1-2 うずまき貝の怪物

 うずまき貝に足を踏み入れた後からここにたどり着くまでのことを、イズクはよく思い出せなかった。

 どこからか現れた馬子がロックルと荷車を回収したかと思えば、上品な服の小役人に迷路のようなうずまき貝の中を連れまわされ、長く、入り組んだ廊下の末に乗りこんだ昇降機で上がった先で唐突にワゴンを押し付けられるとともに、早口かついい加減な説明――ここでの生活や、仕事についての説明だったはずだが、ほとんど覚えられなかった――を聞かされて困惑しているうちに、その場に放り出されてしまったのだった。


 ひとり置いてけぼりにされたイズクは、昇降機の方をぼんやりと見つめた。小役人が再び現れることも、新たに面倒を見てくれそうな人がやってくるようすもない。昇降機のレールは、この階でとだえていた。


 見上げれば、天井のもっとも高いところが、円錐形の頂点を形作っている。その頂点を取り囲んでいる光の帯は、どうやら窓のようだ。内側から布がかけられているのは、差し込んでくる光が強すぎるためだろうか。窓を覆う布が、切なげにぼんやりと光っている。


 イズクの隣には、焼き菓子が盛られたワゴンがあった。ジャムの乗ったビスケット、砂糖のまぶされた小ぶりなマフィン、金色の表面をうっすらと焦がしたタルト……。

 そして、ワゴンの向かう先は、ひとつしかない。廊下の端にある、ただひとつの扉がそうだ。扉には、円で囲った八芒星を主とした複雑な図柄が描かれ、外側からかんぬきがかけられていた。

 光球を支える〈怪物〉――話には聞いていたが、この扱いを目の当たりにすると、ぞわりと肌が粟立つ。冷たい指で背すじをなぞられるような、そんな感じだ。


 イズクにわかったのは、この場所がうずまき貝の最上階であること、ワゴンの上の菓子が魔術師のためのものであること、そして、この菓子を魔術師の部屋に運ぶのが、自身の最初の仕事であることだけだった。


(――ほら、あの子だよ。新しい使用人だ。ずいぶん幼いじゃないか。かわいそうに)

(――前の使用人も、いなくなったまま、まだ見つかっていないんでしょう?本当に食べられちゃったのかしら。恐ろしいねえ)

(――例の魔術師、このところ、何を出してもちっとも手をつけないだろう。人を食って腹がいっぱいなんじゃないかって……)


 うずまき貝の人びとは、イズクを見ると、眉をひそめてそんなことをささやき合った。小役人に連れ回され、ぼんやりとしている中でも、なぜだか、不吉な文言だけは聞こえてしまうのがふしぎだった。

 かといって、孤児院に残してきた先生たちや弟妹のことを思えば、〈ごめんなさい、やっぱり帰ります〉なんて言いだせるわけもないのだが。


 イズクは、疲れと恐怖でぼうっとしながら、扉のかんぬきを外した。どこかで、これは夢――魔術師に食べられたところではじき出される、寝覚めの悪い夢――なのかもしれないと思いながら。

 こん、ここん。

 不格好なノックの音が、扉を叩くこぶしが震えていたことをイズクに伝える。途端、イズクの中に、妙な冷静さが戻ってきた。

 扉を叩いてしまったのだ。魔術師がいる部屋の、扉を。


 心臓が跳ね、呼吸が浅くなる。

 イズクは、目だけで周囲を見渡した。なんでもいいから、何かに縋りたかった。目に映るのは、頭上から降り注ぐ光、無人の廊下、ワゴンの上の色とりどりの菓子、それに、見慣れた自分のつま先。

 誰もいないのだ。ここには、自分しかいない。気がついた途端、喉の奥が詰まってしまったように息苦しくなった。

 やっぱり無理だ、できっこない――イズクが後ずさろうとした、そのとき。


 扉が、音もなく開いた。

 

 とうとう、魔術師が現れるのだ。イズクは、その場に固まってしまった。けれども、扉の隙間から魔術師が顔を出すことはなく、扉の裏にも人の姿はなかった。

 扉は、ひとりでに開いたのだ。

 イズクはどうにか悲鳴をこらえ、扉に触れないようにしながら、おそるおそる、部屋の中を覗き込んだ。


 魔術師の部屋は、イズクがこれまで見たことがないほど絢爛だった。

 氷のような敷石――おそらくはとても高価なもの――がぎっしりと敷き詰められた床の上には、靴音を吸い込んでしまいそうなほど分厚い夜空色のじゅうたんが広がっているし、テーブルやソファといった家具それぞれに、細やかな装飾がほどこされているのがわかる。

 入り口の正面、ひとつしかない大窓はカーテンで覆い隠されていたが、壁の所々に埋め込まれた発光石が、部屋の中を心地よく照らし出していた。〈魔術師の部屋〉と言われて、もっととんでもないものを想像していたイズクは、華美ながらも人間の部屋と呼べそうなその様相に、ほっと胸をなでおろした。

 とはいえ、入り口から見える限りでは無人の室内からは、やはり、いつまで待っても声がかからない。


 ――入ってもいいのかな?


 イズクは迷ったが、これから毎日通うだろう場所なのだからためらってはいられないと、思い切ってドア枠をまたいだ。


「失礼します。魔術師様? いない……?」


 ひとりごとのように問いかけながら、夜空色のカーペットにつま先をうずめたところで、イズクはようやく部屋の主を見つけた。


 人影がひとつ、ベッドに身を丸めている。イズクの方に背を向けているせいで顔は見えないが、体つきからして、男だろうか。ベッドを伝い、床に垂れ落ちたまっすぐな髪は、世にも珍しい灰色だ。

 イズクは、不吉な髪色につばを飲みつつ、すぐそばのテーブルに、お菓子でいっぱいの大皿を置いた。皿が机に触れる音にも、男は反応を示さない。

 眠っているのだろうか。好奇心が、そわりとイズクの胸の内をくすぐった。


 ――恐ろしい魔術師のはずなのに、こうしているのを見ると、普通の人みたいだ。どんな顔をしているんだろう?


 イズクはそろりとベッドに近づいて、身を丸める男の横顔を見下ろす。そのとき、灰色に濁った金の瞳が、ぎょろりとイズクを捉えた。

 悲鳴なんか出るはずがない。ひっ、と、笛のような音が出たきりだ。イズクは、弾かれたように身を翻して部屋の外へと逃れ、ドアの表に背中ではりついた。


 背後――部屋の中からは、物音ひとつしない。魔術師に見据えられたときの、心臓が握られたような恐怖……。耳の奥でごうごうとうなる血が、あれが現実であることの何よりの証拠だった。

 鈍くて速い心拍、まなうらに焼きついた灰金色の虹彩。イズクは胸を押さえ、ドアを背にへたりこんだ。

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