第五章~正しい異種間デートのやり方

 王宮兵士長・ラン・メーヘライ様


 拝啓


 こんにちは、お元気ですか。先日はお相手くださり、ありがとうございました。

 ランさんがお城で働いているという話は伺いましたが、兵士長を務めておられると後で知り、びっくりしちゃいました。

 さて、兵士長を務めておられるランさんはお忙しいと思いますが無理を承知でお願いです。

 せっかく出逢えたので、僕はランさんたちとまた、お会いしたいと考えております。もちろん、僕といきなり二人で、というのは嫌だと思います。なので、お友達の方もご一緒で結構です。僕も、女の人といきなり二人きりで出かけるなんて、自信ないですから……。

 まずは、お手紙でのやり取りからでも可能です。

 もしもよろしければ、是非お返事下さい。

 お手紙、お待ちしております。

                                      敬具


               キンダム王国領ヴィレッジ村××‐△△‐†††

                              ユーキ・クリス


     ◇◇◇


「なんだ、勇者。今日はえらく上機嫌だな」

 のどかな陽射しが窓から差し込んでいた。

 その温かな陽射しを横手から浴びながら、鼻歌混じりに皿洗いを続けるランを見上げ、アンリは首を傾げた。

「お前、さっきからずっとニヤニヤしてるぞ」

「べ、別にあなたには関係ないわよ」

 並んで皿を洗うアンリに指摘され一瞬表情を引き締めるランだが、それも一瞬で緩んでしまう。

「えへへ……何があったか気になる?」

「いや、別にどうでもいいぞ」

「え?……へへ、何があったか気になる?」

「いや、だから別に興味ないって」

「え?……へへ、何があったか気になる?」

「面倒臭いループでございますね!?」

 放っておけば無限ループが成立しそうな二人のやり取りだったが、テーブルでくつろいでいたアシュリーが思わず突っ込んだ。あまりに生産性のない会話に我慢がならなかった様子である。

「それで、勇者様。何があって先ほどからそんな気持ち悪い笑みを浮かべておられるのです?」

「しょうがないわね、そんな気になるなら教えてあげるわ」

 自分の期待通りに質問を向けられたことがよほど嬉しかったのか、ランはアシュリーの毒にも気付かず、ますます締まりない笑みを浮かべる。アンリが「勇者、手が止まっているぞ」と珍しく洗い物を促すが、聞こえていない様子だった。

「実はね、聞いて驚きなさい」

 だが、さすがにここまで勿体を付けられると、興味のない話でも聞きたくなる。アンリとアシュリーが言葉を待っていると、ランはスポンジをギュウっと握りしめた。

「私、ついに彼氏ができたのよ!」

「は? カレシ……?」

 ポタポタとシンクへ零れ落ちる水滴を眺めながら、アンリは再び首を傾げる。だが、アシュリーはハッとした様子で立ち上がり、台所へと入ってきた。

「ちょ、ちょっと、何かしら。あなたには私の彼氏、小指ほども分けてあげないわよ?」

 分けられるものではない上、そもそもランはユーキからの手紙を受け取っただけで、彼氏を得たわけではない。だが当然、事情を知らないアシュリーは信じられないという表情を浮かべながらも、まじまじとランに注目した。

「ふふっ、やっぱりそんなに驚かないのね。まぁ、私レベルのいい女となると彼氏なんてできて当たり前。むしろ今までいなかったのが世界の歪みみたいなものだから、驚かないのも当然よね」

 二人の表情を見てどう考えたらその結論が出るのか。

 ランは自信満々に無い胸をそらした。

「今日からは私もリア充よ! 売れ残りとか股間だけ重装備とか陰口は叩かせないわ!」

「勇者様は苦労なさってたんですね……」

 白々しく応じるアシュリー。その彼女にアンリが「カレシってなんだ? カレーの仲間か?」と問う。

「カレシとはお互いがお互いを好き合う関係になった男性のことでございますよ」

「おお、じゃあ勇者はレオンハルトをカレシにしたのか」

「え? 私がレオンハルト様を? そんなわけないじゃない」

あっさりと否定したランの腕を、アシュリーが引く。「勇者様」

「何よ」

「まさか、とは思いますがそのお相手というのは先日魔王様が出逢ったユーキ様という方ではないでしょうね」

「え、そうだけど? あなた魔王からユーキさんの話聞いたの?」

 これまたあっさり答えたランに、アシュリーは深々と溜息を吐いた。

「……まことに遺憾ではございますが、詳しい話をお聞かせいただきましょうか」

「ふふっ、聞きたいなら最初からそう言えばいいのよ」

「……人の気も知らないで呑気なものでございます」

 ぼそりと毒づくアシュリーだが、いい気になったランはもちろん気付かない。彼女は隣のアンリが間違った場所に食器を片付けているのにも気付かず、得意げに無い胸を張った。自分は勝ち組なのだ。そう勝ち誇るようにして。

「思えば、私とユーキさんは出逢ったその瞬間から恋に落ちていたのよ。まるでお互いの身体が生まれた瞬間から赤い糸に導かれていたかのようにね!」

「それ、すっげえ窮屈そうだな」

 せっせと鍋を泡立てながら、アンリが的外れなことを言う。だけど、ランはよほど気がいいのだろう。笑顔を絶やすことなく答える。「私とユーキさんの愛は、窮屈さをも凌駕する寛容な空気と、甘美ななにかと、名状しがたい運命的なあれやこれに包まれてるのよ!」

「えらく抽象的な概念でございますね……」

 アシュリーは半眼のまま言葉を濁した。まともに突っ込んでいたら、キリがなさそうだ。

「で、具体的に勇者様はそのユーキ様とどのように仲を発展させたのですか?」

「うん、まずね。私が他の参加者と談笑していたらね、彼が自分から私に声をかけてくれたの! 『あなたのこと、気になります!』ってね」

「嘘つけ、ユーキはあたしにも声をかけてくれたし、そもそもあの時勇者は誰とも話せないって困ってたじゃないか!」

 アンリが訂正するが、ランは「そんな細かいことはどうでもいいの」とはねのけた。「重要なのは、ユーキさんが私を選んでくれたことなのよ」

「実際ユーキ様がそんな古典少女みたいなセリフで、勇者様を誘ったかどうかは置いておくとして」

 初っ端から長引きそうな話に呆れながら、アシュリーは二人に割り込む。「その後、勇者様とユーキ様はどうなったのでございますか?」

「え? それはね、ユーキさんが私と仲良くなりたいって言ってくれて……」

「言ってくれて?」

「結婚しようって約束したの!」

「どこをどう間違えたらそこまで飛躍するんでございますか!?」

 これにはさすがにアシュリーも全力で突っ込んでしまった。いきなりの求婚。ユーキ本人と会ったことがないアシュリーからしたら、ランの話に登場する彼はただの危険人物だ。だけどランはだらしない笑みを浮かべたまま、「愛は論理では解決できないの」と訳の分からないことを言うだけだった。

「というかラン。ユーキじゃなくてお前が結婚しようとか言ったんじゃないのか?」

「ふふふ、それがね。後日その返答の手紙が来たのよ」

 現場での記憶をもとに冷静な指摘をするアンリにもランは狼狽えない。

「きっと、私の想いが伝わったのよ、ユーキさんにも」

「……それでとにかく、結婚を前提とした交際ということで、勇者様とユーキ様が交際を始めた、と?」

「まぁ、超略しちゃったけど、そんなところよ」

 実際、ランのプロポーズから今に至るまでにランがユーキに関してしたことといえば、アミとの反省会と、ユーキからの手紙を受け取ったことだけなので略しようもないのだが、ランは迷うことなく断言した。その様子は、婚活パーティー直後の反省会で、アミに対してネガティブ発言を連発していたとは思えないほどだ。

「はぁ……」

 アシュリーは大きく首を振り、表情を露骨に曇らせた。その様子は、調子のいいランに呆れるにしてはあまりに深刻すぎるような気がした。

「どうしたのよ……」

 さすがにアシュリーの様子が気になったらしく、ランが再び洗い物の手を止める。「もしかして、その、私、浮かれすぎたかしら……?」

「えぇ、その通りでございますね」

 曖昧にうなずくアシュリーの言葉はしかし、続かない。

 アシュリーはしばらく沈黙を挟んだ後、一生懸命泡を立てて洗い物をするアンリに目線を移した。

「……魔王様。この部屋の近くに、他の魔族はおりますか?」

「ん……ちょっと待ってくれ」

 泡まみれの鍋を雑に水で流し、それをそのまま拭くこともせず隣のカゴに放り込む。いつもならランがケチをつけるところだったが、この時のランはアシュリーの様子が気になってそれどころではない。

「……誰もいないぞ」

 目を閉じていたアンリが目を開き、そう答える。すると、アシュリーは「そうですか」と短く言った後、アンリの濡れた手を引っ張って歩き始めた。

「魔王様、食後のトレーニングの時間です。お部屋に戻って腹筋五十回背筋三十回腕立て伏せ七十五回スクワット百五十回その他通販的な筋トレ四十セットほどを。いい女はいい身体をしているものですよ」

「お、おう! 任せとけ、魔力に頼り切りの魔族とはいえ、身体を鍛えるに越したことはないからな!」

「……本当にどうしたの、あなた」

 追い出すようにアンリをダイニングキッチンから見送るアシュリーに、ランはさすがに首を傾げる。アシュリーは案の定重苦しい表情を浮かべている。その表情からは、ランに向けた呆れや怒りというよりも、今の事態そのものを憂慮しているような雰囲気が感じられた。

「勇者様、これではダメなのでございます」

「だ、ダメって何の話よ……? もしかして私、ユーキさんに何か迷惑かけてた……?」

「そういう問題ではありません。ただ、これは私たちにとって……良くない展開なんです」

 唐突なダメ出しに、さすがのランも戸惑いの表情を浮かべるしかない。廊下からは遠ざかっていく「キンニクキンニクマオウサマ~!」というアンリの調子はずれの歌声が聞こえていたが、アシュリーは表情を全く変えない。

「正直、私は勇者様に期待をしておりました」

 そのアシュリーが、ランを強く見据えたまま口を開く。「勇者様ならば、今の既定路線を無理やりにでも捻じ曲げられるのではないか。そう期待しておりました」

「期待……? どうして魔王の側近であるあなたに私が期待されなきゃいけないのよ」

「相変わらず肝心なところは鈍感でございますね。まったく、メンヘラこじらせた処女はこれだから……」

「ちょ、ちょっと、どうしてそんなひどいことをいきなり言うのよ!」

 敵対宣言をしておきながら、事実を指摘されると脆いランは泣きそうな表情を浮かべる。アシュリーは諦めたように長い溜息を吐き出し、ゆっくりとランの耳元へ唇を近づけた。

「いいですか、勇者様。一度しか言いませんよ。ユーキ様は、魔王様にお譲り下さい」

「は……?」

 どうして……。

 ランの心の奥でずっと押し込めてきた嫉妬の炎が再び激しく燃え上がる。

 口をパクパクしたランは、少し遅れて叫び始めた。

「どうしてよ! どうしてあなたたちにユーキさんまで! レオンハルト様だけでは飽き足らず、ユーキさんまで私から取り上げようというのっ!?」

「お静まり下さい、勇者様。そのレオンハルト様に関することでございます」

 だけど、ランとは対照的にアシュリーの口調は冷たいまでに落ち着き切っていた。彼女はその形の良い唇を再びランの耳元に近づけた。

「レオンハルト様と婚約するのは、勇者様です」

「……私が、レオンハルト様と……?」

 まるで麻薬を打ちこんだかのように、ランはだらしない表情を浮かべて大人しくなる。

 レオンハルトと婚約する。

 その言葉の響きは、ランの怒りを逸らすには十分だった。確かに、ユーキのことは好きだ。結婚したい。でも、レオンハルトだけは……ランにとって「特別」なのだ。

「魔王様にはレオンハルト様以外の人間の男と仲良くしてもらいたいのです」

 放心するランにダメ押しとばかりにアシュリーが囁いた。

「私は、魔王様とレオンハルト様の婚約に反対しておりますので」


     ◇◇◇


「ふぅん、魔族も一枚岩じゃないんだねぇ」

 城内の寮からの道すがら。

 のんびりとした城下町の陽気に当てられたように、ランからの説明を受けたアミはのんびりと頷いた。

「……それにしてもこれ、バレないかなぁ。アタシ、結構ガッツリ顔割れちゃってるよ?」

「大丈夫だと思うわ。だって、アミは元々声も低いし、今は完璧な男の子よ」

「うーん……そういわれると少し複雑な気分だねぇ」

 ウェストポーチから取り出した手鏡を覗き込みながら、アミは顔をしかめた。グレーのズボンにライトブラウンのベストは共に男物のため、若干だぶついている。さらに太淵のメガネにベストと色を揃えたベレー帽まで着けているため、事情を知らない城の人間が見ても、アミだとは気付かないだろう。

「だけど、ランの口から『ダブルデート』だなんて言葉が出てきた時は本当に驚いたよ」

「し、仕方ないじゃない! 魔王はいくらユーキさんと会うように唆してもその気にならないのよ」


 先日、魔王城でランはアシュリーから交渉を持ちかけられた。

アンリとユーキが仲良くなるために尽力してくれれば、魔王軍はキンダムに対して不可侵の条約を結び、なおかつレオンハルトとの縁談が破談になるよう穏便に話を取りまとめる。そんな、ランにとって願ってもいない条件を、アシュリーは自ら保証すると言うのだった。

 ランは迷った。

 何せ、ユーキは自身に手紙を送ってきてくれた男である。

「手の届くところにある幸せと、手の届かない所にある理想。女は後者を求めてしまうものなのよ……」。

三日ほど不眠症になりながらランが出した結論が、それだった。要はレオンハルトの事を諦めきれなかったのだ。

 決意を固めたランの行動は早かった。

 彼女は翌朝魔剣を帯剣することもなく早速、魔王城へ出向いた。いつもはうるさく指導する家事もほったらかしで、ランはいかにユーキとアンリが交際することにメリットがあるかを説き続けた。それでもアンリが乗り気じゃないと気付くや否や、ランは先日届いた手紙を取り出し、言ったのだ。

「こんな誘いが来てるんだし、あなたも協力しなさい」

「……分かったよ。いけばいいんだろ」

 アンリはしばらくごねたが、鬼気迫るランの説得についに折れた。「付き合えば勇者は満足なんだろ」


「で、何故かもう一人の男子が見つからずアタシにお声がかかったと」

 アミは未だにやや腑に落ちないという表情だ。「まぁ、ランが他の男の子を気軽に誘えるとは思わないけどさぁ」

「だからそれも仕方ないじゃない! 昨日までは私だってちゃんと男の子二人と女の子二人でダブルデートするつもりだったんだから!」

 ランがアミに泣きついたのは昨日の早朝、アミがお勤めに備えて忙しく部屋で身支度をしている最中だった。それまではランも街の酒場で「私ダブルデートするんだけど男の子の枠が一つ空いてるの困ったわ困ったわ」と大きな独り言を連発するなど、涙ぐましい努力を続けていたのだが、もちろんそんな彼女に声をかける物好きは現れなかった次第だ。

「さて、待ち合わせはこの辺だけど……ユーキさんも魔王もまだ来てないわね」

 町の喧騒の真っただ中で立ち止まったランは、辺りをキョロキョロと見渡す。人の往来が阻害される形となったが、彼女に文句を言う者はいない。ただ、目線を逸らして俯き気味に彼女を避けて歩くばかりだ。

「すみませーん、お待たせいたしましたぁ」

 そんな人混みにペコペコ頭をかけながら、小柄なシルエットが近づいてきた。「すみません、ランさん! えっと……そちらの方は……?」

「初めまして、ユーキさん」

 自身とは正反対な軽装のユーキに、アミが白々しく笑みを浮かべる。「アムって言います。今日はよろしく」

「あ、はい。よろしくお願いします!」

 再び元気よく頭を下げたユーキは、アミの顔をまじまじと見つめた。「あれ? 僕たち、どこかで会いましたっけ?」

「そ、そんなわけないじゃないですか!」

 アミに任せておけばよいものをラン、慌てた口調で口を挟む。「ほ、ほら、ユーキさんとアミちゃ――じゃなかった、アムくんは男同士なのよ? そんな運命みたいな言い方したらダメですって!」

「そ、そうですね。あはは、ごめんなさい、僕、なんか気持ち悪いこと言っちゃいました」

「そ、そんな、ユーキさんは気持ち悪くなんかないです! むしろ優しくて誠実そうで意外とベッドヤクザっぽくて……いやだ、私ったら何を……」

 逆に気持ち悪い笑みを浮かべ始めたランだが、寸でのところで思いとどまる。何を未練たらしいことを考えているのだ。この男はこれから魔王にくれてやると決めたばかりだというのに。

「そういえば、アンリさんはまだ来てないみたいですね。今日は一緒に来られなかったんですか?」

「えぇ。あの子は正反対の場所に住んでますから」

 それでも、アンリの名前が出ただけで、ランの胸の奥では黒い炎が燃え上がる。誰も彼もがアンリ、アンリ。どうして男はみんな、あんながさつな女のことばかり気にするのだろう。政略結婚の意味が強いレオンハルトの場合はともかく、ユーキに至ってはアンリが魔族であることすら知らないのに。

「それにしても遅いわね……」

 周囲を見渡しながら、ランは小さくぼやく。

 昨日の夕方、魔王城を出る際に、ランは何度もアンリに集合場所と時間を念押しした。日に焼けた肌のアンリはミッドランの人間たちの中に混じっても外見上問題ないが、アシュリーは注目を浴びすぎるため、魔王島から出ることができない。アンリは一人でここまでたどり着くことができるだろうか。ランは次第に心配になってきた。

「……迎えに行ってきなよ」

 不意に、アミがランの耳元で囁いた。

「魔王のことが心配なんでしょ。ここはアタシがつないでおくからさ」

「ど、どうして私があんなやつのことなんて……」

「さっきからソワソワしててとっても不自然だよ、今のラン」

「で、でも……」

 城下の街並みを物珍しげに眺めているユーキに視線をやりながら、ランは弱々しく視線を落とす。どうしても素直に自分の気持ちを伝える勇気が足りない。

「……あまりアミとユーキさんは二人にならない方が……バレちゃうわよ?」

「大丈夫だよ。アタシ、男の子っぽいからさ」

「……ありがとう、アミ」

それでも、優しく背中を押してくれるアミのおかげで、ようやくランは決意した。「なるべく早く帰ってくるから」

 ウィンクする友人の繊細な手を握ると、ランはおずおずとユーキに声をかけた。

「あの、ユーキさん。私、もう一人を迎えに行ってきます。ユーキさんはア……ムさんと一緒にここで待っててください」

「アンリさんを探しに行くんですか? 僕も行かなくて大丈夫でしょうか」

「だ、大丈夫です!」

 ユーキの提案にランは反射的に首を振る。「そ、その、女の子同士の方が、こういう時はいいので!」

「それに、アタシた――じゃなかった、オレたちがここを動いちゃったらアンリちゃんが自力でたどり着いた時困るだろ?」

 アミのフォローが功を奏したのか、ユーキは少し残念そうな表情を浮かべつつも、「それもそうですね」と小さく笑った。

「では、申し訳ないですがランさんにお任せします」

「もし、海の方まで行ってしばらく待ってこなかったら戻ってくるから」

 そう言い残して、ランはさっさと人混みを掻き分け、城下の門へと向かっていく。

 その足取りはどこか、浮かれているようにアミからは見えた。


     ◇◇◇


「まったく……何しているのよあの子は……」

 苛立たしげに海岸沿いの路地を早足で歩いていたランは、足を止めて汗をぬぐった。雲一つない青空を恨めし気に見上げると、ギラギラと輝く陽光はすでに傾き始めている。

 現在ランがいるのは、キンダム城下町の城門を出てすぐの海岸通りだった。城門とは言っても隣国ディバイン帝国との戦時中や、長い歴史の中であった魔族の襲撃時など非常時以外常に開け放たれている。そのため、城門の外に位置するこの海岸通りも町の一部みたいなものではあるが、ここまで来るとランも大分探した気になってくる。

「もしかして入れ違いになってしまったかしら……」

城門で生真面目に衛兵を務める、よく見かける新人兵士もアンリらしき姿は見ていないと言っていた。

入れ違いの可能性は考えにくいのだが、アミとユーキを二人置いてきたため、無駄に時間を浪費する訳にはいかない。ランは海岸の向こうに広がる水平線の向こうに目を凝らしていたが、やがて諦めたらしく急いで踵を返した。

「きゃっ……!?」

 だがその瞬間、全身に衝撃を受け、ランは狭い路地で尻もちをついてしまった。驚いて顔を上げると、二人組の若い男が自分のことを見下ろしている。ぶつかった方の大柄な男も驚いたらしくしばらく固まっていたが、その時後ろに立っていた髪の長いピアスの男がニヤニヤした表情で声をかけてきた。

「やぁお姉ちゃん。こんなところに何か用?」

「す、すみません、急いでて……」

 本来、ランは異性との会話を苦手とするタイプだ。しどろもどろになりながら小さな声で謝っていると、大柄な男の目線がわずかに動くのを感じた。

「確かに『すみません』だわなぁ。急いでても人にぶつかってごめんちゃい、だけじゃ済まないもんなぁ」

 何がおかしいのか一人で笑う長髪ピアスの言葉よりも、大柄な男の視線が気になる。男の視線は尻もちをついたランのスカートからのぞく両足の間辺りに注がれている。見られた。そう直感したランは顔を真っ赤にしながらスカートを抑えて俯いてしまった。

「……ま、俺たちもちょうどビーチで遊び相手探してたとこだしさ。ここはタイミングが良かったってことで手を打っておくからさ」

 下卑た目線でランを舐め回すように見下ろす長髪ピアス。その視線に嫌悪感を抑えられなくなったランは、自らの身体を抱くようにして縮こまってしまった。

「……ちょっと酷いんじゃないか」

 初めて大柄な男が口を開いた。それは地鳴りのような、重々しい声だ。「ぶつかっておいて、俺たちが悪者みたいに怯えやがって」

「ま、まぁまぁ、ポー。そういうなって。お姉ちゃん、怯えちゃってるじゃねぇか」

 相変わらず軽い口調の長髪ピアスが大柄な男をなだめるが、その視線は相変わらずランの生足やピンクカラーのキャミソールの胸元を這うように動いている。そこに加わる高圧的な大柄な男の目線も相まって、ランは思わず呟いた。「助けて……」

「なぁポー。俺はこういう怯える女の子を押し切るの、すっげえ好きなんだけどよ」

「……俺は反吐が出るぜ、チン。こういうビクビクするだけで何もできない女はな」

「相変わらずポーは硬いなぁ……」

 もしランがいつも魔王城へ向かう際の武装した姿だったなら、彼らは今頃尻尾を巻いて逃げていただろう。人類最高戦力の魔剣使いにナンパを仕掛けるほど彼らも無知ではない。だけど、今のランは足の露出が多いミュールに膝までのプリーツ・スカート、上はキャミソールというどこからどう見ても「ただの女の子」な姿だ。加えて、二人組に対する恐怖心でパニックに陥っているわけだから、「人類最高戦力」も見る影がない。

「……おい、女。いつまでそうやってるつもりだ」

 助けて……。

 ギロリ、と大柄な方の男に見下ろされ、ランは尻もちをついたまま後ずさる。ゼロがなくともそれなりの武術は叩き込まれてきた。普通に戦えば二人を相手にしても負けないだろう。頭ではそう分かっているのに、身体が動かない。男が怖い。追い詰められている自分が惨めだ。先ほど尻もちをついた時に足首も捻ってしまった。もういっそ、このまま二人の言いなりになってしまった方が楽じゃないかしら……


「おい、勇者をいじめるな」


 その声が聞こえてきた瞬間、ランは自分でも驚くほど安心感に包まれていた。

「……おやおや、とんだお邪魔虫が現れちまった」

 目の前で長髪ピアスが両手をわざとらしく広げる。

「おっぱいだけは大人みたいだけどさ。生憎俺はロリには興味ないんだ、お嬢ちゃん」

「お前たちの興味なんてどうでもいいんだ。ランをいじめるな」

 ランは安堵を覚えながらも、背後から近づいてくる幼い声の主を振り返ることができなかった。

理由は二つ。

一つは、今どんな顔をしているのか、彼女に見られたくなかったから。

そして、もう一つはその声はランが今までに聞いたことがないほど怒りに満ちた、「恐ろしい魔王の声音」だったからだ。

「……ちょうどいい」

 その時、大柄な男が唐突に笑みを浮かべた。それはまるで、獲物を執拗に狙う猛禽類のような鋭い眼差しだ。

「……なぁ、チン。俺はこいつをもらう。いいか?」

「……相変わらずポーは物好きだなぁ。いいぜ、そのちんちくりんは譲る。その代わりに俺はこの姉ちゃんをもらうぜ」

 大柄な男と何やら合意に達したらしい長髪ピアスが手を伸ばしてきた。細い腕が伸びてくる。「さぁ、立たせてやるから勃たせてくれよ……なんつって……」

「まずは手を洗え。勇者がいつも言ってた」

 パチン、と渇いた音がした。

 唐突に横合いから手を払われた長髪ピアスが茫然とする。大柄な男が咆えたが、何と言ったか分からない。そんな見せかけだけの威嚇なんて気にならない程、ランは本気の殺気を感じていた。

「弱い者いじめは好きじゃないけど仕方ないな。お前たちは弱いものいじめが好きそうだもんな」

 カラン、と金属が地面で弾み、転がる音がした。魔王の力を抑制していたはずの指輪が石造りの地面を転がり、ランの足元で止まる。いけない。脱力しきったランの身体が熱を帯び始めた。

「まぁ、勇者って本当はお前らなんかよりずっと強いんだけどな!」

 大柄な男が殴り掛かってくる。

 同時に、背後の殺気が膨れ上がった。その殺気に弾かれたようにランは勢いよく立ち上がる。「ダメよ、やめなさいアンリ!」

「…………え?」

 無我夢中で身体を動かした。流れるように繰り出されたランのしなやかな蹴りが大柄な男の胴を打つ。鈍い打撃音と共に、大柄な男の身体が宙を舞った。

 そして気付いた時には、ランの目の前で長髪ピアスが逆に腰を抜かしていた。「お、おい、ポー。なんでお前吹っ飛んでんだ……?」

 大柄な男が長髪ピアスの後方で伸びていた。

 そんな相棒を信じられないとばかりに眺めていた長髪ピアスがゆっくりと、ランの方へと振り向く。「じょ、冗談だろ、お嬢ちゃん……? そういやあんた、勇者って……まさか、あんた、キンダム兵士長のラン・ヘーメライ……?」

「勇者は強いんだ」

 長髪ピアスを見下ろしながら、小さな影が凄惨な笑みを浮かべた。

 魔王の笑みを浮かべる少女の横顔を見て、ランはようやく本当の意味で安堵の息を漏らしたのだった。


     ◇◇◇


 土の香りは胸に心地よく、風の音は思考を落ち着かせてくれる。

「さて、ようやくたどり着きましたね」

 ユーキが気持ちよさそうに伸びをして足を止めた。

「この辺りは僕たちの村と同じ空気の匂いがします。ん~……城下の賑やかな感じもいいけど、やっぱりこっちの方が落ち着くなぁ」

 海岸沿いの路地でアンリと合流したランはそのまま城下町に戻り、反対側の門の外から続く山道を歩いていた。

総合施設「コウフクのむら」。

少々予定よりは遅れたものの、四人は日が高いうちに目的地にたどり着くことができたので、安心した様子で辺りを見渡している。

「とりあえず僕、到着確認をしてきますね。みなさんはここで待っててください!」

 気を利かせてくれているのか、ユーキが入り口の建物へと駆けていく。その後ろ姿を見て、アミは呟いた。「こないだも思ったけど確かに、いい子っぽいね」

「そうでしょう? でも、アミまでユーキさん狙っちゃダメよ?」

「分かってるってば、アタシは盛り上げ要員なんでしょ。……けどさ、それを言ったらランだって同じだよ」

「人間の国にもこんなのんびりした場所があったんだな!」などと周囲で騒いでいるアンリを見つめながら、ランは答えた。「……分かっているわよ。ユーキさんには悪いけど、これは仕方ないことなの……。私の幸せのためにも、レオンハルト様のためにも……」

「コウフクのむら」は城下の北の山村部に位置する自然に包まれた施設で、千人規模のキャンプ場からスポーツ施設、果ては温泉宿まで集まっており、ユーキの提案で最終的にアンリを含めて四人で行こうという話になったのだ。

「……それにしても本当にアタシ、来なくてよかったんじゃない? 今のところ二人とも気付いてないけど……」

「ダメよアミ! 私一人じゃ魔王とユーキさんが仲良くなる展開、黙ってみていられないもの」

「……確かにそうだね。ごめん、さっきの撤回。けど、アタシにもできることあるかなぁ」

 施設を訪れた家族連れの小さな子供とじゃれ合うアンリを眺め、アミはため息を吐いた。

「あの……すみません。もしかして劇団の役者の方じゃないでしょうか……?」

「……ん? 私たちのことかしら」

遠慮がちにかけられた声のした方を振り返ると、若い女性が立っていた。歳はランやアミより少し上くらいだろうか。

「ふふ、お忍びで今日は来たのだけれど。どうやらステータスは隠せても、私のあふれ出るヒロイン力だけは隠しきれなかったようね」

「いえ……そちらの方なんですが」

自信満々に無い胸を張ったランの表情が一瞬にして固まる。あぁ、緑の世界が揺れている。そんなポエムが喉元まで出かかったのを何とか呑み込み、パチクリと目を瞬いた。目の前の女性は、ランの隣に立つアミを熱っぽく見つめている。

「あ、あはは、どうやらアタシ、みたいだね」

小声で笑いかけてくるアミに構わず、女性はずいと身を乗り出してくる。

「あの、私! ずっと劇団に憧れてまして! よかったら色々、お話聞かせてくれないかと……」

「いやぁ、参ったな」

なるほど、男装をしたアミの物憂げな表情はシックなデザインの服装も相まって、なか

なか絵になっている。確かに言われてみれば「劇団の俳優」にも見える姿だ。

同性とはいえこうして迫られるとアミも悪い気はしないのだろう。まんざらでもないという表情を浮かべるアミは、そのまま流れに乗っかったように女性と一緒にどこかへ歩いて行ってしまった。

「もう、アミったらまた私のことを置いていくのね……」

 先日の婚活パーティーに続き、早々に離脱したアミに腹を立てるランだが、すでに入り口の広場から遠ざかってしまったアミは手を振るだけだ。ランはそんな友人の姿を見送っていると、唐突に惨めな気分になってきた。

 どうして、私だけうまくいかないのだろう……。

 アミたちが消えた人混みを眺めていると、たくさんの笑顔がごった返している。

 本当は、あの若い母親のように、大切な人と育んだ家庭の温かさが欲しいだけなのに。

 本当は、あの笑顔を浮かべる少女のように、大切な人と想い出を共有したいだけなのに。

 どうして、自分だけがこんなに苦しい想いをしなければいけないのか。

人類にとっての特別になんてなりたくなかった。

たった一人だけの特別になれればそれでよかった。

誰か……。

いつになったら……この渇いた心に潤いを与えてくれる人に出逢えるのだろう。

 喧騒が憎々しい。

 どうして、私は一人なの? ランは自問を続ける。

緑と土と青で構成された山奥の風景は、白々しいジグソーパズルのように感じられた。

「――い、勇者!」

 ふと馴れ馴れしく近づいてきた気配に、ランは我に返った。

「ようやく気付いたか。ずっと呼んでたのにボーっとしやがって。腹でも減ったのか?」

 ランの傍らで人懐っこい笑みを浮かべているのはアンリだった。小柄な自身の胸元にも届かない子供たちをゾロゾロと引き連れるその姿は、先ほど路地裏で垣間見た恐ろしい魔王の姿とは似ても似つかない。

「あなたじゃないのだから、そんないつもいつもお腹空かせていないわ」

 木々が風に揺れ、子供たちが土を蹴り上げ、小さな雲がゆっくりと動いている。

 そんな背景を眺めるランの表情は先ほどより柔らかい。

「食べることばっかり考えてるわね、あなた」

「そうか? でも着いたらまず『ゴハンスイサン』しようってユーキがさっき言ってたぞ」

「ゴハ……? 『ハンゴウスイサン』じゃない?」

 ランの心配をしつつも自分の方が空腹なのはバレバレだ。涎を垂らしそうなまでに口元を緩め、アンリは目を輝かせた。

「『ハンゴウスイサン』って料理、美味いのかなぁ。肉はたくさん入ってるのかなぁ」

「……本当あなた、ぶれないわね」

 恐らく「ハンゴウスイサン」が何かも分かっていないアンリにしかし、ランは微笑んだ。そして、一瞬でもそんな表情を浮かべた自分に驚いた。宿敵にして恋敵。そんな女との会話に、何を笑っていたのだろう……?

「なぁ、勇者。さっきはありがとうな」

「え?」

 思わぬ言葉に、ランの戸惑いはますます広がった。

「何のことよ。言っとくけど、さっき助けてもらった時のことなら、私、ちゃんとさっき謝ったわよ。迷惑かけちゃってごめんなさいって」

「うぅん、違うんだ。迷惑かけたのはあたしも同じだからさ。だって勇者、待ち合わせの時間に遅れたあたしを迎えに、あんなところまで来てくれたんだろ?」

「べ、別にあなたのためじゃないわ! 私はただ、ユーキさんやアミを待たせたくなかったから……」

「知ってるぞ勇者! お前のそれ、『つんでれ』って言うんだろ。ただの照れ隠しだってアシュリーが言ってた!」

「あのダメイドめ……」

「それに、さ」

 表情を変えることなく毒を吐くアシュリーの姿を想像し、思わずランの顔が強張るが、アンリは対照的にあどけない笑みを浮かべたまま続けた。

「お前は、あたしを庇って最後は自分で戦ってくれた」

「ぅ……」

 いくら幼く見えても無邪気に見えても、やはりアンリは魔王なのだ。

 自分の振る舞いの意図なんて見透かされてしまっている。

「あのままあたしが勇者を助けるために戦ってたら、確実にあたしの正体はバレて街から追い出されてただろ」

「そ、そうよ……。そうしたら私たちにしても迷惑かかるから、仕方なかったのよ」

「大分調子が出てきたな。……でもよ、勇者の事情はどうでもいいんだ。だって、勇者のおかげであたしが助かったのは本当のことなんだからな」

 爽やかな風に揺れる木々をバックに、アンリが屈託のない笑みを浮かべる。

「だから、あたしは勇者に礼を言うよ。ありがとうな、勇者」

「……どうしてよ」

 その敵意の欠片も感じられない笑みを見て、ランは思わず呟いた。「どうして、あなたは私に対して素直になれるのよ!」

「どうしてって……」

 アンリの笑みが苦笑めいたものに変わっていく。

「だって、勇者があたしのために色々手を焼いてくれてるのは、分かってるからな。それにあたしが従うかはさておくけど」

「違うわよ! どうして魔王のあなたが、勇者の私と慣れ合っているのかって言ってるのよ! おかしいでしょう?」

「ん、何がおかしいんだ?」

 一瞬真顔に戻ったアンリが首を傾げる。

「あたしは勇者と仲良くしちゃいけないのか?」

「当たり前じゃない、私は勇者であなたは魔王! 宿敵同士が慣れ合いなんてちゃんちゃらおかしいわ!」

 アンリの後ろにいる子供たちの注目を浴びるのも構わず、ランは声を上げる。子供たちが口々に「このお姉ちゃんが魔王だなんてふざけんな!」「魔王はもっと強そうでかっこいいんだぞ!」と勝手なことを叫んだ。

「……何もおかしいことはないさ」

 そんな子供たちを優しく見渡した後、アンリは満面の笑みで振り返った。「だって、あたしは勇者と一緒にいるの、楽しいぞ。ちょっと口うるさいなって時もあるけどさ」

「け、けど、私はあなたを何度も殺そうとしたのよ?」

「そんなこと関係ないさ。それを言うならおあいこだしな。最近はやってないとはいえ、むしろいつもあたしが勇者に痛い目ばかりさせてすまないとすら思ってるよ」

 また、魔王のものとは思えない温かい声音。

「辛かったんだよな、お前は……」

 だけど、ランにはその言葉に裏があるようには思えなかった。

「だからさ、『ラン』。せめて今日みたいな日くらい、勇者を辞めて普通の人間の女として楽しめばいいんじゃないか」

 初めて自身がアンリに名前を呼ばれたことに戸惑いながらも、ランは不思議と悪い気はしない。勇者としての力がない自分になんて、何の魅力もない。常々そう感じていたのに、「勇者を辞める」というアンリの言葉はとても温かな響きに感じられた。

「だから、ランもこいつらと一緒に遊ぼうぜ」

「……分かったわよ」

 諦めたような口調ながらも、ランの表情は明るい。

 遊び仲間の新加入に沸き立つ子供たちの中、一際輝く笑みをアンリは浮かべていた。


     ◇◇◇


 澄んだ空気と風の音。

大自然の炊事場の中、四人の時間は緩やかに流れていく。

「あ、危ないですよ、アンリさん! ほら、お野菜を切る時に添える指はこうして軽く曲げてですね……」

「こういうことか?」

「そうですそうです。いやぁ、アンリさんも筋いいですね。ランさんはもう熟練って感じですが、アンリさんも少し練習したら僕なんかよりすぐに上手くなりそうです」

「ふふふ、どうだラン! ユーキはあたしのこと認めてくれたぞ」

 包丁をプルプル震える小さな手で握りながらも、アンリが得意げに笑う。「その内お前も抜いて、あたしの料理でお前に美味しいと言わせてやるからな」

「あ、あの、アンリさん。もう少し集中して包丁は扱わないと……」

「っとと……あっぶねー、危うく指切るところだったな」

 屋根のついた炊事コーナーで、周囲のグループの話声に混じってそんな声が聞こえてくる。思いの外、親しげに作業を進めるアンリとユーキの姿は事情を知らなければ、どこにでもいる若い少年少女のカップルに見えるだろう。

「これはチャンスあるかもしれないね」

 そんな二人の様子を眺めていたアミが、ふと囁いた。相変わらず男装を続けるアミだが、先ほどの劇団ファンに何をされたのか、服が乱れている上に頬が赤く腫れている。

「魔王もあの子には結構心許してるみたいじゃない」

「……そうね」

 総合施設内の調理スペースで米を炊きながらシチューを作ることにした四人は、作業分担をまず行った。

たとえば、野菜を切るのはアンリとユーキの役割。

この後の工程も、できるだけアンリとユーキが二人で作業を進める機会が多くなるように組んである。

「私の時もあれだけ言うこと聞いてくれたらいいのに」

 ユーキに対して従順なアンリを眺めながら、米を研ぐランはぼやいた。

「あのダメイドもいつもは絶対邪魔してくるのよ」

 今日ユーキと会うまでは興味がないと言っていたくせに。

 アンリとユーキが身を寄せ合いながら、野菜を刻んでいる様子を眺めながら、ランはそんなことを考える。着々と仲良くなっていく二人。それを見ていると、ランはやはり心がささくれ立つのを抑えられなかった。

「ラン、水! 水!」

 アミの慌てた声に視線を手元へ戻すと、水道から流れる水が飯ごうから溢れ出し、米と一緒に排水口へと流れていた。ランがあっ、と声を上げる間にアミが水道の栓を閉じる。「もう、ランがボーっとしてどうするのさ。魔王じゃないんだから」

「……ごめん」

 途端に、手を包む飯ごうの水を冷たく感じた。嫌な感触だ。ザラザラとした米の感触は砂のように余所余所しく、米の研ぎ汁は白く濁っている。

「……やっぱり、ユーキさんのことも気になる?」

 アミの言葉に、ランは力なく頷いた。

「レオンハルト様のためと分かっていても……私、割り切れないの」

「魔王とユーキさんが仲良くなれば、レオンハルト様はフリーになるよ。ラン、そのために婚活パーティーにいったんでしょ」

「うん。分かっているわ。私はレオンハルト様のことが好き。だけど……」

 調理台を挟んで向こうの卓上では、アンリとユーキが身を寄せ合うようにして、野菜を切っている。トン、トン、トン。小刻みに包丁がまな板を叩く。その音が耳に届くたびに、ランは自分の心が乱れていくような気がした。

「私、気が多い人なのかな」

 単に異性から優しくされるのに慣れていないため、すぐにその気になってしまう。

 きっと、それだけだ。

 胸にモヤモヤしたものが残るのを感じながら、ランは白い米の研ぎ汁を捨てた。


     ◇◇◇


 幸いにも、アンリをフォローするに足る技量をユーキが持っていたため、料理は無事完成した。

「いやぁ、やっぱり自分たちで作ったからかとても美味しく感じられますね」

 相変わらず人当たりの良い穏やかな笑みを浮かべたユーキが、スプーンを持ったまま言った。その向かいではアンリが猛然とスプーンを振っていたが、ユーキは気にしていない様子だ。

「自分たちで苦労して作った。アタ……オレなんて普段料理しないから、余計感じるね」

 ユーキの隣に座ったアミが白々しくそんなことを言う。「オレは食べる専門なんでね」

「えぇっ? アムさん僕よりも絶対料理できそうだと思いました。上手いのにもったいない」

「あはは、オレなんて厨房じゃ『いるだけで邪魔なレベル』なんでね」

「設定上」そんなことを言っている「アム」だが、ランが人並み以上に料理をできるようになったのはこの男装が似合う幼馴染の指導のおかげだ。ちなみに、「いるだけで邪魔なレベル」というのは、料理を始めた頃のランに幼き日のアミが放ったコメントであり、その記憶が残っているのか、ランがビクリと身を震わせた。

「……けど、やっぱ料理はなかなか難しいよな」

 いつの間にかシチューを食べ終えていたアンリがしみじみと呟く。

皮が少し残ったイモを咀嚼していたランが顔を上げると、アンリの真っすぐな視線とぶつかった。

「こんな難しいことを毎日、ランはあたしに教えてくれてたんだな」

「な、何よ、急に……」

 その真っすぐな視線をどうしても受け止められず、ランは視線を逸らす。炊事場の隣の食事スペースから見える緑の木々が、風に揺られてざわめいていた。

「やっぱランはすげーよ」

 それでも、アンリは視線を逸らさない。

「いつの日か、恩返ししてやらないとな」

「そ、それならさっさとイモニクの一つくらい作れるようになりなさい」

 どうして、こんなにもイライラしているのだろう。

 ランは揺れる木々を眺めながらそんなことを考えた。

「そういえばアムさんはランさんのお知り合いなんですよね」

 そんなランの苛立ちを察したかのように、ユーキがアミに話を振った。「もしやアムさんもお城の兵士さん?」

「半分当たり、かな。オレは衛兵じゃないよ。どちらかというと掃除とか、そういう雑務が多いね」

「お城の掃除とか広くて大変じゃないですか?」

「それが仕事だからね」

 ランとユーキを会話させるわけにはいかない、とばかりにアミが即答を続ける。「設定上」は男同士であるはずの二人だが、元々互いに社交的な性格をしているためだろう。二人の会話はそれなりに弾んでいた。

「ラン、ありがとうな」

 そんな二人を、何を思うでもなくぼんやりと眺めていると、アンリが身を乗り出して話しかけてきた。

「今日、来てよかったよ。ユーキとも仲良くなれそうだ」

「そう、良かったじゃない」

 心から喜んでいるような笑顔。

 そんなアンリの表情を見て、また心が痛んだ。

「ランはどうだ? えっと、アムと仲良くなれそうか?」

「えぇ。もうラブラブなくらいにね」

「そっかぁ。さすがはランだな」

 ヤケを起こしたように答えているのに、アンリは満足げに頷くだけだ。その様子がさらにランの苛立ちを掻き立てていく。

どうして、そんなに一人だけ幸せそうな顔をしているのか。これでは不公平ではないか。

胸の奥で今日一日くすぶり続けていた黒い炎が徐々に、だが確実に燃え上がっていく。

「ねぇ、『魔王』」

 世間話で盛り上がるアミとユーキを避けるように、ランはアンリに顔を近づけ囁いた。深呼吸。これは自分が望んだ通りの展開ではないか。そのために婚活パーティーに魔王を連れ出し赤っ恥を掻き、今日このダブルデートを成立させたのではないか。そう。これでいいのだ。計画通りだ。このままアンリとユーキが仲良くなれば、きっと……。

「あなた、ユーキさんと結婚しなさいよ」

「ん? あたしはレオンハルトと結婚するんじゃなかったのか?」

 ぽかん、とした顔をするアンリに、ランの心はさらに荒れていく。今なら引き返せる。一瞬だけそんなことを思ったけど、言葉は止まってくれなかった。

「魔王。あなたはユーキさんと結婚するの。そして、ユーキさんのために生きていく」

「けどレオンハルトはどうなるんだ?」

「レオンハルト様は……」

 これは覚悟か、単なるヤケなのか。

 自分でも分からない。

 それでもランは、はっきりとした口調で宣言した。

「レオンハルト様は私と結婚する。あなたが他の人間の男と結婚さえすればきっと、レオンハルト様があなたなんかと結婚する理由はどこにもなくなるのだから」


 その言葉を聞いて、アンリは少しだけ寂しそうな表情を浮かべた後、「そっか」と言った。

「ランはやっぱり、レオンハルトが『好き』なんだな」

 そう言って、アンリは空になった紙皿を片付け始める。

 その小さな姿を見つめていると、ランの心の奥はチリチリと痛むのをどうしてか、抑えられなかった。



 そして、この日からアンリの花嫁修業は佳境を迎えることとなる。

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