第5話

 粉々に砕け散ったガラス片。辺り一面に染み付いた血飛沫の花々。

 調度品は暴力によって破砕し、崩れ、壁には肉と歯のかけらがオブジェのようにして貼り付き、その下には去っていった魂の抜け殻がたくさん転がっている。

 かすかに聞こえるのは、規則的だが、あまりにもかぼそい息遣いが二つだけ。

 ……”わたし”はキミの目を見つめている。

 真っ黒な瞳孔、黒曜石に例えることすら憚られる、平凡な人間の瞳。

 けれど、そうだとしても、前へ踏みだそうとした、誇るべきまなざし。

 貴方は腰を下ろしたまま、動けない。貴方は展示物に寄りかかって、血だらけの右手に握り締めたバットを、離す。

「……生きてる、か?」

 貴方の真向かいには獣がいる。身体を横たえながら、状況を理解できずに竦んでいる。

 原始的な恐怖と混乱が、かれの表情をほんの少しばかり人間らしくさせていた。

「生きてるな」

 片方の口端を吊り上げると、貴方は皮肉っぽく微笑んだ。

「……馬鹿みたいな顔してる」

 苦しげな呼吸を必死で繋げながら、頬をゆるめる。

「……どうしてって、考えてるのか?」

 獣はあれだけの猛威に晒されながらも頑丈だった。哀しいけれど、貴方よりかはまだ死から遠いように見える。

 その目に異星人を見るような光が宿っているのを見て、血の混じった咳を短く吐き出しながら貴方は笑う。

「……オマエ、シヌ」

「……そうらしい。感覚がいくつか飛び始めてる」

「オマエ、カクレテイラレタ」

「そうすりゃ死ななかったな」

「……ヨワイヤツ、ダ」

「強くは……ない」

「ダカラ、シヌノカ?」

「……」

 貴方は――長いあいだ、宙に視線をやっていた。

 考え込むというよりかは、形にならないものを形にしていくような。

 そして、かすれた声でささやいた。

「違う。そうすることが……僕の”抵抗”だったからだ」

 視線が、一瞬茫洋としたものになる。ゆっくりとかぶりを振って貴方は正気に戻った。

「……どうしようもない、この世の中に。変えられることなく死んでいく僕たちの。そういう全ての命への……賛歌だ」

 だんだんと声色から生気が喪われていく。そんな貴方を感情の読めない白濁とした眼で、獣が見つめ返した。

「タクサン、コロシタ」

「ああ。悪いことをした」

「……オマエ、ワカラナイ」

 貴方はうすぼんやりと微笑んで、動かすのも辛そうな手をバックパックに入れた。

 出てきたのは、最後にひとつだけ残った、林檎の缶詰。

 貴方は……いや、キミは。首がふらつき始めた中で、それを見つめる。

「いつかは、誰かが……」

 自嘲とも、苦笑とも、あるいは満足ともつかない微笑のような何か。

 そのまなざしから、光が喪われていく。

 遂に手のひらから缶詰が転がり落ちると、それはもうただの水晶だった。

 沈黙がやってくる。本当の静謐とした時間。命の散り際に、ほんの一瞬だけ訪れるような、消え去っていく残り香をかき集めたくなる、感情の帳。

 ……キミが、ずっと生き抜いてきたこと。

 キミが、最後に選んだもの。

 終わってしまった世界で、どんなこともきっと全てが崩れ去ってしまう世界で。

 キミが示そうとしたこと。

「……」

 獣が、よろめきながら起き上がろうとして、体勢を崩す。

 かれは唸り声をあげると、両手を地面につけながらゆっくりと出口へと向かう。

 途中で、立ち止まった。

 かれは数分間、何かを考えるみたいに地面に俯いていた。

 転がり落ちた林檎の缶詰を拾い上げる。

 それを握り締めると、最後にあなたの遺骸へと視線をやった。

「クダラナイ」

 通路の闇へ消えていったその表情は奇妙に歪んでいた。



 放置された風景は、いつしか骨となり、灰になり、やがては全て忘れ去られる。

 そうだとしても、わたしは、憶えている。

 これが、キミであったことを。

 ……これだけが、キミの死に様であることを。

 そして、きっと思い出すだろう――。



     了

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ささやかなあなたが、生かしてくれたことを 犬童 @Militia1018

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