2-1 おそろしい噂
灰色は不吉だ。何色にもなれず、明るくも暗くもない――彩りを愛する妖精女王の恩恵から取り残された、影の色だから。
それなら、灰色の髪を持つ人間は、どうなのだろうか。
◆
うずまき貝にやってきた、翌の昼すぎ。イズクは、魔術師の部屋の前で立ちすくんでいた。
魔術師のもとに食事を運ぶのは、一日一度、昼過ぎにと命じられていた。魔術師はほとんどものを口にしないから、食事も少なくていいのだという。食事といっても、その内容は焼き菓子だけなのだから、なおのこと気味が悪い。本当は何も食べずとも生きられるのではないかとイズクは思っていた。
イズクのほうはというと、朝、昼食と、ほとんど食べられずにいた。けれども、緊張で胃が縮み上がり、空腹は感じられなかった。ワゴンの上の焼き菓子を見ると、吐き気がしてくるくらいだ。
――今日こそ、食べられてしまうかもしれない。扉を開けたら、あの魔術師が待ち構えていて……。
昨晩、床で寝たせいで、体のあちこちが痛む。こんなときに襲われたら、逃げることもままならないだろう。すぐに捕まって、頭からばりばりと食べられてしまうに違いない。
考え出すと、孤児院に残してきた家族の顔が、次々にまなうらに浮かんできた。それに、小役人に預けた手紙のことも。あの手紙が孤児院に届くころ、イズクは生きているのだろうか?
イズクは、つばを飲み込んだ。
食べられてしまうにしても、今は、この扉を開けるしかないのだ。もしイズクが食べられてしまっても、孤児院の皆がこれからも暮らしていけるよう、お役人がうまく取り計らってくれるだろう。だが、イズクが逃げ出せば、そうはなるまい。皆で貧乏暮らしに逆戻りだ。
イズクは、勇気を振り絞って扉をたたいた。前と同じく、扉の向こうから返事はなく、扉だけがひとりでに開く。イズクは、警戒しつつじゅうたんを踏み、部屋の中を見渡した。
部屋の主は、相変わらずベッドに横たわっていた。肩のあたりからベッド、そして床にかけ、長い灰髪が川のように流れ、広がっている。
昨日、あわてるあまり置き去りにしてしまったワゴンは、イズクが放り出した場所に、変わらず置いてあった。乗せてある皿もそのままだ。それどころか、皿の上の菓子にも、手がつけられたようすはなかった。イズクの他に食事を運んでくる者はいないはずだから、魔術師は、丸一日なにも食べていないことになる。
やはり、食事なんか必要ないのではないだろうか? イズクはそう思いながらも、前日置いた皿をワゴンごと下げ、代わりに、新しい皿をテーブルに置いた。気づかず手が震えて、皿とテーブルがぶつかる音が響く。イズクはびくっとしたが、魔術師は目を覚まさなかった。
これで、イズクは覚悟を決めた。
いつまでも食事を運ぶだけではいられないことは、わかっている。イズクは給仕人ではなく、使用人として雇われたのだ。当然、魔術師の身の回りの仕事は、イズクがしなければならない。
イズクはまず、魔術師のベッドに近づかないようにしながら部屋を歩き回り、つくりをたしかめた。
この部屋における主だった空間は、夜空色のカーペットが敷かれた、扉を開けてすぐの場所だ。
おおまかには――入り口から見て、右手奥のかどに魔術師のベッド、ベッドの対面に大きな本棚。そして入り口正面にソファの背、ソファの向こうにローテーブル、その先の壁に大窓、という配置になっていた。ベッドのそばに置かれたミニテーブルには、いつからあるのか、水差しが置かれている。
部屋の左側には、水回りが集められているらしかった。
床を見下ろし、中央から左側……と視線を移していくと、やがてじゅうたんが途切れ、床がなだらかに傾斜しはじめる。傾斜の半ば、間仕切りにさえぎられたあたりからが風呂、トイレとなっていた。前もって聞いていたとおり、その一画に、掃除用具が揃えてあった。
イズクは、たっぷり時間をかけ、魔術師が目を覚ます気配のないことをたしかめてから、掃除用具を手に取る。
孤児院では、ぼろの天井や壁から木くずが降ってくるのが当たり前で、一日に何度も床にほうきをかけなければならなかった。その点、ここの床はつやつやとしていて、掃除は楽に済みそうだ。
カーテンを引き、大窓を開けたイズクは、頭上から差す光のまばゆさにおどろき、目を細めた。
光球にもっとも近い場所とあって、白い日差しが目の奥に刺さるようだ。高所ならではのやや強い風が、ぶわりとイズクの髪を持ち上げる。
少しだけ気分をよくしたイズクは、手際よくテーブルや棚を拭き、ソファカバーや出入り口のマットを叩いては窓枠に引っかけ、日ざらしにした。重いカーペットはイズクひとりの力でははがせないため、床がむき出しになっているところにほうきをかけ、カーペットで隠れているところの分まで、ぞうきんでぴかぴかにする。
かわいた布で窓をみがき、窓枠の隙間まで埃を取り除いたら、風呂場とトイレの床にブラシをかけ、水を流す。どちらもあまり使われていないようで、排水溝を掃除する必要はなさそうだった。
本棚に詰まった本の一部を開き、日陰に並べて干したイズクは、ベッドとミニテーブルの下にも本が積まれていることに気がついた。だが、それらを取ろうとすると、どうしても魔術師に近づくことになる。
――やっぱり、怖い。けど……きっと、こうして逃げ続けることもできないのもわかってるんだ。皆のためにも、うまくやらなくちゃ。僕が、一番お兄ちゃんなんだから。
イズクは決意を固め、そろりと魔術師に歩み寄った。
孤児院の皆のためにも、うまく仕事をやりとげなければならない。使用人としてはたらく以上、魔術師のそばにいることに、早く慣れたかった。すみずみまで掃除をしたことで高ぶった気持ちも、イズクの背を押してくれていた。
イズクがすぐそばまでやってきても、魔術師は目を覚まさなかった。イズクは、魔術師に触れないようにしながら、ベッドとミニテーブルの下にあった本を引き出し、ふたたび魔術師から距離を取った。魔術師は、まだ眠ったままだ。かなり深い眠りの中にいるようだった。
イズクは、魔術師の顔のあたり――灰髪におおわれている――を、じっと見つめた。
魔術師に近づいたとき、すえたにおいがした。長らく体を洗っていないのかもしれない。ひどく痩せているのもあって、かすかに肩が上下していなければ、生きているかもわからなかっただろう。イズクはまだ死体を見たことがなかったが、きっとこんなふうなのだろうと思った。
魔術師を見ているうち、今なら彼にさわっても平気だという確信じみたものが、イズクの中にわいてきた。おそろしい存在であるからこそ、自分を食べてしまうかもしれない相手だからこそ、顔もろくに見ないまま終わりたくはない――そんな意地もうまれはじめた。
イズクは、誘われるように、魔術師に手を伸ばす。その髪に触れそうになった一瞬、イズクの指先はわずかにこわばり――それでも、しっかりと触れた。魔術師は、目を覚ますことも、イズクの指を拒むこともなかった。
イズクは、魔術師の前髪を左右に寄せ、その顔をのぞきこむ。
中性的な、りりしい面立ちの人だった。光球を支えている当人だというのに、彼の肌は、日に当たったことがないかのように蒼白だ。まつ毛の短い目の端には目やにがこびりついていて、鼻血や、よだれだか胃液だかわからないものが伝った跡が、あごから首にかけて残っている。そういったものを拭えば、それなりにきれいな顔をしているだろうことがうかがえた。
イズクは、しばらく魔術師の顔をながめた。見れば見るほど、普通の人間のように思えてくる。
ふと、魔術師が身をよじらせた。イズクは緊張したが、魔術師は目覚めなかった。ただ、魔術師の襟の内側から、何かがこぼれ落ちる。
首飾りだろうか。何の気なしにひもの先にぶら下がっているものを見たイズクは、声なき悲鳴とともに飛び上がった。
――小瓶だ。そして、中に入っているのは……人間の指!
魔術師が、前の使用人を食べてしまったといううわさ。あれは、本当だったのだ。
イズクは、尻もちをついた姿勢のまま、後ずさった。背後に立ててあったいくつもの本が、ばさばさと倒れていく。それらを片付ける余裕もなく、ワゴンも、下げるはずの菓子も置き去りに、イズクは部屋を飛び出した。
短い廊下を駆け、昇降機を呼び出すレバーを引き下ろそうとしたとき。イズクは、昇降機に乗っても、目指すべき場所がないことに気がついた。
できるかぎり部屋から出ないよう命じられていたせいで、うずまき貝の中のことはよく知らない。あまり早くに私室に戻るのも、とがめられそうで気が引ける。小役人は怖いし、ここで働いている他の者たちも、魔術師にかかわっているためか、イズクには近寄りたがらない。
逃げる場所もなく、頼れる者もいないイズクは、結局、魔術師の部屋の前に戻るしかなかった。ワゴンで部屋の扉をふさぎ、それに隠れるようにして、膝を抱える。
――手紙を出そう。このままだと殺されてしまうことをきちんと伝えれば、孤児院の皆が僕を助けてくれる。そうでもしないと、僕は本当に……魔術師に、食べられてしまう。
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