第2話
一向に晴れる兆しがない薄霧に睨みをきかせながら、東へ向かっている。
舗道の感触は硬く、耳は冷たく、息は不満で白くなった。
路面を進む中で僕の中には疑念と後悔が渦巻き始めている。
なぜと問うなら、うまく丸め込まれてしまった自分の間抜け具合を見ればいい。
「(なにやってんだよ僕は)」
そんなため息を見かねたのか、件の彼女がこちらへ振り向いた。
「疲れてない?」
「……この程度なら問題ない」
「思いっきり問題ありそうな顔をしてるけど」
「このままどこに連れてかれるんだろうと思って」
「承諾したのはキミだし、なによりもわたしに騙すつもりなんてないからね?」
「どうだがな。前者については同意するけど」
だから自分を馬鹿じゃないかと思い始めている。
彼女の”理想郷”についての話を一時的にでも信じてしまったのは、だれのせいでもない。
自分のせいだ。
「疑い深いんだね」
不意に彼女がつぶやいた。
「そういう世の中だろ。僕のせいじゃない」
嘲笑うような口ぶりを作る。
好きでそうしてるわけじゃない。お気楽でいられるのは余裕があるからだ。そしてこの世界にはもう余裕なんてものはなくて、諦めの域まで達してしまっている。
「じゃあどうして理想郷なんてものを信じてるの」
垂れ下がった目には哀しみの色がある。
あまりにも新鮮な何かをそこに見た気がして僕はためらう。
「……生きていくにも理由が必要なんだ」
「キミたちが唾棄するような”おとぎ話”のように見えるけど?」
「ほかの連中は知らない。けど僕にとっては……」
大切なものなんだとは言えなかった。
かすれた音で、言葉にならぬものを吐き出すのが精一杯だ。
口にするにはあまりにも脳天気で、場違いな気がした。
少女は眉を不思議そうにあげてこちらを観察する。
「わたしにはよく分からないかな。”そういう世界”だって信じるとなにも言えなくなるのが」
「なんだって言えるけど、そんなもの何の意味もないってだけだ」
会話を切り捨てると、僕らのあいだには黙々とした空気だけが満ちていく。
それでもちょこちょこと視線を送ってくる少女が、時に鬱陶しく、苛立たしくもある。
本当に、僕は何をしているんだろうか。
ぎこちない雰囲気の中を十分も歩きながら考えていたときのことだった。
となりの通りの方から、やにわにガラスが割れるような音がした。
気怠い寒さで弛緩していた場の空気が、一気に張り詰める。
僕らの足が止まった。
すぐに響き渡る子供の悲鳴と、わけの分からない狂迫に満ちた、動物的な怒声。
確信した。獣がいる。
「逃げるぞ」
「え」
「ッ、分からないのかよ! あれは獣の唸り声だ。隣に奴らがいるってことだ!」
焦燥感に包まれながらココロの腕を掴んで引っ張る。
近くに避難できる場所がないか素早く観察する間際に、細くて白い、華奢な腕が自分の薄汚れた手から離れていく。
呆然とした。
彼女はかぶりを振り、隣の通りへと続く路地を探している。
「なにやってんだ!!」
「誰かが襲われてる。助けに行かなくちゃ」
「狂ってるのか!? もうどっちにしろ間に合わないし、そもそも獣に立ち向かえるだけの力はない! それに」
酷なようだが”そういう世界”の象徴である言葉を突きつける。
「だれだって生き延びるために他人を犠牲にしなきゃいけないんだ」
「ちがう!!」
まるで引き金をひいた銃から撃ち放った弾丸が、その勢いを駆って戻ってくるように。
ココロは跳ねるように身をひるがえして僕を怒鳴りつけた。
垂れ下がった目尻に水滴が浮かんでいる。
「絶対にちがうよ。キミの言ったような世界じゃない。そんなのは認めない……!」
「お前……」
ココロはその小柄な体躯で挑むように走り去っていく。
あんな身体でどうにかなるわけがないと思って、死という単語が頭をよぎった。
「僕には……関係ない」
そうだ。馬鹿な行為には馬鹿な報いがある。それが世界というものだ。
そしてこの世界では慈悲とか倫理というかつての遺産を馬鹿の概念が包含している。
「関係ないんだ」
誰だって死にたくはないし、わざわざ無駄なことをしたくはない。
地獄に自分から突き進んでいく人間を命懸けで止める義理もない。
だからここまでだ。
彼女は死んで、僕はぼろ切れみたいに生き続ける。
危機感が滲み出てきている。早く隠れなければ。
足に力を込めた矢先、むかしは喫茶店だった風情の店を見つける。
成否の判断を理性が剔抉する前に、木製のバリケードが貼り付けられている隙間から、なんとか身体をねじ込んで中に飛び込む。
埃っぽい空気に、薄暗いフロア。カウンターが一つ、テーブルが五つ。
僕はすぐにカウンターの裏側へ周ると、バットを横に置いて膝を抱え込んだ。
なにも考えないように努める。
指先と聴覚に意識を集中させて、五分。何事も無ければ急いでこの場を離れればいい。
「……信じられるもんかよ」
空虚な心の湧き水からあふれ出したかのように、熱いものがこみあげる。
自分になんども言い聞かせる。お前はだまされていたんだと。理想郷などというのは何処にもないのだと。だがそれでも――。
針山のごとく割られたウィンドウが外装に貼り付くスーパーマーケット。
中に数人の影があった。
「……す……!」
「……ああ……!? ……!!」
影のうち、二つは人間のようではあるがそうではなかった。
蒸気穴のような円形状の排出口を、背中に出来たこぶのように背負う無毛の怪物。
それが二匹。小さな何かを抱えるようにして丸まっている女性の髪の毛をぶちぶちと抜きながら、顔に蹴りをいれている。
遠目で見ても分かるぐらいに女性の顔は腫れ上がっていた。顔面の各所に作られた裂傷がたくさんの溝を作る中で、その谷を流れていく血の線路と溜まりがある。
今、青年から離れたココロは悲鳴が聞こえてきた現場のすぐ近くにいる。
手足が、ふるえた。
白く熔けるような激情が胸中を覆い尽くし、今すぐにでも走り出したいという欲求があまりにも真剣な意志として全身を荒れ狂う。
それでも、ここで感情のまま動くのは“正義”ではない。
ココロは音を立てないように割られたウィンドウの上を通り越える。
商品がなにひとつ存在しない棚のあいだを抜けながら、いつの間にか握り締めていた右手の鈍器に硬く握手を重ねた。
殴打音と耳が腐り落ちるような唸り声が聞こえる。
おそらくそれは獣の笑い声だった。かつて人間であったものが、今では人間とは思えない声で、悦びを露わにしていた。
常人であれば烈しい嫌悪感と恐怖をおぼえるような醜悪さ。
ココロが真っ先に感じるのは邪悪への怒りだった。
許容し、加担し、冷笑し、最適化をもって生き抜こうとするものたちへの憤怒。
おそらく連中の末路こそがこれなのだ。
暴力の気配が強まっていく。一方的な虐待に対する烈しい抵抗というべき力が。
最後の棚を抜けて、もう一段を抜かせば顔も見えるだろう。
心中で静かに闘争心を高める。虐げられている“彼女”への慈悲が行動を駆り立てる。
駆け出そうとした、そのとき。
「グア」
腐り果てた臓腑からひねり出された声が聞こえた。
その瞬間、ココロは前方へ噴射したかのように弾き飛ばされていき、何もない生鮮売り場に頭から突っ込む。場に激しい衝突音が響き渡る。
痛みはなかった。ただ大切な部分がひとつかふたつ緩んだような、取り返しのつかない感覚に襲われると、視界がぼやけて四隅が真っ暗に染まった。
頭蓋の中にふわふわとした何かがへばりつき、意味不明なことを囁きかけてくる。
なんとか立ち上がろうとして。
頭を、掴まれた。
吐き気を催すような臭気が鼻孔を刺し貫く。
鼻が触れ合いそうな距離に寄せられたのは土気色に染まった肌と、充血した白濁に支配された眼孔。
口角は裂けて吊り上がり、にちゃりと粘膜の擦れ合いが音を立てる。
背からは噴霧。有毒な蒸気がそれ自体は無色透明であるような証拠だ。
人間の絞りかすを原始性と奇形性に漬した代物――一言で表すならば、眼前にいるのはそういった類いの存在だった。
「イッピキ」
口角がグロテスクに吊り上がり、瞳孔がぎょろぎょろと動き回る。
それが笑顔なのだと理解できた瞬間に腹部へ猛烈な一撃が突き刺さった。
「ぎっ!?」
放り投げられる。背中に強い衝撃を感じる。咳き込みながら床面を滑り、商品棚にぶつかる。
「っぁ……!!」
「コウフンスル!」
鐘の音が轟いたように身体中を暴れ回る鈍痛。
まともに言うことを聞かない手足を叱咤しながら、双眸をなんとか見開いた。
左側には首を傾げながらおぞましく笑っている二匹の怪物。
そのとなりには血に濡れた頭皮を晒しながら、ひたすら丸まりつつ、小さな何か――赤子への暴力を避けようとする『人間』の姿がある。
唇を噛み破りそうなくらいに悔しかった。
頭が沸騰してしまいそうなくらいに苦しくもあった。
抵抗を試みようとしながらまったく歯が立たない自分に憤りを感じた。
だから。
無駄と知りつつも叫び、挑みかかり、殴られ、蹴られ、そして眼前の怪物を前に。
意識がもう飛んでしまう直前のところで。
光を見た。
なんでこんなことをしてるんだ。
そう怒鳴り込んだあと、顔を両手で覆い隠したのは今までの自分だった。
どう返せばいいか、正直分からない。
気まぐれとでも言えたらいいのだが。
ちょうど三〇秒前に飛び込んで、自暴自棄になりながらも棚沿いにゆっくりと進み。
そこで“彼女”がぼろ切れのように扱われているのを見て。
結局のところ、僕は切れてしまったのだろうと思う。
そうでもなければ説明がつかないのだ。
怪物の顔面に釘バットをフルスイングで叩き込むという行動は。
「ガ」
ただ一言の濁音を漏らしたあと、怪物はそのまま崩れ落ちて動かなくなった。
物体が打撃によって破砕された生々しさが手のひらで尾を引いている。
全身から苦痛と見紛うかのような叫びが聞こえていた。
場が一瞬静まり返った。
次の瞬間、二対の白濁がしかと僕を見据え、おぞましいほどの殺意を発散する。
それは正面から受け止めるにはあまりにも恐ろしいものだ。
ただ、そうだとしても。
今の自分は狂っているようだったから。
バットを肩に乗せて、構える。
「ヴォアアアアアアアアアアアアァァアアアアアッ!!」
絶叫。
身の毛がよだつ暇すら与えず、二体の影は飛ぶようにして襲いかかってくる。
悲鳴をあげる暇も、ない。
視界が真っ黒に染まる寸前、身体が無意識に動く。
筋肉が張り詰めた次の衝撃感。視界では突っ込んできた片方が吹っ飛んでいる。
もう片方の間合い、わずか数ミリで抉りこんできた爪をかわす。
後ろへよろめきながら、相手が体勢を整える前にバットを振り下ろす。
大振りな構えは避けられ、体勢が崩れる。
来る。
肝が縮む余裕はなく、脇腹に尋常ではないほどの熱い感覚が抜けていく。
だが。
そこで。
怪物の足が。
止まった。
「――――――――」
声にならない声だった。
腹底から吼えるような雄叫びがせり上がり、両腕が一蹴。
渾身のぶん回しに付随したのは、あまりにも過酷な暴力の悲鳴。
瞬間、ぶらんとねじ曲がった怪物の首が視界へ飛び込んできた。
数秒の後、どさりと音がする。
僕は勝利の感覚を味わう間もなく、意識が急に遠のいて。
よろめき、ふらつき――そして不意に、僕の背中へいやな衝撃が走った。
「あ」
かすんだ視界がハッキリと戻ったのは何分後だったか。僕の視界にはもう怪物はいない。
その代わりに。
「……お腹、危なかったよ」
首をかしげて僕を心配そうに見やるココロの姿がある。
お腹と言われて思い出した。
慌てて腹を探るも、そこには上着が裂かれた痕跡だけがある。
たしかにあのとき。僕は焼きごてを押しつけられたかのような感触をおぼえた。
だが現実はこうだ。
肩から力が抜けていく。どうやらアドレナリンが見せた錯覚だったらしい。
あるいは、元からどうしようもない夢しか見ないタチなのか。
「ココロ!」
「ひえっ!?」
がばりと起き上がってココロの肩を掴む。怪我はないかと目を皿のようにして確認する。
ココロの身体に見えるような傷がないと分かって思わずほっと息をつけば、彼女の頬がほのかに赤くなった。
「なんだよ。あんなこと言って別れたのに」
「え? あ、ああ……」
そうなると僕もまぁなんと返答すべきは分からなくなる。
気まぐれ? 狂った? コインで表が出たから?
分からない。
「……ダサいのは嫌でさ」
「変なの」
お前と同じくらいにはなと答えようとして、やめた。
彼女がなにか気付いた顔になると、慌ててカウンターの裏へと向かっていったからだ。
どうしたと声をかけようとしてすぐに分かった。あそこには“彼女”がいる。
僕もなんとか立ち上がって追いかけた。
「ココロ」
「……っ」
ふけと油まみれの頭髪が頭皮ごと垂れ下がり、こけきった頬は亡霊のよう。
薄汚い外套と血だらけの皮膚で守っていた赤ん坊はすでに動きはなく。
虚ろな瞳に、本物のやさしさを秘めていた彼女の姿は、あまりにも残酷だった。
ココロは静止している。
理解ができないのではなく、理解し尽くしてしまったのだろう。
だからふるえる手で女性の背中に触れようとする。
「いい子」
ぽつりと放たれた一言に手が止まる。
「産んでしまって、何度も謝って、それでも顔が見たいわがままを受け容れてくれたわたしのいちばんいい子」
女性がこちらを向く。そこに一欠片の狂気でもあってくれればと望んだ。
だがあまりにも――彼女は明晰だった。
事態が分かっている。そして努力している。
けれど、心の断片すら摩耗しないでいることを現実は許してくれない。
「ありがとうございます。でもまぁ……こういうことのようなので」
「……あ」
だって。
そんなふうに言い切ってしまっていいことではないはずだろう。
もっと哀しみと慰めとそれでも遺る想い出があっていいはずだろう。
だと言うのに彼女は空っぽの怒りも浮かべられずに。
亡霊みたいな顔立ちに微笑みを貼り付けるばかりだった。
「あ……っ……ううううう……!!」
ココロが立ち上がり、口を押さえて走り出す。
その背中になにも声をかけることはできなかった。
ただ女性の凄絶な視線に魅入られたように立ち止まっている。
僕は、僕はなにか言いたくて、口を開いた。
「あの」
彼女は彫像のようにある。
「なにかできればと思って。それで命がけで助けに入ったんです」
笑みが変わることはない。
「バット振り回して。そんで、あの怪物どもをぶち殺して」
息が詰まってくる。
「別に。僕もこういう世界だって分かっていたつもりなんですが」
目頭が熱い。
「でも、もうちょっとマシな何かがあるんじゃないかと」
店の奥で啜り泣きが聞こえる。
無力感で包まれた身体が重荷のように絡みつく。
彼女の笑みはグロテスクだった。
「そうですか」
自分自身の全てを軽薄なものとして一掃されてしまう。
仮にそういう感覚を味わったことがないんだとしたら、あんまりにも幸せだ。
そんなことを思いながら僕は真っ白になった思考を手放すように、バックパックから食料の包みを取り出すと彼女に押しつけた。
変わりはしなかった。
その顔には笑み以外の何者も存在できなかった。
僕は自分でも分からないようなことをいくつかぼそぼそと言って、逃げ出した。
スーパーから二〇メートルも離れたときには駆け出していた。
明確な自身を取り戻したのはいつだったか。
足は猛る想いのままに駆け出した喫茶店に向いていた。
店内に足を踏み入れた途端にバットを投げ捨てる。
カウンターの板面がクッションであるかのように背中を乱暴に預けた。
静けさ。
白霧だけが存在を主張して、死にきった街を包み込んでいる。
「……なんで」
なんでこんな時代に生きているんだろう。
どうして怪物が跋扈し、人が喰われ、心が現実に拷問されるしかない、そんな時代が出来てしまったのだろう。
疑問は尽きず、哀しみも尽きず、絶望は成長産業になっている。
「ぐずっ」
ふと横を向くと、いつの間にかココロの姿があった。
彼女はいつ入ってきたんだっけか。それともすぐ後ろにいたんだっけ。
眉をあげようとしたものの、それすらも億劫だ。
無気力な感情の渦に押さえつけられて、思い出すのも一苦労になっている。
ココロは泣いていた。
膝を両手で抱え込み、顔を埋めて、ひたすらに涙を流していた。
それを見ていると、僕の手はいつの間にか真っ白になっている。
力を込める理由はないのに、皮膚が破け、血があふれ出している。
次第に胸の深いところから湧いてくる想いがあった。
僕はなんとかそいつの輪郭を確かめようとする。
怒り。そこにあったのは、自分でもいつ感じたか辿りきれないほどの怒りだった。
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