第四章~正しいパーティーでの振る舞い方~

「服は畳んで片付けなさい!」

魔王の居城の炊事場にて、今日も勇者ランの奮闘は続いていた。

「部屋の隅にたまった埃までしっかり拭き取るのよ。あと、浴槽の掃除は毎日しなさい」

「うるさいなぁ……」

「つべこべ言わない。この無駄に広い城の中、私がどれだけ苦労してあなたの不手際を見つけてあげているか、分かっているかしら?」

 ランが魔王の花嫁修業に協力し始めてから、数日が経った。

 この間、ランは毎日アンリたちが住む城へ通い、まるで小姑のごとくアンリにケチをつけているのだが悲しいかな、アンリの家事は一向に進歩しなかった。

「勇者様。魔人にもキンダム人同様、向き不向きというものがございます」

 炊事場の奥から顔を出したアシュリーが見かねたように口を挟む。「……もぐもぐ、私、ドルジの作った料理が懐かしくなってきました」

「私だって付き合ってあげてるんだから我慢しなさい。……あと、バナナの皮を床に捨てない。あなたがそんなんだからアンリもこんなグータラになっちゃったんじゃないの?」

「キンダムには『道具は持ち主に似る』という言葉があるとうかがいました。私たちも、同じことでございますよ」

「……はぁ」

 しれっと答えながら、バナナの皮を放置してそのまま食品保存庫がある炊事場の奥へと踵を返すアシュリー。普段ならランも言い返すところであったが、今日はため息を吐くだけであった。

「これは、さすがにまずいわね……」

 アンリを「人並みな花嫁」にするため、ランは強硬手段に出た。

 それは、城の家事を一身に背負っていた巨漢の魔人ドルジに暇を出させ、彼の担っていた家事をアンリに実践させる、というものである。

当然、ドルジと同じだけの仕事量をアンリ一人でできるとはランも思っていない。

 だから、彼女自身もアンリを「サポート」するようにはしているのだが、アンリの家事能力は「サポート」どころか「代理」が必要なレベルであった。

「……とりあえず、さっき言ったことは私が片付けておいたわ。明日からはちゃんと一人でやりなさい」

「おう!」

 返事だけは威勢の良いアンリに、ランはまたもため息を吐く。

「あとは、昼の片付けね……はぁ……」

 炊事場の奥にある小窓からは、西日がこれでもかと注ぎ込んでくる。

 振り返ってその日差しをもろに受けたランの顔は、これでもかとばかりにしかめられた。それはもちろん、眩しいばかりが原因ではない。

「おう、勇者! この残った昼飯、食うか?」

「……遠慮しとくわ」

「そうか。じゃぁもったいないけど捨てるか……」

 底の深い鍋を抱えたアンリがやや残念そうな顔をして、それを流しへと傾ける。ドロリ、と黒い液体が零れ落ちるのを見て、ランはハッとした。

「ダメよ! 流しに捨てたらつまっちゃうじゃない!」

 アンリからひったくるように鍋を奪い、ランは床に散らばっていたゴミ袋へとその中身を注ぐ。生臭い、「食べること」を目的として作られたとは思えないゲル状の液体。その異臭に、ランは激しくむせ返った。

一日の疲れが唐突に、押し寄せてくる。

どうして自分がこんなことをしているの?

どうして……勇者である自分が、こんな惨めな気分を味わわなければならないの?

魔王にいつまでも勝てないどころか、その宿敵にずっと好きだったレオンハルトを取られそうになって、さらに自分はそれを手伝わされている。

人として、勇者として、女として。

普段は極力考えないようにしていたが、こんなにも惨めな気持ちがあるだろうか?

「だ、大丈夫か勇者?」

「……大丈夫じゃないわよ。どうやったら……野菜炒めのレシピでこんなものが出来上がるのよ」

「もぐもぐ。ですから勇者様。魔人にも向き不向きがございまして今日こそはドルジに夕食を……」

「分かったからあなたもこれ以上私の仕事を増やさないで! もう私、疲れたわ……」

 いつの間にかバナナの皮で埋め尽くされた床を見て、ランは悲壮な顔を浮かべた。さすがに気の毒に思ったのだろう。アシュリーも手にしたバナナの皮をランが開いたゴミ袋へとシュートする。

「……とりあえず、食べられるものを作る事を目標としましょう」

 アンリの壊滅的な家事能力。

 その中でも一段と顕著なのは彼女の料理スキルであった。

 まずは、キンダム人が当たり前に使うはずの調理器具を、魔人の王である彼女は手にしたことがないどころか見たことが無い。

 しかも魔法で調理をしようにも加減を知らないので、道具の使い方から叩き込む必要があるのだが、それ以上に厄介なのは、その絶望的なまでに豊かな発想力だった。

「うーん。あたしは味濃いのが好きだし、キンダムの調味料をいっぱい入れたらおいしくなると思ったんだけどなぁ。どうしてキンダムの調味料は美味しいのに、料理に入れたらまずくなるんだ?」

 アンリは、調理の過程で必ず、ランの指示していない調味料を大量に使うのだ。

 それも、料理の味をぶち壊す「致死量」を。

アンリ自身、それを良かれと思ってやっている節があるのだからタチが悪い。

「ほら、あたしも本でキンダム人の『ヒトヅマ』のこと調べてたんだよ。そしたら、分かったんだ。うまい料理には『隠し味』があるってな」

「それは普通の料理が作れるようになってから言うことよ……」

 料理において初心者が犯しがちな「隠し味」による失敗。

 それを、アンリはランの目を盗むようにして何度も繰り返すのだった。

「けど勇者。あたし、料理好きなんだよ」

「それは素晴らしいことでございます魔王様。確か、キンダムでも『好きこそものの上手なり』という言葉がありましたね、勇者様」

「そんな綺麗ごと私は信じないわ!」

 盛り上がる主従と悲痛な叫びを漏らすラン。

 自分が取り乱し過ぎたことに気付いたランは、深呼吸を一つ挟んだ。いけない。こいつらと一緒に騒いでいてはダメなのだ。私は誇り高き勇者。レオンハルト様に使える誇り高きキンダムの女なのだ……。心の中で何度も呪文のように自分に言い聞かせ、ランは再び口を開いた。

「……とにかく。料理を嫌いになってもいいから、まともな食べ物を作れるようになりなさい」

「あたしはそうしてるつもりなんだけどなぁ」

 苦笑したアンリは「でも」と付け加えた。

「あたし、料理を嫌いになることはないと思うぞ。勇者がいる限りは」

「……どうしてよ」

 勇者がいる限り。

 その言葉が何故か、心に引っかかるのをランは感じた。

「だって、あたしが料理すれば勇者があたしの作ったものを食って、感想を言ってくれるからな。今のところは文句ばっかり言われてるけど、自分が作ったものを味わって評価までしてくれるって、とってもあたしは嬉しいんだ」

 にこにこと笑うアンリの笑みに、ランは自らの心がさらに激しく揺れるのを感じた。

「あたしはキンダム人に嫁ぐことに関してはどうでもいいけど、勇者をいつか満足させてやりたいって思ってる。だから、これからも付き合ってくれよ、勇者」

 どうしてだろう。

 どうして、アンリはこうも宿敵の前で笑っていられるのだろう……?

 そしてどうして、自分はその笑みを見てこんなにも心が揺れるのだろう。

「……そろそろ出かける準備をするわよ」

 乱れ始めた心に蓋をするように、ランは機械的な口調で言った。「残念だけど、今日の夕食は料理する必要がないの」

「え、どうしてだよ」

「今日はこの後、キンダムの街で夕食を取るからよ」

 魔王がなんと言おうが、今は自分の幸せのために手を打つ。レオンハルトに必ず自身が嫁入りする。ランはそう決めたのだ。余計なことは考えなくていい。自分のために打算する。キンダム人にとって、当然のことだ。

「今日はキンダム人を知ることもかねて、私の友人と食事会……合コンをするのよ」

 だけど、アンリの残念そうな顔を見ているとその当然のことが、何故か後ろめたいことに思えてきた。


     ◇◇◇


「ねぇ、アミ。どうすればいいのよ?」

 どこかで聞いたことのある北国の民族音楽が奏でられる小料理屋の中、ランはアミに耳打ちした。

「話が違うわよ。合コンはどうなったのかしら?」

 男女が所狭しと集まった薄暗い室内。

ぼんやりとした灯りの中、アミが困ったような笑みを浮かべ言葉を詰まらせるが、そんな彼女たちの様子など気にした様子もなく、アンリが隣でガツガツスプーンを振るっていた。「うおー! ドンブリってすげぇうめぇ!」

「あ、アタシ呼ばれてるみたいだから、あっちのグループに行ってくるね!」

 逃げるみたいにそそくさと去っていく友人の背中を見て、ランは悟った。

アミは「合コン」のセッティングに失敗したのだ。

「ほ、本当に、どうすればいいのよ……」

 途方に暮れながら、ランはおろおろと周囲を見渡す。

テーブルごとに配置された若い男女の群れ。他愛もない話をいちいち大仰なリアクションで聞く頭の軽そうな男、明らかに相手に媚びた話し方をする尻の軽そうな女。目につく人全てが自分とは違う世界の住人に思えて、この場にいるという事実そのものが、ランには苦痛に感じられ始めた。部屋の入り口付近で見たことのない楽器を演奏している若い男女も、異次元の住人に思える。

「……ところでこいつら、なんで集まってるんだ? 飯食うだけなら群れなくてもいいだろ?」

「食べているのはあなたくらいよ……」

 ふと丼から顔を上げたアンリに、ランは力なく答えた。

「今日のこれは、『婚活パーティー』。いわば、男女が出会いを求めるために集まる、交流会よ。……多分」

「男女が出会いを? どうしてだ?」

 自信なさげなランに構うことなくアンリは問いを重ねた。

 恋愛感情そのものが希薄な魔族のアンリには、男女の出会いの意味が分からない。……それは分かっているのだが、ランは苛立ちを感じ始める。自然と口調が刺々しくなりそうなのを何とか呑み込んで、言葉を続けた。

「こういう場所で出逢って、それで恋に落ちて結婚する。そういう意味で出会いを求めてるのよ、婚活パーティーの参加者は」

「ん、結婚って、『好き』ってことだろ? そんな簡単に、飯一緒に食っただけでキンダム人は『好き』になっちまうのか?」

「だから、みんなああやって話しているの。あなたも食べてばっかりいないで誰か男と話して来たらどうかしら」

「とはいっても、この飯なかなか美味いからなぁ……あぁ、こっちのイモフライもうめぇ」

 アンリはなかなか顔を上げない。

「とにかく、私たちで話続けていても意味ないのよ!」

 ついに堪忍袋の緒が切れた。ヒステリックにランが叫ぶと、一瞬周囲の注目がランに集まる。

「す、すみません……」

赤面するランとは対照的に、アンリは「そうか? あたしは結構楽しいぞ」などと言いながら料理を平然と食べ続けている。

「もう、どうしたらいいの……?」

 何度同じ疑問を口にしても、答えをくれる者はいない。

これではいつまでたっても、アンリが思ったように動いてくれなさそうだ。

そう感じたランはさらに焦り始めた。周囲ではすでにいい雰囲気になったのか、二人きりで話し始めている男女も少なからずいる。このままではランもアンリも「売れ残り組」待ったなしだ。

……とはいっても、ランとて初見の男性と一人で話すのは苦手である。

最初は向かいに三人ほど男性が座っていたが、三人ともアミが目当てだったのか、それとも一向に会話が弾まないランとアンリに業を煮やしたのか、すでに他のテーブルへと移ってしまった。

「大体、どうしてあたしが見知らぬキンダム人の男共とおしゃべりしなきゃいけないんだ?」

「そ、それは……キンダム人に慣れてもらうためよ。レオンハルト様に嫁ぐことになったらあなた、キンダムの中で生きていくことになるのよ?」

 もっとも、この「婚活パーティー」への参加自体すでにランの想像を超えてしまっているので、彼女の口調もどこか頼りない。

 何故、こんな針のむしろをランが味わっているのか。

 その発端は、アミの純粋な親切心から始まった。


「魔王様のために、合コンをしようか」

 そんなアミの申し出を、ランは喜々として受け入れた。

 ランとしては、今回の合コンで、あわよくばアミの知り合いをアンリと強引にくっ付けるつもりだった。

 そうすれば、魔族とキンダム人の和解というレオンハルトの目的も果たされ、レオンハルト自身も婚約せずに済む。アンリの件がもしも失敗したにしても、アミという「味方」がいる以上、自分にとっても良い出会いを期待できる。言ってしまえば、合コンはランにとって「恋のダブルチャンス」。ランにとって人生の大きな分岐点となるイベントとなる可能性は決して低いものではなかった。

そのはずだったのに……。

アミはあろうことか「合コン」のセッティングに失敗した。そして、その「代わり」を、アミは用意してしまった。それが今日の「婚活パーティー」である。

「婚活パーティー」となっては話が違う。

 まずアンリは全く自主的に男と仲良くなる気がないし、ランは見知らぬ男性と会話を盛り上げるような技術を持ち合わせていない。アミは男にも人気があり、気さくな性格だがそれ故、かえってアンリとランを差し置いて男性陣の注意を惹いてしまう。結果として、ランとアンリは二人寂しく、テーブルの隅に孤立してしまったのだった。

「もう、どうしてアミばっかり……」

 こうなったらランも勝手なもので、自分たちを差し置いて人気を集める友人のことが恨めしくなってくる。ランは、次第に拗ね始めた。

「あの、すみません……」

 そんな折。

「えっと、少しお相手していただけませんか?」

 遠慮がちに声をかけられ、ランは顔を上げた。

「ここ、座っていいですか?」

「い、いいわよどうぞおくつろぎくださいませ!」

 唐突に声をかけられたこともあって動揺したのか、ランは裏返った声でおかしな返事をしてしまう。だが、声をかけてきた男性は気にした様子もなく、ニコリと微笑み席についた。

「おう、お前も食うか?」

「ありがとうございます」

 アンリに礼儀正しくお礼をして、大皿に盛られたイモフライに手を伸ばす男性を、ランは「うっとり」と観察した。

アンリの外見とさほど変わらない年齢にも見える、童顔。

「青年」というより「少年」と呼ぶ方がしっくりと来そうなあどけない顔立ちに、まるで女の子みたいな華奢な身体。ランは、長年王宮の戦士として身体を鍛えてきたが、少年の柔らかそうな体躯を眺めていると、乙女としての羞恥心が芽生えてきた。

「あ、僕はユーキっていいます。今日は友人の紹介で来たんですが……。なんかいつの間にかはぐれちゃって」

「わ、私もそう! ま、全く人を誘っておいて何しているのやら!」

 アミに逃げられたランは頭をぶんぶん縦に振りながら、ユーキに同調する。そして慌てたように付け加えた。「あ、私はラン。王宮で働いているの!」

「へぇ、宮女様じゃないですか。そりゃすごい」

「え、えへへ……」

ユーキの言葉にデレデレしかけるランだが、隣ではしたなく食事を続ける宿敵の姿を見て、ここに来た目的を思い出す。

「ちょっと、まお……アンリ。少しは会話に加わりなさい」

「どうした、急に名前で呼んだりして。そもそもなんでそんな面倒なことしなきゃいけないんだ、あたしが」

アンリは相変わらずガツガツ料理を食べている。「おーい、そこの人間! このギュードンとやらをもう二つ持ってきてくれ! 両方ともつゆだくな!」

「お二人はお友達なんですか?」

 苦笑しつつも、ユーキがランに尋ねてくる。

……あぁ、どうして男の子なのにこんないい匂いがするのだろう。

汗の臭いしか身にまとったことが無いランは再び羞恥心に悶えそうになったが、ユーキとの会話の途中であることを思い出し、慌てて答えた。

「いいえ、私は彼女の協力者です」

「協力者、ですか……」

 緊張のあまり外国語の直訳みたいな返答になってしまったランだが、幸いなことにユーキは気にした様子もなく小首を傾げた。上目遣いにランを見つめる、小動物的なとび色の瞳。その可愛らしさすら秘めた視線に胸が高鳴るのをランは抑えられなくなってきた。

「と、いうことは」

 やがて、ユーキは結論に達したらしく、小さな口を再び開く。「お二人はお仕事の同僚なんですか?」

「いいえ、違います」

「んっと、じゃぁもしかしてアカデミーの先輩後輩とか?」

「私は学生ではありません」

「おいラン。お前口調おかしいぞ。人魔辞典の訳文みたいな話し方だ」

 アンリに指摘されてようやく、ランは自らがガチガチの口調だったことに気付く。ランが真っ赤に頬を染めて何度目か分からない羞恥に悶えていると、ユーキが柔らかく笑った。「ランさんって、真面目な方なんですね」

「え、わ、私が、真面目……?」

「えぇ。本当に真面目に、僕の問いに対してしっかりと考えてから答えてくれている気がします。……でも、僕はもう少し柔らかくなった、普段のランさんとも仲良くなってみたい、かな」

「そ、そんな……。私と仲良くなりたいだなんて……」

 その言葉は決定打であった。

「真面目」と評された上、「仲良くなってみたい」と来た。

 普段から「真面目」という言葉以上に尖った、王宮の戦士長として生きるランだが、根は病的なまでの寂しがりなのだ。ユーキは社交辞令で言ったのだろうが、ラン自身の恋愛経験値の低いことも相まって、その言葉は彼女をのぼせ上がらせるには十分だった。

「す、すみません、僕、いきなり馴れ馴れしかったですよね」

 ランの沈黙を、ユーキは悪い意味に誤解したらしい。「そ、それじゃぁ僕は友人を探しにいきま――」

「ま、待って!」

 無我夢中で、ランはユーキのジャケットの袖をつかむ。

 パーティー用に仕立て上げられたであろうワインレッドのジャケットが、ユーキの華奢な肩からずれ落ちる。ユーキは戸惑ったようにランを振り返った。「ど、どうしましたか……」

「わ、わたた、わた、わわわたわしたわしわしと……」

「ひぇっ……」

 振り返ったユーキはビクリと身を震わせた。

……無理もない。

振り返った先に立っていたのは、顔を真っ赤にして白目を剥きそうなまでに目を大きく見開いた、おおよそ乙女のものとは思えない表情を浮かべたランだったからだ。

「ご、ごめん、気に障ったのなら謝ります、本当にごめんなさい!」

 ユーキは袖口を力強く捕まれて逃げることも叶わず、ペコペコと謝るしかない。だけど、そんな彼の様子すら目に入っていないのだろう。ランは「わしたわし」と、酔漢でも口にすることをはばかるような駄洒落を何度も繰り返すばかりで、一向に話が進まなかった。

「なぁおい、勇者」

 だから。

「落ち着かないからそんなところで二人突っ立たないでくれよ」

 二人を機械的に切り離したアンリの存在が、ユーキには救いの女神に見えた。

「あっ……」

 そこで初めて我に返るラン。

 彼女はしばらく呆然とした後、顔を真っ赤にしたまま勢いよく上半身を折り曲げた。

「ごめんなさい! 私、乱暴なこと、しちゃって、力、強いから……!」

「だ、大丈夫ですよ……。これでも僕、一応男ですし……」

「けど、けど……!」

 涙すら浮かべて自らの行動を悔いるラン。

 その様子を気の毒に思ったのか、ユーキはタオルを取り出す。

「本当に僕は大丈夫ですから……」

 危機的状況は脱したものの、今度は気まずい沈黙が二人の間に流れ始めた。

ユーキは完全にこの場を去るタイミングを失っていたし、ランは元々不安定な心の持ち主だから、なかなか落ち着かない。

「なぁ勇者」

 だが、ここでも二人を救ったのはアンリだった。

「お前、酷い顔してるけど……もしかしてどこか痛いのか?」

「胸が痛いの……」

「胸が? この辺りか?」

「ひゃんっ!」

 さっきまで暗い声を出していたとは思えない甲高い嬌声をランが上げたのも無理はない。アンリはその小さな手をランが纏うドレスの胸元に伸ばし、申し訳程度に膨らんだその谷間をまさぐったのだ。

「な、何するのよぉ!」

「何って、おまじないだ。あたしは魔王のお約束として生命魔法は使えないが、これくらいはしてやれる。痛いところを撫でて、痛みを飛ばしてやるんだ。痛いの痛いの飛んでいけーってな」

「な、何がおまじないよ……!」

 声を荒げながらも、ランの表情は蕩けていく。

 先ほどの紅潮とは異なる原因。それは熱く心地よい快感だ。

 ランに負けず劣らず顔を真っ赤にしておろおろするユーキの視線を感じながら、ランは喘いだ。「ちょっと、らめ、先っぽは、らめ、だから……!」

「ふふ、どうだ、痛みが落ち着いてくるだろう?」

「や、やめてってば……」

「そう言うな、このおまじない、効いてるんだろ。あたしだって分かるぞ。勇者はさっきまで苦しそうな顔してたのに、今はなんだか嬉しそうだもんな」

 勘違いをしたままアンリは得意げにその豊かな胸をプルルンと張る。

「あたし、このおまじないは得意なんだ。アシュリーもいつもよろこんでるからな」

「ひゃぁ、ほ、本当に、らめぇ、これ以上は……出ちゃう」

 膝を細かく震わせながら、ランは近くにあった椅子に座り込んでしまった。

身体中が燃えるように熱く、お腹の底で何かが激しく渦を巻く。きっと、これは羞恥のためだ。そう考えようと、いつものようにアンリへ憎しみの視線を送ろうとするけど、気恥ずかしくてランはアンリを直視できなかった。

「だ、ダメよ……。ユーキさんが見てる、前で……こんな、こと……」

 お腹の熱が激しくなる。ここがランにとっての限界だった。

「あっ、おい、勇者!」

 甲高い奇声を上げたかと思うと、ランは乱暴にアンリの小さな手を振り切り、駆けだした。人にぶつかろうがテーブルにぶつかろうが構わない。ランが通った後にはどよめきが残り、道が小さく割れ、会場の喧騒は一瞬だけ上塗りされた。

だけど、ランはそんなことに気付く余裕もなかった。彼女が向かう先。それはただ一点、お手洗いである。

「ごめんなさい、ユーキさん。けれど、勇者がこれ以上魔王に辱められるわけにはいかないの……!」

 鬼気迫る表情で、確実に本人には聞こえないであろう言い訳をこぼす。言い訳と共に露もこぼれそうになる。「ダメ……!」

ランはますます内股になり、顔を真っ赤にして足を動かした。

「ったく、気持ちいいならいいって言えばいいのにな」

 そんな、宿敵の姿を見送りながら、魔王は苦笑する。

「あたしの部下のアシュリーってやつも、よくあたしがおまじないをした後、トイレに駆け込むんだよ。気持ち良すぎますってよろこびながらな。……けど勇者にしろアシュリーにしろ、どうして痛いの飛んで行ったらおしっこしたくなるんだろうな。やっぱり緊張が緩むからなのか?」

 的外れな疑問と共に首を傾げるアンリ。

 その答えに思い当たるところがないこともないユーキだったが、それを口にするのは、はばかられる。

 結局、彼は顔を真っ赤にしてアンリから目を逸らすことしかできなかった。


     ◇◇◇


 できることならずっとこのまま閉じこもっていたい。

 手洗いで目的を果たした後十分近く冷たい便座の上で悩んだ挙句、ランはようやく重い腰を上げた。

「絶対みんな、私のことを馬鹿にしているわ……」

それでも、手洗いの個室は安全シェルターのような気がして、何度もノブに手を伸ばしては引っ込める動作を繰り返す。やっぱり、出たくない。だけど、ユーキに弁解もしなくては……。何度その動作を繰り返したか分からなくなった頃になって、トイレの個室が激しくノックされ、ランは恐る恐る扉を開いた。

「ご、ごめんなさい……」

 扉の外に立っていたのは鮮やかな髪色の見知らぬ女性。女が訝しげに顔を覗き込んでいるのを無視して、ランはそそくさと手洗いを出た。ランの危惧とは裏腹に、会場の男女たちはランが手洗いから出てきたことを当然気にもしない。

「し、神経質になっちゃいけないわ」

 自らを鼓舞するように頷き、ランは人混みを掻き分けていく。

 ……そうよ、私は王宮の兵士長にして魔剣の加護を受けた勇者なのよ。

 手洗いに駆け込んだ時とは対照的な、堂々とした様子でランは談笑する男女の間を突っ切り、自らのテーブルへ戻った。意外と、周囲の男女はランのことを気にする素振りもなく、道を譲ってくれた。

「お、ようやく帰ってきた。もう、ランったらどこ行ってたのさ」

 どうやらランが手洗いに籠城している間に、戻ってきてくれたらしい。アミがアンリ、ユーキと共に談笑していた。

「あ、ランさん。お帰りなさい」

 ユーキも気付いたらしく、ランに微笑みかけてくれる。それだけで顔を紅くしてしまうランだが、今回は何とか逃げずに踏みとどまった。

「ただいま戻りましたわ」

「ラン、どうして急にお嬢様っぽい話し方になってるの……?」

「だって私、宮女ですのよ」

 目を白黒させながら答えるランに、アミはため息を吐き出す。逃げ出さなかったは良かったが、これでは会話にならない。

「友よ、許せ」

 アミは短く呟くと、テーブル上の水が入ったグラスを素早く手に取りランの頭の上にかざす。

「うわっ冷たい何するの!?」

 グラスを傾けた瞬間、ランが全身を震わせた。

「アミ! あなたまで私に酷いことをするの……?」

「一回頭冷やして落ち着いて、ラン」

「……アミ、濡れちゃうわ」

「いいんだ。アタシ、濡れてもお化粧たいしてしてないから」

 自らも濡れることを厭わず、冷えた首筋を抱きしめてくれる友人に、ランは落ち着きを取り戻した。周囲の喧騒が一瞬にして静まり返る。注目を浴びている。それは分かっているはずなのに、アミはランを離さなかった。

「……ありがとう。もう、大丈夫だから」

 ランがそういうと、ゆっくりとアミはランから身を離す。友の行動から感じた温かみと優しさ。ランは勇気を出して、真っ直ぐにユーキを見つめた。

「ほら、ユーキさんとお話ししたいことがあるんでしょ。ユーキさんだってランとちゃんと話したいんだよ」

 耳元で囁くアミ。心臓が高鳴るが、もう大丈夫。アミの優しい息遣いを首筋で感じながら、ランは大きく息を吸い込んだ。

「ユーキさん、心配かけました」

「は、はい……」

 先ほどの恐怖感が拭えないのか、わずかに緊張するユーキ。

 だけど身構えたユーキですら、次の瞬間には絶句せずにはいられなくなった。

「だから私と、結婚してください!」

「ええええええええええええええええっ!? 何が『だから』なのよぉぉぉぉっ!?」

 アミの素っ頓狂な叫びが会場をつんざく。

 唐突な求婚に、ざわめきだけが会場を駆け巡った。


     ◇◇◇


「はい、反省会ね」

 コツン、と麦酒の注がれたグラス同士のぶつかる音がしたと同時に、アミが口を開いた。

「まずはラン、暴走し過ぎだよ」

 グイッとグラスを傾けた後、アミが呆れた表情を浮かべる。

「確かに合コンの代わりに婚活パーティーになっちゃったのは悪かったけどさ。そもそも、何のためにあの会場に魔王を連れていったのか、分かってる?」

「うん……分かってるわ」

 言うまでもなく、魔王を婚活パーティーに参加させたのは、魔王にキンダム人の男をくっつけるためだ。ちょっぴり自分にいい出会いがあるかもしれないなんて期待していたのは、アミには秘密にしておくことにした。

「よろしい」

 消え入りそうな声で頷いたランとは対照的に、アミは大きく頷いた。

「じゃぁさ、魔王が仲良くなれそうな男の子がいたら、どうすべきだったのかな」

「……応援、してあげる、べき……だった……!」

 そこまで答えたところで、ランは涙を堪えきれなくなった。

「ごめんね、アミ! せっかく色々考えてくれたのに……! 私、全部台無しにして……!」

「ちょ、ちょっと、ラン」

 不安定になり始めた友人に、アミは慌てるがもう遅い。

「ごめん、ごめんね、アミ。でも、見捨てないで! 私、アミにまで見捨てられたらもう誰も頼れない……!」

「大丈夫だよ、アタシはずっとランの味方だよ」

「……ほんとぉ?」

 ランの弱々しい声は、すぐさま酒場の喧騒に呑み込まれる。

 だけど、アミは間髪入れずに何度も頷いた。

「大丈夫、たとえどうなっても、アタシはランの隣にいるから」

「アミ……! ありがとう、ありがとう……!」

 手にしていたフォークを取り落とし、ランはアミの両手を握ってくる。今日ばかりは、そんな狼藉も許してあげよう。わずかに目を細めたアミから、そんな優しさが伝わってくる。


「でも……」

 テーブルに力なく転がったフォークをすくいながら、ランは考える。

 これだけ不安定な自分を支えてくれる友人がいるというのに。

 いつまでも、「悲劇のヒロインごっこ」から抜け出せない自分のことを、ランは嫌いで仕方ない。

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