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しまった、と思った時にはもう遅かった。だけれど、私は特に悲観したわけではなかった。案内役の小鬼とはぐれてしまったのだが、そこかしこに門番のように小鬼や、鬼とも言えない何か、醜い誰かが立っている。彼らに聞けば迷うことはないだろう。そう、「迷うことはないだろう」と危惧するほどには、この邸宅は入り組んでいた。
今、どれくらいの曲がり角を曲がったろうか。幾つの扉をくぐったろうか。思い出せないし、現在地が把握できない。
曲がり角といっても直角でないのがまた困る。煉瓦に彩られたなだらかなカーブ、それが連続している。先ほど通された和室とは趣が異なり、すっかり西洋風の佇まいだ。私は壁に手をつきながら歩いた。
門番たちは、無言で歩く私に何も声をかけなかった。よく出来た従僕だ、と思う。彼らもこの家と共についてくるのだろうか?
私はやがて行き当たった扉、それはまるでコンサートホールの舞台に出る扉のようだった、だが重さもさして感じずに美しく開け放った。軽やかに。まるで曲線を描くボールが放たれるように、開放的に解き放たれた。
そこにはえも言われぬ静寂に満ちた部屋があった。
室内には半月を描くような、澄んだ水で満たされたプール。水は透き通っているのに闇に満ちて、ここは地下であると見当していたのに、大きくアーチを描く窓には星々に溢れた夜空が映っていた。
そして高い頭上からは月のブランコ。金に輝いて揺れている。星を象ったものもあった。
プールの反面、壁際にはベッドが一つ。ここは寝室か、と思った。
ここで眠れば、私の妻はどれほど幻想的な夢を見ることができるだろうか。圧倒的な藍色の静寂と輝き、静謐、幻のような現実で満たされ、空気の粒子は重かった。
プールから妖精が現れ、私にチェロを奏でるよう懇願してきた。あまりにも必死だったので、私はチェロを握りしめ、プールに腰掛けた。
音を立てて水に半分沈んだチェロが波紋を作り、水面に広がって行った。
リクエストをされるので、それに合わせて演奏する。音楽に踊るように、水中の革靴が踊って、揺れて、妖精たちは愉快そうにシンフォニーを共に作ってくれた。
しかしそれでいて品定めされているようなので、演奏には気が抜けない。私はキリキリと緊張の糸が張りつめられる音を聞きながら、ロジンをたっぷり含んだボウを振るった。
リクエストが尽き、妖精から殺される前に、と私は足を引き上げる。チェロは金の砂つぶになって消えてしまった。
ふと、振り返った時にはそこにあったはずのベッドがなかった。その代わり、誰も押していないのに、ゆらり、ゆらり、と揺れている揺かごがある。
アールヌーボーとでも呼べば良いか、フリルがたっぷりついた揺かごだった。
誰が眠っているのか。起こしてはいけない、いや。見てはいけない。
そう思いながらも好奇心が抑えられない。
やおら近づいてそのヴェールを、そっと、払った。
「 」
邂逅は一瞬、だが私に記憶はなかった。そっとヴェールを元に戻して私はプールを振り返る。そこには、先ほどあったはずの星空の映る窓も、妖精たちの金のブランコもなく、ただ真っ暗な水辺があるだけだった。
これはいけない、と思った。
だって、こんな部屋ではいけない。
何かとても醜いものを見た気がする。醜悪で吐き気を催すような。
なんとなく眩暈のようなものを感じていると、扉を開けて管理者の一人が走ってきた。
「逃げてください!」
「どうしたのかね」
「水が来ています!」
彼の言葉通り。津波のようにこちらに流れ込んでくる水が、既にこの部屋に侵入しつつあった。やはりここは地下だったらしい。それなら、逃げなければならない。
どこにインプットされていたのか分からない。だが私は必死で走った。
入り口を開け、出口を開け、小口を潜り、打ちっ放しの粗忽なコンクリートの壁を拭い走り、無骨な鉄パイプの手すりを乗り越えて走る。
だが水がくる。
水が、水がくる。
溺れてしまう。
早く、と管理者がただれた皮膚を揺らしながら叫んでいた。
だが私は間に合わなかったらしい。
濁流と呼ぶには濁ってはいない、ごく普通の水だったが、だが十分な水量と水圧を伴ったそれに足元を掬われ、倒れていく。体を、自覚した。
掴んだ手すりも力なく手から離れた。
どうやらこの屋敷は、私が気に入らなかったらしい。
月に揺れる妖精のブランコ 仇野 青 @akarishou
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