ささやかなあなたが、生かしてくれたことを

犬童

第1話


 フローリングに座りながら、缶切りを差し込む。

 ぎっぎっとアルミ蓋の周囲が切り開かれて乳白色の液体が姿を現した。

 中には黄金色の果肉が十二。缶切りを置いて、傷だらけのフォークを突っ込む。

「いただきます」

 飢えた舌には甘露だ。たしかな喜びをおぼえながらくしゃりと果肉を潰して数回。

 僕の手は止まる。

 しんと静まり返った中学校の教室は、ずっとむかしの平和を思い出す。

 だれもが生きることに必死じゃなかった頃。

 ”幻想”というものをいくらかは信じられて、そのツケを払うのも許してくれた時代。

 ヒビが入った窓ガラスの外には薄い霧がどこまでも広がっている。

 そこに人の気配はない。なにひとつ動くものがない。

 ”獣”が出たのだ。

 人々がそれをどう名付けるか議論しているうちに人から人に広まって、気付いたときにはすでに手遅れになっていた。ぬるま湯に落とされたカエルが徐々に茹でられていくのと同じように、僕たちはどうしようもなく不注意で楽観的で怠惰だった。

 そこから始まった地獄については付言する必要はないと思う。

 ”獣”の跳梁跋扈は止められなかった。せめて自分はあのようにはなるまいと怯えながら、怪物たちの楽園と化した現在を生きている。

「(死んだほうが楽になれるんだろうけど)」

 もう数ヶ月も旅をしている。東に理想郷があると聞いて、一か八かで歩き出したのだ。

 絶望の中で腐り落ちるよりも希望を前途にして餓えたほうがマシだと思ったから。

 だけど、今になってそんな選択がいかに子供じみていたかも分かる。

 食料の缶詰は残り二個。当初の目的地にあったのは今までと変わらない景色。それでも”何も苦しまなくていい生存者の聖地”があるはずだと心を奮い立たせて……。

「馬鹿だよなぁ」

 ああ、本当に馬鹿だ。バカじゃない、馬鹿だ。笑えない。自分に希望という名のどうしようもない魔法をかけてしまったんだろう。

 もう生き足掻くのにも疲れた。頸動脈の位置はどこにあったろうと思考を探り。

 ――ぱかあん、と響き渡る音。

 身体に電流のような衝撃が走った。

 すぐに傍へ置いてある釘が無数に打ち込まれたバットを握り締めて立ち上がる。

「(あんなトラップでも引っかかるもんか)」

 心臓がどくどくと音を立てて拍動し始める。

 半ばふざけて疲労しきった自殺意志が、本物の脅威に絡め取られたのを感じた。

 整理する。鳴子をセットしたのは西側階段と東側階段、そして非常口。

 耳に自信はないが、方角は教室裏口のほうからだったように思う。

 となれば西側階段。あれだけ大きな音を立てているなら動物じゃない。

 背中に蒸気穴みたいなのを幾つもくっつけた”獣”か、可能性は低いが同じ人間か。

「(どっちにしろ……)」

 厄介であることには変わりはない。

 バットを肩口に引き上げたまま、裏口の引き戸をがらりと開ける。

 薄暗い廊下。しんと静まり返っている。気配はない。

 一歩前に出た。緊張のあまり息が苦しくなる。

「(大丈夫だ……僕ならやれる)」

 今までの危機もうまくかいくぐってきたつもりだ。何とかなる。

 さっきまでは疲れ切っていたのに、もう生きることばかりを考えていた。

 あまりにも現金な性根に歯軋りと笑いがこぼれる。

 まるで生と死のブランコだ。死にたくなれば生きるほかなく、生きたいと思えば死に突き当たる。それなら意識を保っていること自体が拷問なのだろうか?

 階段に近づくにつれて背筋にふるえが走り、手汗が滲み出した。

 この角を曲がれば階段の踊り場だ。

 眼をつむる。相手の姿をイメージしてそいつの顔面にバットを振り下ろす。

 悪くない。いける。

「ッ、ぉおおおおおおおおお!!」

 鬨の声をあげて僕は走り出し、”敵”がいるであろう場所へと勇敢に踏み込んで――。

「こんにちは?」

「え」

 一瞬、背中に氷柱が差し込まれた。そういう感覚が本気でやってきた。

 その涼やかな声は、たしかに背後から聞こえてきたのだ。

「わあっ!?」

 前転するようにすっ転ぶ。バタ足のように下半身を動かしてやたらめったらにバットを振り回す。空気を攪拌する木製の釘打ち棒だけがその場で激しい音を立てる。

 心が恐怖のあまりにパニックを起こしている中、視界は別のものを捉えていた。

 それは、ひとりの少女。

 肩口までの白髪、垂れ下がったアーモンド型の目、すっと通った鼻梁に、薄い色の唇。

 見ようによっては自殺者の亡霊にも、あるいは華奢な天使のようにも受け取れる。

 そんな小柄な少女が目の前で無様な様を見せつける僕を、苦笑して見下ろしていた。



「これ、おいしいね」

 ココロと名乗った少女は屈託のない微笑みを見せながら、使い古しのフォークをアルミ缶に差し込んで果肉に舌鼓を打っている。

 思わずため息をついた。疲労感は増したが、そう悪いことばかりではないわけだ。

「好きなだけ食えよ。腹減ってたんだろ」

「うん、わたしは大食漢だからね。余裕がないと生きていけないのさ」

「変な言い方。こんな世の中じゃ笑いとるのも贅沢だろ」

「荒んでるなー」

 心配そうに見上げてくる少女へ舌打ちしそうになって、こらえる。

「(どこから来たんだ、この女は)」

 少なくともこんな能天気な性格だ。相当恵まれていたか、ネジが数本外れてるのか。

 と言っても初対面の人間に対価なしで缶詰をやる自分も大概だが。

「……どうしてここに」

「わたし?」

 周囲をきょろきょろと眺め回したあとで首をかしげる。

「ほかにだれがいるんだよ」

 逡巡するような素振りを見せてから、

「なんていうかな。人を探してた」

「人? この辺の生存者はそんなに多くないのに」

「まぁ生きているという意味合いならそうなんだけど」

 微妙にニュアンスが違うとでも言いたげだ。

 謎めいた動機に今更ながら警戒心がくすぶり始める。外見で騙されてはいるが、彼女も生きるためならナイフで後ろから刺し殺すなんてこともやるだろう。

 身ひとつといった感じのココロは荷物をどこかに隠している可能性が濃厚で、ますます疑惑は高まった。

「キミはなにか探してるんじゃないの」

 どうも一瞬、僕の顔が歪んだらしい。彼女が小さく笑った。

「図星だね。わたしもそうだよ」

「だったらどうした」

「意地張ってていいの? キミが一生後悔するかもしれないことを知ってるんだけど」

 なにを言ってるんだと言う視線を送ると、ココロは食べ終わった缶詰を床に置いた。

 彼女の表情にはかすかに罪悪感と、それを覆い隠すような自信がある。

「東を、目指してるんでしょ?」

 驚いた僕の先手をとって彼女は二の句を継いだ。

「旅の途中ですって格好してるし。こんな簡易キャンプするのは行き先があるからだろうけど、じゃあどこかって言えば、理想郷の話しかないんじゃないかな」

「……仮に僕が理想郷を目指してるとしよう。何に後悔する?」

「当て、ないんでしょ?」

 まっすぐな双眸が僕を射抜く。まるでこちらの心を透かしたような物言いだ。

 一瞬たじろきそうになるが、必死で我慢する。

「僕は、理想郷の場所を知ってるよ」

 何か言い返そうとした瞬間に、その言葉は、神の大槌のごとく振り下ろされた。

 彼女は、笑っていなかった。

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