3-2 真夜中に
深夜になっても、うずまき貝の廊下は発光石で温かに照らし出されている。ただ、人の気配はなく、しんとしているせいか、昼間とはまるで別の場所のようだ。
この晩、イズクは夜遅くに部屋を出た。必要以上に部屋を出ないよう言いつけられていたが、ひとりでじっとしているのに耐えかねたのだ。
短い会話の後、結局、魔術師は目を覚まさなかった。イズクは、部屋を掃除し、今日の分の菓子を置き、そのままにされていた菓子を引き取ってから、夕方ごろ昇降機に乗り込んだ。魔術師と会話ができたこと、重そうな足かせのこと、それに、魔術師のくたびれたようす……。奇妙な喪失感と、安堵と、正体のわからない不安。イズクの中にわだかまった複雑な気持ちは、夜になっても晴れないままだ。
今日こそ手紙を書こうと机に向かったものの、昨晩と同じく、手紙を書くことはできなかった。昨晩と違うのは、書けなかった理由だ。孤児院の皆への思いのためというよりは、何を書いていいのだかわからなかった、というのが本音だった。
初日に出した手紙は、特別速く届けてもらえたと聞いている。返事がくるのは、いつ頃になるのだろうか。ここに来てからまだ三日だというのに、もう何か月もたったような気がしていた。
ふと――廊下の向こうで、金属の擦れる音がした。もう聞き慣れた、昇降機が上下するときの音だ。
こんな真夜中にも、誰かが昇降機を動かしているのだ。イズクは、廊下のカーブに隠れ、昇降機の方をうかがった。
発光石の光が、昇降機から下りてきた人物の輪郭を照らし出す。妙に大きいと思えば、どうやら、ワゴンを押しているようだった。イズクは、ぼんやりとした明かりを拾い上げようと、目をこらし……ワゴンを押す人物が、知った顔であることに気がついた。あの掃除人だ。
向こうは、イズクには気づいていないようだった。掃除人は、昇降機を下りてすぐのところにワゴンを止めると、ワゴンの側面にかけていたはしごを壁に掛け、同じく取り出した布きれをにぎって、発光石の掃除をはじめた。
他の者たちが寝静まったこんな時間に、どうして、まだ掃除をしているのだろうか。イズクは、少し躊躇してから、彼に声をかけた。
「あの……。お仕事、まだ終わらないんですか?」
掃除人が、おどろいたようにイズクの方を見る。人がいるとは思わなかったようだ。今朝、みっともない顔を笑われたことを思い出したイズクは、小気味よくなった。
イズクの気持ちを察したのか、掃除人がむっとする。
「バカにしてるのか? 俺が鈍くさいんじゃなく、ちりひとつ残すなと言われてるだけだ。どうだっていいだろ。何も知らないガキは、おとなしくおねんねしてな」
掃除人は、イズクを見もしないまま、早口に言った。そんなふうに拒まれたことのなかったイズクは、掃除人が怖くなり、首を縮こめた。
けれども掃除人は、きびしい口調とは裏腹に、無理にイズクを追い返しはしなかった。イズクの存在を無視して、熱心に発光石を磨いている。そんなに磨かなくてもじゅうぶんきれいなのに、とイズクは思った。
「もう、帰ってもいいんじゃないですか? 誰も見てないし、ううん、僕が見てるけど、もうきれいだと思うし……。ちりひとつ残さないなんて、そんなの、できっこないっていうか……」
「当然だろ。人が動けばごみは落ちるし、埃もつもるんだから」
掃除人は、当然のように言った。そうとわかっているにもかかわらず、なぜ、夜遅くまで掃除をし続けるのだろうか。イズクにはわからなかったが、掃除人がひとりで仕事をしているのを見ていると、胸が痛くなった。
命じられたことを達成できないとわかっているのに。こんな真夜中、手を抜いても誰もとがめないだろうに、彼は掃除をし続けている。
「お節介かもしれませんけど……。僕にも、できることはないですか。お手伝いしたいです」
イズクの手を借りたところで、本当に〈ちりひとつ残さず〉掃除ができるとは思えない。だが、イズクはそう申し出ずにはいられなかった。
遅くまで掃除し続ける掃除人を見ているといたたまれなくなる。そうでなくとも、部屋に戻る気にもなれない。今はとにかく、ひとりになりたくなかった。
掃除人は、おかしなものを見るような目でイズクを見てから、ぷいと顔をそらし、こう言った。
「床、拭いて。布とバケツはそっちにあるから」
「はい、ごめんなさ……えっ、いいんですか?」
拒絶されると思っていたイズクは、思わず掃除人に問い返した。掃除人は、〈手伝いを断る理由があるのか〉と目で語ってから、手元に視線を戻す。
イズクは、布きれに水を含ませ、はしごの足元に屈みこむ。そうして見ても、床面はほとんど汚れていなかった。壁際のかすかなほこりが、かえって、普段から念入りに清掃されていることを示すばかりだ。
孤児院の床は、いつもひどく汚れていた。ほこりやちいさなごみどころか、弟妹たちが外から持ち込んできた泥や、古くなってしまって、もう落ちない汚れもたくさんあった。どんなに掃除をしたところで、孤児院の床がこんなにきれいになることはなかっただろう。それとも、もう床板を張り替えてしまっただろうか……。
壁際のあたりを拭き、布きれについた汚れの薄さに眉尻を下げたところで、イズクの頭上から声が降ってきた。
「心細いのか」
イズクは、どきっとして顔を上げた。まるで、心の中を見透かされたようだ。
「どうして、わかるんですか?」
「急に親元から引き離されたガキが考えることなんて、だいたい同じだ。……あと、そのうざったいしゃべり方はやめろ。慣れてないんだろ」
掃除人は、イズクをバカにするように鼻を鳴らす。
うざったいしゃべり方――イズクは、頬が熱くなるのを感じた。一方で、どうしようもないじゃないか、と思う気持ちもあった。孤児院では、ていねいな話し方を学ぶ機会なんて、ほとんどなかったのだ。それでも、イズクは何も言い返せなかった。この話し方に慣れていないのは事実なのだから。
会話が途切れて、しばらく――掃除人は何度かはしごを移動させたときになって、イズクは、掃除人がただ自分をバカにしていたのではないことに気がついた。彼は、慣れていないのなら普通に話してもいいのだと言ってくれていたのだ。
――そういうことは、もっと優しく言ってくれればいいのに。
意地悪な言い方をしはしても、優しい人なのかもしれない。少し気が楽になったイズクは、ずっとひとりで考えていたことを、彼に尋ねてみることにした。
「ちょっと、気になってることがあって……。あの魔術師のことなんだけど。全然、食事をしないみたいなんだ。知ってる? 魔術師って、そういうものなの?」
「はあ? おまえ、魔術師を何だと思ってるんだ? 魔術師といったって人間なんだから、食わなきゃ死ぬさ。食事をしないなら、それなりの理由があるはずだ。……〈食べない〉のか、〈食べられない〉のか、どっちだ?」
掃除人が、呆れ顔でイズクを見下ろす。
イズクは、答えに詰まってしまった。〈食べない〉のだとばかり思っていたが、言われてみれば、あの痩せ方は異常だ。何か、病気でも抱えているのかもしれない。人間を食べているとしても、その量はじゅうぶんと言えなさそうだ。
「なんだ、そんなことも把握していないのか。そういうことは、人に訊く前に本人に訊いてみればいい。お前が、言葉の通じる相手とさえまともに話せない愚か者でなければ、だが」
掃除人は、なんでもないような調子で、そんなことを言った。
イズクは、魔術師のことを考えた。淡々とした口調、何ごとにも興味のなさそうな、気だるい態度。彼が、イズクの質問に答えてくれるだろうか。まるで言葉が通じないふうでもなかったが、怒らせてしまうことがあれば、そのまま食べられてしまうかもしれない相手だ。
不安そうなイズクを見てか、掃除人がにやりとする。
「他人が怖くなくなる秘訣を教えてやろうか。どんな奴なのか、知ることだ。知れば、怖くなくなる。手始めに、名前くらい訊いてやれ」
名前――イズクは、そう言われてはっとした。今まで、魔術師にも名前があることに、思い至らなかったのだ。小役人は、一度も魔術師の名前を口にはしなかったし、イズクを取りまく誰も、彼の名前を言わなかった。
――彼にも、僕と同じように……普通の人と同じように、名前があるんだ。
イズクは、魔術師の足にはめられていた枷を思い出した。続いて、彼の枝のような足、疲れた顔を。魔術師のことを考えるうち、イズクは、彼の名前が知りたくなった。
魔術師は恐ろしい。だが、彼も言葉を話すし、名前を持っている。相手を知ることで怖くなくなるというのなら、なおさら、彼と話さなければならないと思うのだ。
――怖いけど……ううん。怖いから、自分で訊かなくちゃ。明日、もし魔術師が起きていたら、彼と話をするんだ。
イズクがうなずいて見せると、掃除人は、興味なさげに視線を手元に戻す。
掃除人の横顔を見ていたイズクは、まだ、彼の名前を訊いていなかったことを思い出した。
「そういえば、あなたの名前は?」
イズクの問いに、掃除人は、おどろいたような、困ったような顔をして……それから、不器用に微笑んだ。
「なんだよ、それ。お前、俺のことが怖かったのか?」
「あっ! ごめんなさい。怖いから知りたいわけじゃなくって、ただ、まだ聞いていなかったから……」
「いい。浅はかなガキの考えることなんて、わざわざ言われなくてもわかる。セロだ。姓はない」
そう答える掃除人――セロは、なぜだか、どことなくうれしそうに見えた。
セロの返事を聞いたイズクは、彼に親しみを抱いた。孤児であるイズクにも姓はない。うずまき貝に来てから、何度も姓を尋ねられたため、先んじて〈姓はない〉と言うセロの気持ちもよくわかった。
「ふうん、僕と同じだね。僕にも姓はないんだ。……あっ、僕はイズク。よろしく、セロ」
イズクの言葉を聞いたセロの手が、少しの間、止まった。彼は〈あっそう〉とだけ言い、すぐに作業を再開する。けれども、そのときの彼の声色は、これまでよりいくぶん優しい気がした。
その夜イズクは、セロとともに、眠くなるまで廊下を掃除した。ちりひとつなくすことはできなかったが、セロがそこにいてくれたおかげで、イズクは寂しくなかった。
イズクが眠気にあらがえなくなったころ、セロはイズクを抱え、部屋に帰してくれた。そうしてイズクは、人に触れている温かさにまどろみながら、余計なことを考える間もなく眠りについたのだった。
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