第3話

「……今日はここで?」

「えっ、ああ……うん……いいんじゃないか、な」

 門扉を横に押し込みながらそびえ立つ建物を見上げる。

 褐色とクリーム色が交互の模様を形作る外壁に、幾つか近未来的なデザインの窓。

 そして円柱が二本、ガラス張りの入口の前で玄関屋根を支えていた。

 門扉の横に造り込まれたプレートには〈美誠自然博物館〉と記銘がある。

 あれから数時間、街中を歩き続けた。

 お互いに口数は少なく、どこか陰鬱な雰囲気を無自覚に発散しながら、ひたすら割れた路面を一歩一歩と前へ進めた。

 そうやっているうち、たどり着いたのは、石塀で周囲を覆われた大きな敷地と、この静まり返った博物館だった。

「……」

 奇妙な疲労とわだかまりを感じる。あんなことには慣れていたはずなのに、心中は鉛を呑んだように重く、赤い何かが熾火みたいにくすぶっている。

「大丈夫?」

 不意にココロが声をかけてきた。僕は唸りのように「あぁ」と返事を口に出して、脳裏にちらつく苛立ちから逃れようとする。

 となりから気忙しげに視線が向けられているのが分かった。

 それがまた針のむしろにいるようでうざったかった。

「行こうぜ」

「……そうだね」

 端的な会話。それ以上の発展を拒むように僕は敷地へと足を踏み入れる。

 博物館のエントランスは想像していたよりかはまともな状態だった。

 薄汚れた朱いカーペットと受付カウンター、奥には展示物をざっと説明するような概要展示のための空間が広がっている。また所々に崩れた調度品や剥がれた壁紙、垂れ下がった照明がぶら下がっていた。

 そしてなによりも、匂い。

 在りし日を思い出せる、公共空間の、清潔な香り。

 それが鼻孔をわずかにくすぐり、僕の胸にひそんでいた哀しみがぶわりと咲き広がる。

 思わず、足を止めた。

「どうしたの」

「むかしを思い出したんだ。まだ、みんなが平穏無事に暮らせていた頃の」

「そっか」

 ココロは言葉に詰まったように俯くと、またこちらを慮るかのような目で口を開く。

「キミの幸せな想い出が、ここにはある?」

「ここにはないし……話したくない」

「……ごめん」

 謝るな、と。赤い何かがごぷりと煮えた泡を吐き出した。

 些細なことだと頭では理解しているのに、感情の波は一度荒れ出すと収まらない。

 バットを握り締めると、大きく息を吐いた。

「(見取り図は……)」

 すぐ知覚に案内板があった。薄黒い液体がいくらかこびりついていて、触ってみれば粉状になってぽろぽろと落ちていった。付着してからそれなりの月日が経っているらしい。

 奥の通路からカフェテリアに入れるようだ。

 僕は不安げなココロに視線で合図を送ると、黒い化粧板の通路をゆっくりと進んでいく。

 途上で目にする展示物たちは、傷だらけのものもあればかつて展示されていたままのものもある。いずれもこの地で暮らしていた古代人の遺産だった。

 なんとなしに暗澹とした、言い訳がましい気分になる。

 ――好きでこうなったわけじゃない。

 ――少なくとも、僕が望んだ世界なんかじゃない。

「……きれい、だね」

「……」

「四苦八苦しながらいろんな絶望と戦って、それでもあきらめなかったから……わたしたちが今ここにいる」

「そうだな。んで、まともに生き残れるのは僕たちの世代で終わりってわけだ」

 棘がある物言いだったか。ココロがムッとなって口答えしようとするも、数秒ほど僕の顔を見つめてから、まぶたを伏せた。

「なんで……そんな……」

「かぎりなく可能性の高い未来だろ。理想郷が……もしも、ただの都合のいい嘘だとしたら」

 最後まで言い切ることに、どうしても抵抗があった。だけど、不穏なさざ波が揺れて、悪意の芽が顔を出すと、もう自暴自棄な気持ちになる。

「……キミはそれを信じて、ここまで来たんじゃないか」

「かもしれないな」

「ッ……じゃあなんで!」

「お前は妄想を追いかけ回してる狂人で、僕はそれをありがたがってる間抜けだとしたら、やってることが全て馬鹿らしくなりそうだと、ふと思ってさ」

 我ながら冷たい言葉を吐く。それでも心は積もり積もっていく深い不安と、疲労と、静かにたゆたい始めた怒りによって限界に近いところまできていた。

 本当に、理想郷は、あるのか?

 始めから、お前はだまされているのに気付いていたんじゃないか?

 だというのに蜃気楼を追いかけて、危険な目に遭い、その結果手に入れられたのは、この世界がどうしようもなく腐り果てているという事実の再確認だ。

 それなら、それしかないなら。

 ここまでココロに付き合ってきたのは、手の込んだ自殺でしかない。

「……キミ、は……」

 ふるえ出した手のひらを握り締めて、その垂れ下がった瞳に、あまりにも誠実な憤りと悲傷を浮かべながら、ココロは言葉を継いだ。

「あまりにも、可哀想だ」

 げぽっ、と鮮紅色の何かが泡立つ音がして、視界が揺れた。

「……なに?」

「そんなに打ちのめされて、長いあいだ苦しんできたんだもんね」

 一歩、彼女がこちらへと歩みを寄せる。

「でもわたしは知ってるよ。本当は、信じたいんだ」

「お前、どういう……」

 心臓の鼓動が高鳴り始め、いつの間にか数歩退いている。

「だってキミは助けに来てくれた。わたしなんか、いなくなってもいいはずなのに、命懸けで……そう、命懸けで助けに来てくれた」

 僕はまなじりをぎゅっと瞑り、もう一度、彼女をしっかりと観察した。

 世界と世界の狭間で、砂粒がひどく精細な”絵”を形作っているような、不気味さ。

「お前は、いったい」

「ずっと、ずっと、一緒にいたんだよ。本当なら、出てくるべきじゃなかった。だけどキミにとってわたしは」

 ――なによりも大切な、ココロ、でしょう?

 その瞬間、今までの光景が全て自己との対話でしかない仮定が、あまりにも鮮明となり、胸中で煮えたぎっていた溶岩流がその巨大な口を開いた。

 噴火。

 そんなイメージが脳裏を駆けめぐるのと同じ速度で、左腕が鞭になる。

 鈍く、跳ねるような音がして彼女がよろめいた。

 自身の体重を支えられずに、腰から崩れ落ちていく。

「っあッ……!」

 頭の中は真っ白で、ただ理性が麻痺している。感情だけが地獄の駆動を続けていて、そのシステムは眼前の女……いや、”怪物”をぶち殺せと吼えている。

 右手のバットを握り締めて、片手を添えた。

「死んじまえ」

「あ、が……っ」

 とにかくこの気持ち悪いやつが嫌いだ。虫酸が走る。

 咄嗟に飛び退いたココロのせいで振り下ろしたバットが空を切り、手元に激しい衝撃が伝わった。展示物のガラスが盛大に割れ散らかっていく。

「な、なんで……」

「うるさい。喋るな。黙れ。そのまま死ね」

 鼓膜を突き破りたくなる。もうこいつの発する音はなにひとつとして聞きたくない。

 こいつは、こいつは、僕を殺してしまう。

「――消えてなくなれ!」

「わたしはキミだよ! 自分を殺せるもんか!」

 どこまでも勘に触る。

 バットを投げ捨てて片足を掴み取り、乱暴に引っ張った。抵抗しながらもずるりと手元に引き寄せられてきたこいつの上に、のしかかる。

「くっ、あああぁ!!」

「死ね、死ね、死ね、死ね、死ね」

 まるで呪詛のようにそれだけをつぶやき続ける。そうすれば全てが報われる気がした。今まで苦痛と絶望と疲弊を味合わされてきたのはこいつのせいなんだ。

 両手が、細い頸筋に伸びる。

「ひっ……」

 表情が恐怖に染まる。きりきりと僕は両手に力を入れていく。目尻から水滴がこぼれ落ち、唇からはふいごのような音。両手と両足がじたばたと動き始め、真っ白な顔色が赤黒いものに変わっていく。

 全身に、湧き上がるような達成感と、背筋がぞくぞくするような快楽が走った。

 いつの間にか、下半身に熱い硬さも感じていた。勃起している。

 僕は、この感覚に比べるなら、全てが馬鹿らしいと心の底から思って。

 ふと。

 先ほど割れて飛散したガラスの断片に、自身の姿が映り込んだのを見た。

 そこには、疑いようのない”獣”がいた。

「た、ず……け……」

 眼下では、あのとき、僕がどうしようもない想いを抱えて助けたはずの、少女がいる。

 彼女は泣いていた。それは幼子が、本当に信頼しているものに、哀願するための涙だった。

 僕は知っている。知っているんだ。

 そういう子たちが、獣に嬲り殺されていったのを。

 自分はなにもできずにふるえていたことを。

 今まで生きてこれたのは、ただ運がよかったことを。

 そして、なによりも、彼女を――ココロを否定したいのは。

 僕自身のどうしようもない人生から逃れたいからだ、ということを。

「あ、あ、あう……あ、あ、あぁぁぁぁぁ……」

 どうすればいい。どうすればいいんだ。

 憎悪が徐々にやるせない汚泥へと変化していき、全身から虚脱感に似た感覚が煙のように揺らめきながら発せられる気がする。

 気が付くと、両方の手から力が抜けていた。

「げぼっ! ごぼっ! えっう、えっ……!」

 彼女は苦しげに悶え、水中で悲鳴をあげる人間のように首をかきむしっている。

 胸を蹴られた。

 ほっそりとした足から伝播したのは、果たして見た目通りの一撃。

 だというのに、僕は後ろへとよろめいて、そのまま背中を叩きつけられる。

 視界にスーパーマーケットの光景と感覚がフラッシュバックした。

 ――イッピキとささやく、口角が吊り上がった獣――。

 ――腹部への忘れられない痛み――。

 ――邪悪が邪悪として世界を謳歌する憤怒――。

「なんだ。なんだよ、これ」

 その答えは眼前にある。もう目を逸らすことはできない。

 初めから、僕の旅は”たったひとりだった”のだ。

 考えれば不可解な点だらけだ。

 どうしてこんな、きれいで犯罪的ともいえるほど呑気な少女が今まで生きていられる?

 なぜスーパーで助けた女性は、彼女に視線ひとつくれなかった?

 そもそも彼女と会ったときのことを思い出せ。

 なぜ? 何の気配もなく、後ろへ現れることができた?

 ……いつからかは分からない。けれども、確実に狂っていたんだ。

 こんな世界で、脆弱な精神が耐えられるわけがない。僕は明確な死(くるしみ)が目前に迫ってきたのを理解して、空腹と絶望のあいだに、生きるための狂気を開花させた。せめて最後の最期で歯車と歯車に挽き潰される異物としての生でも、意味があったのだと慰めるために。

 どこにもまともなものなんてありはしなかった。

 理想郷は、僕の脳味噌というゆりかごで、夢によって形作られるしかなかった麻薬だ。

 それを奥深いところで悟ってしまった瞬間、下顎が引き攣り、両頬が持ち上がって、全身にぶるりと情けない怖気が走り。

「うっうっ……」

 嗚咽。

「うぎゃぎぇあああああああああああああああああああああ!?」

 叫き散らし、泣き散らし、顔をぐしゃぐしゃにしながら発作的に駆け出す。

 跳んで、逃げて、つんのめる。

 倒れれば、起き上がって、叫ぶ。

 壁に頭をぶつけて、笑う。

 展示コーナーにこぶしを叩きつけて、血塗れの手のひらに怯え竦んで、自分のやったことじゃないと意味がない囁きを繰り返す。

 自身が、自身ではない。理性と本能が分離したような、あまりにも”酷い”感じ。

 何度も何度も正気と狂気の境目を渡り歩いて、もう何時間も経ったのか。

 気付いたときには両手を真っ赤にし、身体中に脂汗を垂らし、薄暗くなった廊下の隅っこでふるえて丸まっていた。

「あ、あ、あ……」

 うまく、声が出ない。喉が枯れている。

 僕は凍りついたような身体をなんとかして動かそうとする。

 どんっと音がして、そのまま前へ倒れ込んだ。

 立ち上がろうとしたのに、出来損ないのような力の入れ方だ。

 笑うことも、怒ることもなく。今の僕にあるのは無色透明の切迫感。

 這いずるようにして床面を押し、前へ、前へと。

 そして僕は、ぐっとなにかに背中を押さえ込まれる。

 背中。

 けれども感触はない。そこにあるのは物理的な存在じゃない。

 それは恐怖。

 世界の残酷さに立ち向かうことへの、純粋な否定。

 僕自身がもうどこにも行くことが出来ないという証明だった。

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