2-2 掃除人
昇降機を降りたイズクは、魂が抜けたような心持ちで、厨房のある一階の廊下へと踏み出した。
魔術師が残した菓子は、厨房に戻すことになっていた。イズクの仕事は、ワゴンを厨房前に持っていくところまでだ。厨房で働く者たちは、イズクを見ると嫌な顔をする。彼らに鉢合わせしないうちに、仕事を済ませてしまいたかった。
誰かに見つからないかとびくびくしながら厨房を目指すさなか、見覚えのある掃除人を見かけ、イズクは足を止めた。たしか、昨日のこの時間、同じように掃除をしていた――前に出会ったとき、不自然に目が合った青年だ。壁に立てかけたはしごの上で、壁の上部にある発光石とその覆いをみがいている。
立ち止まったイズクは、掃除人の視線を強く感じた。やはり、見られている。おそるおそる顔を上げたイズクは、掃除人が見ているのは、自分ではなくワゴンの上の焼き菓子であることに気がついた。
丸一日、放置されていた菓子だ。きっと、湿気ているだろう。そうでなくとも、魔術師のもとに渡った食べものだ。このまま処分されてしまうに違いない。
「あの……食べますか?魔術師が残したものですけど……」
掃除人の視線が、今度こそイズクに向けられる。イズクの真意を確かめているようだった。黙って見つめられる居心地の悪さに、イズクは落ち着かなくなった。
やがて、掃除人はふいとイズクから視線を外し、はしごを降りてきた。彼は、イズクに声をかけることもなしに、ワゴンの上の焼き菓子をいくつか口に入れる。そうして、無言のままはしごの方に戻り、何事もなかったかのように、ふたたび掃除をはじめた。
「食べたいなら、全部食べてもいいのに……」
「あの魔術師が、出されたものをすべて食べるはずがない。お前が〈つまみ食いしちゃった〉とでも言うぶんには、誰も見とがめないだろうが」
返事がくるとは思っていなかったイズクは、おどろいてしまった。
掃除人は、呆けているイズクを無視して、発光石の覆いを磨き続けている。イズクの方からは、ちっとも汚れているように見えないそれを、ひどい汚れでもこびりついているかのような手つきで、ていねいに。
イズクは少し迷ってから、ポケットに入れていたハンカチにクッキーを数枚包む。それらを掃除人が運んできたと思しきワゴンの上に置いてから、自分のワゴンを押して厨房へと向かった。
◆
その夜、イズクは書き物机に向かっていた。机の上には、くしゃくしゃに丸めた紙のかたまりが、いくつも散らばっている。
孤児院の皆に、手紙を書きたかった。助けてほしいと伝えたかった。だが、彼らのことを思うと、どうしても手が動かないのだった。
紙は、頼めばいくらでも与えてもらえた。けれども、何十枚紙を与えられても、たった一通の手紙を書くことができない事実が、かえってイズクを苦しめた。
孤児院の皆はきっと、幸せに暮らしているはずなのだ。せっかく手に入れた暮らしを――イズク自身の力では与えてやれなかっただろう暮らしを、わがままひとつで壊してしまいたくはなかった。それは、皆の幸せを望んだ過去の自分を裏切ることでもあるのだから。
イズクは、ベッドの中にうずくまり、夜更けまで泣いた。かなしいのか、さびしいのか、それとも、食べられるのがおそろしいのか……。いつしか、イズク自身にもわからなくなっていた。
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