているなら、無理やりにでも奪ってしまえばいい! 相手の気持ちなどどうせ、自分には分かりようがないんだから!」

 違う。

 口ではレオンハルト様のためだなどといいつつ、ランは途中から明らかに自分がレオンハルトと結ばれるための打算を時折繰り返してきた。アンリやユーキを騙してきたのだ。そして、その結果ユーキをこんな目に遭わせてしまった。

アシュリーやアミに唆された面もあるとはいえ、自分が最初から与えられた役割だけをまっとうしていれば……。

アンリの言葉に、ランはさらなる罪悪感を抱かずにはいられなかった。

「ほっほっほ……。それに、魔王様もなかなか酷いことを勇者殿に対してしていますね」

「あたしが勇者に酷いこと、だぁ?」

「えぇ。レオンハルト殿のことですよ」

 やがて、ドルジは再び余裕を取り戻したかのように笑い始めた。強風に乗せられた雨粒が玉座の間の窓を強く叩いている。その激しいリズムは、まるで俯いたアンリの怒りを表しているかのようだった。

「そこまで勇者殿のお気持ちを察しながら、あなたはどうしてこの男と嫁入り前に遊び始めたんですかねぇ」

 ピクリ、とアンリの華奢な肩が震えた。

 それでも、ドルジはアンリの怒りに怯む様子もない。

「勇者殿はそこまでしてあなたをレオンハルト殿と結びつけようとしたんですよ。それなのにあなたはこの男との関係を望んだ! あなたは勇者殿の想いを踏みにじったんだ」

「ふざけんな……! 何も知らないくせに言いたい放題言いやがって」

「魔王様……!」

 走り出そうとしたアシュリーをランはなんとか制す。

 アシュリーが思わず割って入ろうとしたのも無理はない。

 それほどまでにアンリの放つ殺気が一瞬で膨らんだのを、ランも感じた。

 それでも。

 アンリの言葉を最後まで聞きたい。ランはそう思ったのだ。

「ドルジ。どうしてあたしがレオンハルトとの縁談を頑なに拒むか、分からないだろ」

ランの視線の先。

魔王の声が玉座の間で轟く。


「理由は一つだけだ。あたしがレオンハルトと結婚すると、ランがレオンハルトと結婚できなくなる! だからあたしは絶対、レオンハルトと結婚する訳にはいかないんだ!」


     ◇◇◇


「魔王、あなた……」

 雨音に包まれた玉座の間に訪れた沈黙を破ったのはランだった。

「それなら、ユーキさんと仲良くしてたのは……?」

「あー、なんだ。ユーキのことはまぁ、いいヤツだと思ってるぞ」

 一転、困ったように苦笑を浮かべ、ぽりぽりと自らの頬を掻くアンリ。

 玉座の上で怯えていたユーキは、さほど驚いた様子を見せなかった。隠し事の下手そうなアンリのことだ。事情はともかく、本人の気持ちにはある程度気付いていたのかもしれないとランは思った。

「とにかく、あたしがユーキと結婚できればレオンハルトとあたしの縁談は意味がなくなる。そうすれば、ランもレオンハルトと結婚できるかもしれない。あたしは知ってるぜ、ラン。あたしの父さんと何度も戦ったレオンハルト一世は本人が魔剣使いだったが、レオンハルト二世は魔剣を使えなかったため、当時魔剣使いだった女を王妃とした。つまり、だ。このままいけばランだって立派な花嫁候補になれるはずだぞ」

 ここ数日のアンリの行動を思い返してみる。

 確かに、アンリは最近妙にユーキとの距離を詰めようとしていた。ランとの花嫁修業よりもユーキとの時間を優先して、それでいて、修行を受ける時は以前までより真摯に取り組んでいた。

 だけど、それは……。

「お前はあの日、絶対レオンハルトと結婚するって言った。だから、あたしは決めたんだ。ランがレオンハルトと結婚できるように、あたしはあたしなりのできることをしようって」

 全てはランのためだったのだ。

 それなのに……私はユーキを誘うようなことまで言ってしまった。

 ランは内心で心が温かくなるのと同時に、激しく自分の気持ちを恥じた。想いを踏みにじったのは自分の方だ。

「それが、あたしのために色々教えてくれたランへの恩返しだと思ったからな」

 そう言って、アンリはランを振り返る。その姿は「魔王」の肩書に相応しい逞しさがあり、「魔王」の肩書に似合わない優しさがあった。

 大丈夫だ。任せろ。

 そう言うように、アンリは力強く微笑む。

「交渉は決裂だな、ドルジ。あたしはお前のイモサラダが大好きだったが、お前のことはあまり好きじゃなかったっ!」

 一方的に交渉の打ち切りを宣言したアンリはランとアシュリーが止める間もなく、指輪を外す。

「あたしは結構怒ってるぞ!」

 ランは背筋が凍る思いでそれを見ていた。

 アンリの指先から放たれる黒い波動。

 それは今までランが感じたことのない強い殺意を伴って、真っすぐに拡がりながらドルジへと向かっていく。まるで、ドルジを呑み込まんとばかりに。

「じゃぁな、ドルジ!」

 アンリが凄惨な「魔王の笑み」を浮かべると同時に、黒い波動がぱっくりと口を開きドルジへと肉薄する。

 思わず我がことのように、ランは両目を覆った。


     ◇◇◇


 一秒、二秒、三秒……。

 沈黙が続く。

「やはり……あなたが黒幕でしたか……」

 驚きに満ちたアシュリーの呟きに恐る恐る、ランは目を開く。

「やぁ。遅くなったけど、魔王と対峙する勇者の登場だよ」

 そこには、信じたくはなかった光景が待っていた。

「……確認いたします勇者様」

 震える指先で、アシュリーがアンリとドルジの間に割って入ったその人物を指差す。

「本物のレオンハルト様ですね? あの方は」

「嘘、でしょ……」

 ランにも、アシュリーの確認に答えられるほどの心の余裕がない。

 それでも、アシュリーは続けてランに問いを投げかけた。「あの魔剣と勇者様の魔剣、どちらが本物でございますか?」

「ふふふ、あの子……アミちゃんだっけ。あの子は何も言っていなかったのかな」

 そんな二人を見下すように笑うブロンドの青年、レオンハルトの手には紫色の刀身が握られている。

「そっか……だから、アミは……」

 ランは、つい先ほど祭殿へ魔剣を取りに戻った時のことを思い出す。


 あの時、祭殿の祠に魔剣はなかった。


「アミ! どうしたの!?」

 祭殿には、両手両足と口を塞がれたアミの姿があった。

 目立った外傷もなく、意識もはっきりしているアミだったが、彼女はランに口元を解放してもらった瞬間、開口一番に叫んだ。「ごめんなさい!」


「けど分からないんだよね。君もあの子も魔剣を持ち去ったのが僕だって分かってたはずだし、僕が魔剣を何に使うかなんて想像に難くないと思うんだよね。それなのに君は……どうしてそのナマクラを持ってノコノコここまでやってきたんだい?」


 いや、違う。

正確にはランはレオンハルトが魔剣を持ちだしたことに対して確信を持っていなかった。


「……ラン。魔剣は盗まれたよ」

「誰によ!? 誰が……こんな酷いことをアミにしたのよ!?」

「あはっ、アタシのこと心配してくれるんだ。やっぱりランは優しいなぁ……」

 ランに助け出されたアミは、弱々しい笑みを浮かべながらもきっぱりと首を振った。

「けど、やっぱりランには言えないな。魔剣を持って行ったのが誰か。アタシには事情が分からないけどきっと、ランを傷つけちゃうことになるからさ」

「だけど私は行かなくちゃいけないのよ!」

「そう……」

 アミはもう一度弱々しく笑った後、ゆっくりと身を起こした。

「そこに、魔剣の模造品があるんだ。もしも、ランが傷つく覚悟を決めてまであの子を助けたいというなら、それを持っていきなよ。大丈夫、模造品とはいえ、普通の剣としては切れるからさ」

 アミが指さす方向に立てかけられている、紫色の剣は確かに、一見するとゼロと変わらない。だけど、ずっとゼロに馴染んできたランには、それが本物でないことが直感的に分かった。

「ラン。ランは今までたくさん傷ついてきた。だけど、いや、だからこそかな。これ以上傷つくことを避ける選択をしても、誰もランを責めることはしないよ」

 優しげな友人の声に、ランの足が鈍る。アミは、いつでも傷ついたランと向き合ってくれた。その彼女がいいと言うのだ。もう、いいのではないか。一瞬、そんな考えが頭を過った。

「……ありがとう、アミ」

 だけど、ランはゆっくりと模造剣を手に取った。

 魔王やアシュリーとの想い出が……あの居心地の良かった空間の温もりを、手離すつもりなどなかった。そんな友人の姿に、アミは笑みを浮かべた。「そっか……。やっぱり妬けるなぁ……」


「レオンハルト様」

 だから、ランは決断する必要がある。

「魔剣があろうとなかろうと、私は守らなくてはいけません」

「ほぉ? そんなにこの男のことが大切かい? お熱いことだねぇ」

「ふざけないでください!」

ランは初めて、レオンハルトに面と向かって声を荒げた。大事なのはユーキだけじゃない。チラリとランはアンリ・アシュリーへと視線を流した後、レオンハルトを睨みつけた。「……レオンハルト様が、ユーキさんをこの魔族たちに誘拐させたんですね?」

決断するのに時間はかからなかった。

 あの空間を守るため、今まで抱えてきたレオンハルトへの想いすら斬って捨てる決意。

 それを心の中でゆっくりと固めつつ、それでもランは一縷の望みを抱き、レオンハルトの言葉を待った。

「誘拐とは人が悪いね、ラン」

 レオンハルトは心外だ、とばかりに首を振った後、

「覇王である僕が人民をどう扱おうと、自由だろう? この男も、ラン、君のこともね」

 実に歪んだ笑みを浮かべて、ランを見下ろした。


     ◇◇◇


 裏切られた、と感じることはなかった。

「勇者様! 私が必ずや、責任を取ってみせます!」

 一瞬の静寂を冷たく引き裂く殺気が鋭く突き刺さった。アシュリーの得意とする冷気属性の魔術。槍状の巨大な氷柱がまるでアシュリーの右腕を伸ばしたかのように、伸びていく。

「勇者様の……乙女の純情を弄んだ男は種族身分を問わず女の敵でございます!」

「待ちなさい、アシュリー! 私のことはいいの!」

 珍しく怒りの形相を露わにするアシュリーをランが制止しようとする。だが、アシュリーは止まらない。

「おい、待てってアシュリー!」

 そのアシュリーが今度はアンリの傍を駆け抜ける。制止の声こそかけるが、アンリもアシュリーに同調するところがあるのだろう、敢えて彼女を止めるような動きは見せない。

「この外道男がぁぁぁぁっ!」

氷の槍を片手に、アシュリーはレオンハルトへと突進する。

 だが……。

「困りますな、アシュリー殿。このお方をここで死なせると困るのは我々ですよ」

 おびただしい水蒸気と共に、アシュリーの突進はあっさりと止まった。

 鋭かったアシュリーの槍を受け止めたのは、煙を帯びた毛むくじゃらの分厚い掌底。

 掌を真っすぐに突き出した巨漢の魔人ドルジが、再び不敵な笑みを浮かべて立ちはだかる。

「……そういえばあなたは熱属性の魔術を得意としておりましたね」

「ほっほっほ。その通り、冷気属性の魔術を得意とするあなたとは、元々馬が合わなかった」

「奇遇なことに、それは私も同じです。……どうしても退くつもりはないのですね?」

 共に魔族として生きてきた二人の間で、新たな殺気がぶつかり合う。

「そろそろ決着をつけましょうか、ドルジ。私はあなたが魔術を使って焼いたステーキの味こそ評価いたしますが、あなたの魔術自体は評価しておりません故!」

 バックステップでアシュリーが距離を取る。主従から同じような言われようだが、巨漢の魔人は意に介した様子もない。開いた間合いを詰めて、再び近接戦に持ち込もうとドルジはその巨体に似合わぬ踏み込みを見せる。

「あーぁ、もう滅茶苦茶だよ。僕としては平和的解決を望んだんだけどなぁ」

 そんな魔人同士の争いを見て、レオンハルトが軽薄に笑った。氷柱を絶え間なく撃ち込んでいるアシュリーと、それを受け止めつつもなんとか距離を詰めようと迫るドルジ。一見するとドルジが防戦一方のようにも見えるが、毛深いドルジの顔にはあからさまな余裕が浮かんでいる。

「なぁ、どうするんだ……?」

 その配下たちの争いに全く目を向けること無く、魔王が呟いた。

「お前はこれでもやっぱり、レオンハルトと結婚したいのか、勇者」

 その視線はどこまでも真っすぐだった。

 ランの気持ちをじっと見極めようとする、純粋で……怒りに燃えた瞳。

 それでもなお、アンリはランの言葉を待ち続ける。


「……レオンハルト、様」

 その瞳を見た瞬間、最後の未練は断ち切れた。

 口の中がカラカラに渇くのを感じる。

 アシュリーとドルジの乱れた足音は崩壊のイントロだ。今から口にしようとしていること。それが言葉となって出た瞬間、今までランが積み立ててきたものは崩れ去る。だけど、もう言葉を止めることはできない。

ランは偽物の魔剣の切っ先を向け、レオンハルトを強く強く睨みつけた。

「魔剣も、ユーキさんも……魔王も、あなたには渡さないわ!」

 自分でも驚くほどに最後の方は声がかすれた。

 それでもたった一人。

 アンリだけは「上出来だ」と、力強く笑ってくれた。そして、今のランにとってそれは一番嬉しい言葉だった。

「残念だよ」

 刹那、魔弾と魔弾がぶつかり合う。

 指輪を外したアンリが続けて魔弾を撃とうと構えたところに、魔剣を振りかぶったレオンハルトが突っ込んでくる。

「君なら、最後まで僕を盲信してくれると信じていたんだけどな!」

 続いてぶつかり合ったのはレオンハルトの魔剣とランの偽魔剣。「中途半端に賢しい女は使えない!」

「なんでそんなことを言うんだ! ランは、お前のことを……!」

 怒っているのはアンリだけじゃない。

 玉座の上で束縛されたユーキもまた、レオンハルトを強く睨んでいて、ランはそれが少し嬉しかった。

「このメンヘラ女が僕のことを好いていたのなんてずっと知ってたよ、魔王。だからこそ、彼女には利用価値があった。それだけの話だろう?」

「この……! ラン、お前本当に男を見る目がないぞ!」

 再びランを挟んでアンリとレオンハルトの空中戦が始まる。少し前のランなら、この状況にただ嘆き、錯乱することしかできなかった。だけど今のランは違う。

「うるさいわね! それより魔王! 分かってると思うけど、あなたは魔剣の射程に入らないように気をつけなさい!」

「ラン……お前、レオンハルトにあんなひどいこと言われてあたしの心配を……」

「そ、そんなことどうでもいいの今は! それより、ユーキさんをさっさと助けるわよ!」

「おう! ……けどラン、どうやったらあの魔剣を突破できる?」

 アンリの繰り出した魔弾はことごとく、レオンハルトの魔剣に吸収されてしまう。

 本来、魔剣は魔族との戦闘に特化した剣だ。その刀身の表面は魔弾を遮断する特殊な金属によって覆われている。アンリくらいの強い魔力を身体に持つ魔族相手になると、魔剣による直接斬撃を叩きこまないと決定打とはなり得ないが、それでもこうして防御に徹していれば互角以上の戦いを繰り広げることはできる。

 ……そう、本来の魔剣の使用者にとっては。

「ちっ……」

 レオンハルトの端正な顔立ちがわずかに歪む。「どうして、君のようなメンヘラ娘が選ばれて、僕は選ばれないんだ……?」

「……レオンハルト様は私と違って、完全に魔剣に選ばれた存在じゃないの」

 アンリに耳打ちするラン。

「レオンハルト様の家系には歴代の魔剣使いたちが含まれている分、レオンハルト様にも魔剣使いの血が残ってはいるわ。だけど、それは完全じゃない。だから、鞘の部分から魔剣の魔力を引き出すことに身体が拒否反応を示しているの」

「つまり、レオンハルトは魔剣をランほど使いこなせている訳ではないってことか」

 ニヤリ、とアンリが凄惨な笑みを浮かべる。幼い顔立ちに似合わぬ、魔王の笑み。だけどその表情には余裕が感じられた。

「いつもランと戦ってたわけだからな。ランに負けないあたしが、こんな中途半端なクズ野郎に負けるわけにはいかないな!」

「ほざけ、平和ボケしたガキがっ!」

 アンリの言葉に激高したレオンハルトが再び魔剣を振りかぶった。「僕の名声のため、ここで露と消え失せるがいい!」

「っ、早い……!」

 ランが言葉を失うのも無理はない。

 レオンハルトの身体はまるで一瞬消えたかのように見えた。そして、その次の瞬間には横薙ぎの魔剣による斬撃がアンリの喉元へと迫っている。城の兵士長も務めるランですら、捉えられない速度を見せるレオンハルト。その執念を込めた一撃が、棒立ちになったアンリへと迫る。

「アンリ!」

 ランの叫びとユーキの悲鳴が響いた瞬間、レオンハルトの凶刃がアンリの肌へと到達した。


     ◇◇◇


 巨木を横薙ぎにしたようなローキックの間合いから逃れ、アシュリーは再び氷柱の連撃を放つ。

 合計六発の氷柱の内二本はドルジの巨体を捉えてはいたが、それらは全て太い腕によってガードされ、致命傷を与えるにはいたらなかった。

「ほっほっほ……。ずいぶん口数が減ってきましたな……」

 激しい攻勢を見せながらも、アシュリーは追い詰められていた。

 反撃とばかりに巨大な火球を指先で弾き、ドルジが不敵な笑みを浮かべる。

 飛来する火球。今まで徹底した近距離戦狙いを見せていたドルジが初めて行使した魔術だったが、それを避けること無く、指先から大きめの氷柱を放って四散させたアシュリーは、キッとドルジを睨み返した。

「……あなたがいなければ、魔王様も私も、また違う道を歩んでいた」

 氷柱が一瞬にして溶け、アシュリーとドルジの間を白い水蒸気が隔絶する。

 ゆらゆらと揺れる互いのシルエットを睨み合いながらも、二人は動かない。

「私は、この魔族を強くしたかった。たかが魔剣の使い手一人に恐れおののく魔族が情けなかった。何度もまだ幼い魔王様に、そのことを伝えようとしました」

「……あなたのように魔王様に取り入ろうとする魔族は何人も見てきました。ですが、魔族の王は魔王様ただ一人。私利私欲に塗れた害虫から、私は魔族として、主である魔王様を守らねばなりません」

「ほっほっほ……。害虫はどちらでしょうね。魔王に甘言を弄し、魔族全体を腐らせ始めた売女は」

「……これ以上の言葉は不要です。今度はこちらから参ります」

 晴れかけた視界が別種の白さに包まれた。

唐突に張り詰めるように凍てついた空気が、二人の間を走る。今までとは比べものにならないほどの巨大な氷柱がアシュリーの拳の先に出現。それはまるで、アシュリーの手首から巨大な氷の槍が生えたかのような錯覚をもたらす。「さぁ、これは受けきれますかドルジッ!?」

 今まで距離を取り続けてきたアシュリーがドルジに向かって一気に距離を詰める。それは彼女にとって、勝負手を意味していた。

アシュリーの遠距離魔術は連発や射程に優れるがその分、一発一発の重さはない。

一方、ドルジが近距離戦を得意としているのは分かり切っている。

それを承知で……アシュリーは自身の近接戦での火力に賭けたのだ。

「一本ではありませんよっ!」

 アシュリーの空いていた左手からもう一本、氷の槍が出現する。

両サイドから迫る二本の氷の槍に、ドルジは身動きすらできない。

アシュリーの右の槍がドルジを間合いに捉えた。

取った。

確信と共に右腕を突き出し、遅れてその軌道と交差させるように左の腕を振りかぶる。氷の切っ先がドルジの巨体に吸い込まれるように進んでいき、

そして、

突き出した右手の指先に激しい痛みを覚え、アシュリーは本能的に足を止めた。

「ほっほっほ……。片手の火傷だけで済むとは……。つくづく悪運の強い女ですね」

 相変わらず余裕を含んだ声を聞くまで、アシュリーは何が起きたのか分からなかった。

 目の前に突如現れた紅蓮の壁。

 痛みを伴う指先を見ると、白い手袋に包まれた指先が赤黒く焦げている。そう、あの紅蓮の壁は灼熱の炎だ。

「そろそろ本気でいきますよ、売女殿」

 炎の壁がアシュリーを取り囲むように広がっていく。轟々(ごうごう)と炎の燃え盛る音に混じってドルジの声は聞こえてくるが、その姿はアシュリーの視界に映らない。映るのは一面、紅蓮の壁面のみ。

「ほっほっほ……。弱き魔族の象徴よ……。業火の中で己の無力を噛みしめながら死ね!」

 狭まった炎の壁から突如巨体が現れ、灼熱の拳をアシュリーの細い胴に叩き込んだ。思わず意識が飛びそうになるのをぐっとこらえ、アシュリーはその場に踏ん張る。倒れては業火に呑み込まれる。そんなことになったらさすがのアシュリーも、死んでしまう。

「よく耐えましたね」

 炎の中からドルジの静かな笑い声が聞こえてくる。「……では、これはいかがでしょう」

「ぐっ……はっ……!」

 八方から飛んでくる炎の拳が嵐のようにアシュリーを襲う。手数もさることながら、その一発一発の重さも相当なものだ。

「ほっほっほ……苦しいでしょう? でも、逃げ出せないでしょう? この炎は障害物がない限り、燃え広がります。もう、あなたはその足場から逃れられません」

胴体から顔面に集中する連撃に、アシュリーの細い身体は晒され続ける。だけど、アシュリーは倒れるわけにはいかない。三百六十度、見渡すまでもなく肌で感じる熱が、炎に囲まれていることを教えてくれている。

「そう。我々魔族は逃げるわけにはいかないのです」

 倒れたら最後、アシュリーの身体は業火に包まれ、その身体は骨まで残さず灰と化すだろう。

さりとて、このまま立ち続けても身体を撃つのは拳の嵐。

しかも炎をまとったドルジの拳は着実に、アシュリーの青白い肌へ火傷の跡を残していく。

「この縁談はチャンスでした。キンダムを我々が呑み込む、絶好の」

 言葉と共に拳が飛んでくる。

 すでになんとか踏ん張る両足の力は大分落ちてきている。

 後何回傾く身体を立て直せるか。分からない。

「だというのに、あなたはまた魔王様に甘い価値観を押し付けようとした! あんな平凡なキンダムの男を魔王様にあてがって、何の得があるというのです?」

「違う。私は……魔王様に……」

 本当は、ユーキでなくてもよかった。

 ただ、アシュリーはアンリに、それが何を意味するかも知らずに縁談を押し付けたくなかった。相手が魔人だろうとキンダム人だろうと、誰でもいい。ただ、淡々と押し付けられた相手と一生添い遂げるようなことを、アシュリーはアンリに強要したくなかったのだ。

 炎の中から拳が飛んでくる。熱と痛みで意識が朦朧とする。きっとこれが最後だろう。この一撃を受け、次の一撃を受ければアシュリーは倒れてしまう。

だから、イチかバチか。

アシュリーはその拳を抱きかかえるようにして、炎の拳を受け止めた。

「ほっほっほ……。自らの身を焼き焦がすつもりですか?」

 火傷だらけの両腕に拳を挟まれたドルジが炎の中、笑いを漏らす。「ならば望み通りにしてあげましょう……おや?」

 そこでようやく、ドルジは異変に気付いた。

 今まで激しい熱を持っていた自身の拳が熱を失い始めている。いや、それどころじゃない。徐々に身体の芯まで冷え始めて……。

「相手を窮地に追い込み、油断しましたねドルジ。若い頃から、それはあなたの悪い癖でした」

 炎の壁が徐々に低くなっていく。

 白い蒸気をまき散らしながら弱っていく自らの炎を眺め、ドルジは信じられないという顔をした。

「近接戦に劣る私は最初から、こうした零距離戦に持ち込むことはできないと考えておりました。ただしドルジ、慢心からか、最後のあなたの一撃は速度も威力も鈍かった。だから、私はこうして零距離戦に持ち込むことができました。……そして、こうなれば私に凍らせられないものはございません」

「や、やめなさい……」

 白い蒸気に圧されるようにして小さくなった炎の壁は、もはや二人の足元くらいのところでプスプスと燃えているだけだ。

「零距離での絶対零度(ゼロ・オブ・ゼロ)!」

「やめ……!」

 断末魔の叫びと共に、氷山が生成し、ドルジの巨体を大きく呑み込む。

「さて、あちらの『ゼロ』も、どうにかしなければ……」

 そう言いつつ、アシュリーは全身の力が抜けるのを感じた。

「……申し訳ございません。魔王様を、お願いいたします、勇者様……」

 その視線の先には、偽物の剣を手にするキンダムの少女の姿。

 黒く焦げた絨毯に熱はすでになく、ひんやりと心地よい床に倒れ込んだアシュリーはそのまま意識を手放した。


     ◇◇◇


 レオンハルトの魔剣は、確かにアンリの肌を切り裂いた。

「アンリ……?」

 かざした左腕の袖が鮮血に染まる。

 切り裂かれたドレスの袖からはポタリ、ポタリ、と血の雫が落ちる様子を見て、ランは偽の魔剣を握りしめたまま茫然としていた。

「ふむ……これも魔術の類かい」

 だが魔剣を撃ち込んだ当の本人、レオンハルトはつまらなそうに呟いた。

「これでは魔力を吸いあげる所までいけないね。さすがにそう簡単には壊れてくれない、か……」

「ふん、お前のへなちょこ攻撃より、よっぽどランの一撃の方が鋭かったぞ」

 好戦的な笑みを浮かべて、アンリは自らの血に汚れた左腕を下げた。その傷跡はみるみる塞がっており、今や血も流れていない。

「硬化術って言ってな。一時的にだがあたしは自分の身体の内部を硬くすることができるんだ」

「そ、そんな魔術、私の時には使ってなかったじゃない……」

「当たり前だろ、ラン。硬化術はピンポイントでしか使えない上に、タイムラグもある。動きが速いお前相手では使いどころがなかったんだよ。しかもこうして体の表面は普通に切れるから、痛いしな」

「なるほど。メンヘラはメンヘラでも、さすがはうちの兵士長ってところか」

 薄い笑みを浮かべたまま、レオンハルトは後ずさる。口では余裕を見せてはいるが、アンリやランの動きを警戒しているのだろう。隙を見せることなく数歩下がったところで、レオンハルトは再び魔剣を構えなおした。

「最後に確認するよ、魔王・アンリ。君は、どうしても僕との縁談を破棄するつもりなんだね?」

「あぁ、お前がこんなことをした以上、このままお前と婚約するのは魔王(あたし)の沽券に関わるし、何より、」

 アンリは強い敵意のこもった視線をレオンハルトへ投げつける。

「あたしはお前のこと、『大嫌い』だ」

「そうかい……」

 レオンハルトの魔剣を握る力が強くなる。

「ならば魔王! お前は僕の英雄譚のためにここで死ね!」

「アンリ!」

 ランが叫ぶがアンリはひらりと身をかわし、レオンハルトの魔剣の軌道から逃れる。だけどレオンハルトの追撃は続く。二回目、三回目。まるで舞を踊るかのようなレオンハルトの剣さばきは、彼がただの温室育ちの王族ではないことを雄弁に語っていた。

「ふふっ、心躍るよ。お爺様もこんな戦いをしていたのかな。あぁ、でも違う! 僕はお爺様になりたいわけじゃないんだ」

 レオンハルトの猛攻に、アンリは反撃をみせない。ただ、紙一重のところでその攻撃をかわし続けるばかりだ。

「もっと圧倒的に、もっと力の差を見せつけて! お爺様より優れた英雄に、僕はなるんだ!」

 目を血走らせ、レオンハルトはアンリに迫る。まるで何かに憑かれたような鬼の形相。そこにはランが憧れた若き英雄の面影は残っていなかった。

「アンリ、あなた……」

 だけどそのランは、レオンハルトではなく、アンリを見ていた。

 ランは疑念を持っていた。

 防戦一方に見えるアンリが、実は「反撃できない」のではなく、「反撃をしていない」のではないか? しかしそれなら何故、この局面でわざわざ敵の攻撃に身を晒すような真似をするのか。魔王の余裕なのだろうか。考えれば考えるほど、ランはアンリが分からなくなる。

「くっ……またか……」

 果たして、疑念は確証に変わった。

 レオンハルトが剣を床につき、こめかみを抑えた状態で立ち止まる。明らかな敵の隙。その明らかな好機を前に、アンリはやはり攻撃に移らなかったのだ。

「……本当に甘い魔王なのか、はたまたよほど僕のことを馬鹿にしているのか……」

 頭を抱えたまま、レオンハルトがアンリを睨む。だけど、アンリはそれを気にした様子もなく、あろうことかレオンハルトに背を向け、ランを真っすぐに見つめた。

「なぁ、ラン。あたしは今すごく機嫌が悪い。だから、お前が大好きだった男をぶっ飛ばしちまうかもしれない」

 その言葉を耳にして、ようやくランは気付いた。

「それでも、いいな?」

 そう。ここにきて、アンリは未だにランに遠慮していた。

 ランの想い人であったレオンハルトへの攻撃。

 それを、アンリはこの局面ですら、躊躇っていたのだ。

「……わ」

 アンリの的外れなまでの心遣いに、ランは自らの声が震えるのを感じた。

 鳥肌が立つ。

 きっと、今自分はひどい顔をしているだろう。

 だけど、路地裏でゴロツキに絡まれたあの時と違って、アンリにこの顔を見られてもいい。今なら、そう感じることができた。

 だから、ランは声をからして思いっきり叫ぶ。

「いいわ! 思いっきり、やるわよ!」

「よく言った、ラン!」

 アンリが大型呪文の詠唱に移る。

 きっと、この詠唱が完成したらレオンハルトはただでは済まない。

 そう感じたのはランだけではなかった様子で、魔剣を振りかぶったレオンハルトが血相を変えて突っ込んでくる。

「魔王、くたばれぇっ!!」

 迫る凶刃に、アンリは詠唱を止めることもなければ、回避の動作を見せることもない。

 その信頼が、ランは何よりうれしかった。偽の魔剣でレオンハルトの重い一撃を受け止める。

「ええい、どうして君が僕の邪魔をする!? 君は僕のことが好きなんだろう? この戦いが終わったら妃にでもなんでもしてやる! それで満足だろう?」

「ふざけないでよ!」

 早口でまくしたてるレオンハルトの剣圧を受け止めながら、ランは叫んだ。もったいないことを言ったとはもう微塵も思わない。

「やめろ、僕はこんなところで死ぬわけにはいかないんだ! こんな所で死んでしまったら、お爺様を超えるどころか……」

「時間切れだ、クズ野郎」

 レオンハルトの怨嗟の言葉は、最後まで紡がれることはなかった。

 鋭い憎しみを込めたアンリの視線が突き刺さるその先。

 そこにはすでにレオンハルトの姿はなく、魔剣がカラリと虚しい音を立てて床の絨毯の上へと倒れたところだった。

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