音声記録3-5:『俺にもな、好きな森とか……』

 俺にもな、好きな森とか嫌いな森はある。好きなのは落ち葉が乾いてて歩きやすくて、光の多い広葉樹林だ。嫌いなのは、あの惑星ほしの森そのものだった。

 いつも湿ってて霧雨が降ってて、根と下生えと枝とツタを払っても払っても同じ緑の垂れ幕が目の前にある。樹の蜜と健康な葉の甘い香りのかわりに、腐った水と朽ち木の刺激臭が層になって淀んでる陰気な森だ。

 その緑の地獄みたいな樹林を、爺さんは意外にも足早に歩いていった。明け方だったし、まだ森はずいぶん暗かったのにな。前の日の印象とはまるきり違う、迷いのない爺さんの足運びは、苦労して尾行する俺にはちょっとばかし謎に思えたよ――まるで本当に、何かに呼ばれてるみたいでさ。

 例の話を信じてたわけじゃねえ。だけど最初は確かに見知った林道を歩いてたはずが、いつのまにか妙な獣道を進んでたのは気味悪かった。町からそんな遠くまで歩いてきた気はしなかったが、どう森を潜ってきたもんか――気づけば両脇は高い段差で外部の樹林と隔てられてた。

 俺たちは山陰の細道をどこまでも無言で下っていった。頭上にだんだん薄日が差すあいだに、獣道は小川になって、俺らが進む方向へちょろちょろ細く流れてたよ。

 川の上はけっこう見通しがよかったからな。俺は爺さんから離れてたんで、やつが木影で立ち止まってるのに気づかなかった。前方にいきなりあの巨樹が頭を出さなかったら、うっかり鉢合わせてたかもしれん。

 そこはちょっとした盆地になってた。辿ってきた小川以外、三方を段差で囲まれてる。周辺の密な木立が、その樹の本当の大きさを隠してたんだろう。疑いなく、森の主ともいえる樹だったよ。

 俺の胸は、ときめくなんてもんじゃなかったね。永遠に晴れない空に、罪人が救いを求めて手を伸ばすみたいに、立派な樹は枝葉を四方八方に張り巡らせてた。

 一本って言い方が、当てはまるのかどうか。そいつは何本もの支幹しかんが依り合った、化け物じみた見た目をしてたから。外縁から、それぞれ1メートルの太さがありそうな支幹が何本も分け出てる。ぶ厚い苔と地衣類と、枝垂れた寄生草のカーテンが、中心にあるだろう主幹を、魔女の寝巻きみたいに何重にも包み隠してた。

 見るからに伐採は大仕事さ。でも爺さんは一人でやり遂げる気でいるようだった。それはやつが担いでた熱鋸ねつのこからして明らかで、俺のほうは逆に帰る気になってたよ。運搬手段がない以上、爺さんは今度も材を放置する。またあとで盗みにくればいいと考えたのさ。

 そのときタイミングよく爺さんの声が届かなかったら、俺は朝露に湿ったけつを上げて、とうに踵を返してたろう。感極まった感じであいつは、たぶん女の名前を叫んでた。

「ああ、ああ、やっと見つけたよ。私だよ、分かるかい? 戻ってきたんだよ。今日、やっときみを森から連れ出してあげられる――」

 異様な地響きがした。大きな音じゃあなかったが、突然みしみし、ぎしぎしいって足下ぜんぶが揺れ動いたんだ。

 俺はよろけて、踏ん張ろうと足を蹴り出したよ。その爪先が苔のマットをめくりあげて、その下に見えたもんに、俺は反射的に跳び退いてた。根っこが――あの大樹の根が、足下一面に蔓延はびこってた。それだけなら驚かねえ。だが根は、まるで脱皮直前の芋虫みたいに、痙攣的な伸び縮みを繰り返してた。

 地球タイプの植物にしちゃ、ありえねえ動き方さ。思わず両目をこすってると、鋸の激しい音がする。振り向けば爺さんが、周りの状況なんか見えてねえみたいに、恐れげもなく最初の支幹に鋸を入れてたよ。

 返り血で、爺さんはたちまち真っ赤に染まってた。噴き出てくる樹液の量は尋常とは思えねえ。それにも頓着せず、あいつは一心不乱に伐り続けるんだ。あたりにはひどい臭いが充満してた――蜜みたいに甘ったるくて、金臭くもある嫌な臭い。

 風もないのに、大樹は妖しく揺らめいていた。大量の葉が病んだみたいに頭上から散ってくる。熱鋸が唸るたび、樹が嫌がるようにのたうつんだ――鋸に裂かれた傷口から、赤黒い樹液を流しながら。

 俺は帰る機会を失ってた。逃げ出したいが、気持ちは眼前の光景に釘付けだった。そして爺さんが二本目の支幹を伐り倒したとき、偶然そいつが俺の真横へ落ちかかってきてな。衝撃で、俺は気絶しちまってた。

 寝てるあいだも、物音は遠くに聞こえてたと思う。鋸の唸りと倒れていく幹の、耳奥を掻きむしるような悲鳴が……。

 目を開けると夜だったよ。いつもの薄曇りの夜空が真上に、その向こうに朦朧とした月の気配。ありがたいことに、周囲はひっそり静まりかえってた。

 俺は自分の居場所を思い出せず、ぼんやり半身を起こした。森で酔い潰れて、ものすごい悪夢を見たのかと思ってた。だけどそこはまだ悪夢の中心だった。見回すとあたり一面が、赤黒い巨樹の血の海だった。

 転がってた俺も当然、血まみれだ。慌てて飛び起きて、体中から垂れる樹液を気が狂ったみたいにぬぐったよ。悪態をつきながら、視線をあげると変わりはてた巨樹が目の前にある。周りには伐採された支幹が、放射状に何本も転がってて――丸裸になった主幹自体、伐倒ばっとうまであと少しのところまで根元に鋸を入れられていた。

 その瀕死の大樹と向き合って、爺さんはじっと佇んでいた。

 俺はもう、隠れるもなにもねえ。熱に浮かされたみたいに近寄ったよ。でも爺さんは俺なぞ眼中になく、しきりに樹を撫でている。やがてそれが思い違いだと、やつの片手の手斧でわかった。爺さんは樹を撫でてたんじゃない。丁寧に樹皮を剥がしてたんだ。

 炎にも似た銀の杢目もくめが、仄かな月光に悶えてみえた――樹液はほぼ流れきって、皮の剥がれた傷痕に、時々ぷつっと澄んだ鮮血の滴だけが垂れていた。

 憑かれたように身を乗り出して、俺も杢目をよく拝もうとした。ふうとため息を聞いたのは、無意識に自分が漏らしたんだと思ってたよ――今考えりゃあれは俺じゃなく、爺さんでもなかったんだ。

 剥がされて抉れた木肌の奥に、俺たちと向き合うものがあった。それは顔のようだった。いや、ようだった、じゃない。顔だった。穏やかに両目を閉じた若い娘の、蒼白い死に顔面デスマスク……。

 俺は呼吸を忘れた。あまりに生々しかったから。細かい睫毛の一本一本まで、今にも風に震えそうだった――その女の頬をな、爺さんがさも愛おしげに撫でるんだ。節くれた男の指の形に合わせて、眠る仮面の頬が柔らかに沈んだとき、俺はそれが木を削って造った彫刻じゃないと気づいたよ。

「長く、待たせてすまなかった。一緒に逝こう」

 爺さんが手斧を振りかぶる。止める間もなく、渾身の力で打ち込んだ。

 顔しか見えない樹木の娘の、心臓が秘められた胸元へ。一気に鮮血が噴き出した。すごい勢いで。俺は意味不明な喚きをあげ、足をもつれさせて転がった。

 頭上から、すべての葉が命を失って降りしきってきた。仰向けのまま這い逃げて、俺は爺さんの奇妙な姿勢を眺めてたよ。倒れてくる大樹の根元で、あいつは両腕を広げてる。優しく恋人を抱きしめるみたいに、迫る影に呑まれながら……。

 ずっと上のほうで、何かが裂ける音がした。折れた太枝の一本が爺さんの背後に落下する。その枝につかえて、倒れてくる幹はわずかに軌道を変えていた。大きさからすれば奇妙なくらい大樹が静かに倒れ伏すと、あとには風に乱れた葉と木っ端だけが、灰色の月光に舞っていた。

「――ともに、死ぬつもりだったのに」

 静寂が戻ったあと、爺さんの呟きが、影の奥から聞こえてきたよ。

「罰なのか。まだ苦しみが足りないと。しかし私にはもう、悪夢も残されていない。虚無だけだ……」


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