3-1 食べないの?

 三日目の朝。居室を出て、昇降機に向かう途中、イズクは掃除人に会った。

 イズクがあいさつをすると、掃除人は、イズクのほうをちらりと見た。そして、イズクの泣きはらした顔がおかしかったのか、くすりと笑った。掃除人のこの態度にもふしぎと腹は立たず、イズクはむしろ、ほっとしたのだった。


 今朝、起きたその瞬間から、イズクは、今日こそ食べられてしまうに違いないという気になっていた。魔術師の首にかかっていた小瓶を見たからかもしれないし、浅い眠りの中でいやな夢を見たからかもしれないが、そんなことはどうでもよかった。いずれ、食べられることは間違いないのだから。それが今日である気がする、というだけの話だ。


 食べられてしまえば、〈家族〉の誰にも、もう会えないのだ。それどころか、肉の一片も残さずに死んでしまえば、お墓さえ作ってもらえないかもしれない。

 もっと手近なところを見るなら、食べられるってどんな感じなのだろう――というのも、気になるところだ。魔術師の口は、普通の人間と同じくらいの大きさをしていた。人間を食べるときは、生かしたまま、指先からばりばりと食べてしまうのだろうか? それとも、首をひとひねりして殺してから、体をばらばらにして……。


 ――ううっ、ぞっとする!

 

 イズクは、考えるのをやめた。そんなことを考えなくったって、どうせ食べられてしまうのだ。


 これまでと同じように、厨房にワゴンを取りに行き、昇降機で最上階へと上がり、ワゴンとともに魔術師の部屋の前に立つ。ノックをすれば、当然のように、扉がひとりでに開く。

 この日のイズクは、部屋に入るのをためらわなかった。生きたまま食べられるのだとすれば、抵抗しない方が、痛い思いをせずにすみそうだと思ったから――だったのだが、部屋に一歩足を踏み入れたイズクは、その場で固まってしまった。

 魔術師が、ベッドに腰かけている。イズクがやってきて二日、一度も体を起こしさえしなかったというのに。


 ――やっぱり、今日が最後の日なんだ。魔術師は、僕を食べる気になったんだ。


 あせたと思っていた恐怖が、端から色づいていく。イズクは、入り口で固まったまま、体を動かすことも、魔術師から目をそらすこともできなくなってしまった。

 魔術師は、不安定に体をかたむけたまま、ぼんやりと座っていた。やがて、その目がイズクをとらえる。眠たげで、生気の薄いまなざしだった。


「誰?」


 魔術師に声をかけられた――イズクがそう気づくまでに、ずいぶん時間がかかった。イズクは、魔術師の短い一言の意味を必死で考えた末、どもりながらも答える。


「イズク、イズクです。ええっと……新しい使用人です。おとといからここで働かせてもらっていて……」


「使用人……」


 魔術師が、おぼつかない口調でくり返す。あまり意識がはっきりしていないのかもしれない。

 彼は、黙ってイズクを見つめてから、ふしぎそうに自らの頬をなでた。


「ああ……さっき、さわった? 顔」


 イズクは、しばらく考えてから、彼が昨日のこと――イズクが彼の髪をよけたときのことを言っているのだと気がついた。ずっと眠っていたために、時間の感覚がおかしくなっているのだろう。

 魔術師の機嫌を損ねたくなかったイズクは、余計なことは言わずに、何度もうなずいた。魔術師は、〈ううん〉とうなるような声を出した。どうやら、あいづちのようだ。

 魔術師は、自分の体をたしかめるように、あちこちさわった。それから、また少しの間――おびえているイズクには、とても長い時間だった――ぼうっと黙りこむ。

 イズクが緊張につかれはてたころ、彼は、ふたたび口を開いた。


「新しい給仕人……。前のは?」


「えっ! 前の……。いや、僕はちょっと……。わからない、です」


 返事を準備していなかったイズクは、〈あなたが食べたんでしょう〉と言いかけたのを、なんとかこらえた。魔術師は、イズクの様子を訝ることもなく、またイズクを気づかうこともせず、ただ、こう答える。


「そう」


「そう……。あっ、はい。そうです」


 イズクは、あわててうなずいた。魔術師は、イズクの返事にさえ興味がないように、焦点の合わない目で宙を見つめている。

 背中をおおい、ベッドから床にまで垂れ落ちる長い髪に、布を重ねただけの服とも呼べない服からのぞく、枝のような手足。表情がないことも相まって、置物のようだ。

 視線を下げたイズクは、魔術師の足首にはめられた枷を見た。細い足には似合わない、ずっしりとした金属製の枷だ。中途半端に伸びたかさかさの爪と並ぶと、ぎらつく枷は目に痛いほどだった。


 ベッドで横になりたかったのか、魔術師が、枷のはまった足をベッドに引き上げようとする。けれども、途中で重みに耐えかねたように、脱力した足を垂らしてしまった。彼は、足をベッドから下ろしたまま、ぱたりとベッドに倒れる。

 イズクはとまどいながら、テーブルの方を見やった。昨日置いた皿の中身は、まるで減っていない。

 

「あ、あの……お腹、減ってないんですか? お食事はまだ、いらないんですか? 僕を――」


 ――僕を、食べないんですか?


 魔術師の返事はなかった。すでに、彼のまぶたは固く閉ざされている。眠ったというより、気を失った、というふうだ。

 取り残されたイズクは、ぼう然と魔術師を見つめる。食べられる覚悟をしてきたというのに、イズクの心臓は、まだ平然と動いていた。

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