音声記録3-4:『爺さんが初めて女と出会ったのは……』
爺さんが初めて女と出会ったのは、
俺の記憶じゃその商店は今、半壊してツタに覆われた納屋だ。もともと半世紀前からボロい小店だったようだが、当時は店先に無人販売所があって、たまたま爺さんは飲み物を買うんで寄り道した。
爺さんは環境惑星内の建築現場で、土工ボットを管理する仕事に関わってた。その頃の町は建設ラッシュだ。公有林の
「妖精を見たかと思った――店の向こうで小雨に霞む、陰鬱な森の中から、彼女は白く浮き上がるように歩いてきた。二十歳を迎えたばかりの乙女。傘も差さずに、豊かに波打つ金糸の髪を、しっとり濡れるままに任せていた。見惚れる私へ、不思議そうに微笑んできた森の精に、私は一目で恋に落ちたよ」
仕事は一区切りついてたが、爺さんは何かと理由をつけて町での滞在を長く延ばした。一度は惑星から出ても、小さな問題を見つけちゃあ必要だと言ってしげしげ通った。いい加減に上司の目が厳しくなったころ、爺さんは決断したそうだ。彼女を配偶者に迎えようって。相手のほうも同意したようだ。
「しかし問題は、彼女の父親だった。彼は偏屈で知られた植物学者で、研究対象の公有林が、伐採地となることに徹底的に反対していた」
娘が町中の商店街へ出向けず、北端の小店で生活の用をすませていたのもそのせいだ。伐採に約束された好景気に賭ける町民は、親子を鼻つまみ者として扱ってたんだな。それで二人は森の奥、研究所を兼ねた手製の自宅に隠れるように住んでいた。
その日も、灰色に小雨のそぼ降る、肌寒い午後だったらしい。
「彼女は道もない森の中を、若い牝鹿のように身軽に進んだ。私のほうはぶざまに下生えをかき分けながら歩き、家に辿りつく頃にはせっかく仕立てた上等のスーツが、見る影もなく泥だらけになっていたよ」
小さな沼のほとりに、研究所はあった。手作りの家と聞いてたから爺さんは驚いたようだ。
「田舎の町の噂など、当てにならないと思ったものだ――迎え入れてくれた彼女の父親も、身ぎれいで聡明な紳士に思えた。私は自分のひどい格好を詫び、誠心誠意、彼に頼んだよ。彼女と結ばれるのを許してほしいと」
家は予想より現代的だったが、原始の森に囲まれた一軒家なのは変わりねえ。爺さんは自分の恋人へ、愛情とはまた別に、使命感みたいなもんも持ってたらしい。ありがちな話だ。彼女を森から解き放って、町の迫害から守らなきゃってな。
「母親は、彼女が幼いころ亡くなったと聞いていた。父親は娘にそれなりの教育を施していたが、身の回りから放そうとせず、外に出そうとはしていなかった。私は系外から来た人間だ。銀河社会の話をするうちに、彼女も父親のそばを離れ、森の外へ、惑星の外の世界を訪れたいと語るようになっていたんだよ」
父親は、爺さんの言葉を落ち着いて聞いていた。――そんなふうに見えた。そして話が一区切りすると、娘に言っておきたいことがあるからと、席を外して二人で研究所の奥へ消えた。
爺さんは待った。十分。二十分。五十分。かなりの時間を。
「いくらなんでも遅すぎた。外では陽が傾き、森はもう夜ほどに闇に塗りつぶされていた。思い切って声をかけ、薄暗い廊下を覗いたよ。返答はなく、いつのまにか暖房器具も停止していて、なんとなく肌寒かった。
手洗いに立つふりを装って、私は家を奥へと進んだ。灰色の廊下を歩いていくと、角を曲がった先に鋼鉄製の頑丈な扉があってね。四角い覗き窓の向こうに、なにか植物の樹影が見えた気がした。実験室だ。私はノックをし、未施錠のレバーを押し上げた。声をかけながら扉を開いたよ」
広い空間だったそうだ。天井も高く、壁沿いに時々ニュースで見かけるような、いかにも科学研究所っぽい実験台が並んでた。床と壁の高い位置にコードと配管が菌糸みたいに這い延びてて、それは部屋中央にいくつも並んだ円柱型のタンクに集中してた。
「タンクの一つに目を留めて、私は心臓を止めかけた。薄緑に透きとおった液体に満ちた水槽の中に、まるで水草のように金髪を揺らめかせた彼女の肢体が浮かんでいた。喉まで出かかった悲鳴が詰まったのは、死んでみえた彼女がゆっくり瞬きしたからだ。厚いガラスの向こう側で、唇だけで伝えてきたよ――殺して、と」
爺さんは叫びながら装置の制御盤を探した。パイプ椅子をタンクに打ちつけ、無意味にガラスを拳で叩いた。
「彼女の柔らかな頬に、なにかすじに似た模様が浮き出していた。血管かと思ったが、それは生き物のように
花のように華奢な複葉を開き、鮮血を吸った朱色から青緑に色を変える。気づくと彼女の全身から芽が噴き出ていた。薄い服の生地を破り、陶磁器のような細い指先から、肩から、金髪の合間から、緑の若枝が旺盛に伸び出してゆく。脚からは白く透きとおった繊細な根が溢れ出て、互いに編み込まれながら生きたドレスを広げていった。
不思議な光景だったよ――人が植物に変わってゆくんだ。恐ろしかったが、美しくもあった。私が何もできず、呆けて見る間に彼女は全身を
喘ぎながら爺さんは後ずさり、かすかな呻きを背後に聞いた。扉脇に倒れていた父親は、腹に割れた実験器具を突き刺していたが、死に切れてはいなかった。抱え起こすと、そいつは口から赤黒い血と呪いを吐きだして事切れたそうだ。
「お前の母親も、私を見捨てた。世間が私を見捨てたあとに。お前も私を捨ててゆくのか。お前も……」
森の奥は隔絶されてて、どこにも電波は繋がらねえ。爺さんは町に戻ろうと駆け、あっというまに遭難したらしい。十日もかかって半死半生で脱出したあと、森に捜索隊が入ったが、五度の捜索で見つかったのは爺さんの脱げた片靴だけだった。
「私は、しばらく町に留まるよう強制された。だが私の他に目撃者はなく、上空からの透視捜査でも研究所すら見つからなかったために捜索は中止された。私は、見たもののすべてを人に言いはしなかったよ。ただ、頭の狂った父親が娘を殺すのを見た、とだけ。それで私は
私は遠い星系に逃げた。彼女は死んだと思い込んで。あれは異星の奇怪な森が見せた、麻薬的な悪夢だったのだと」
「――でも、あんたは戻ってきた。そうだろ?」
俺はグラスの氷を掻き回しながら、おざなりに聞いたよ。あんまり馬鹿馬鹿しい話なんで、白けた声にならんよう注意しなけりゃならなかった。
爺さんはなにも気づかず――じゃなきゃ慣れっこだったのか、変わらず水のグラスを握りしめながらぶつぶつ続けてた。
「フォルモサスのステーションで、あの樹のニュースを偶然見たんだ。私には、彼女だとすぐにわかった。赤い血を流す、未知の合成植物。呼ばれているんだよ――頼まれたのに、私は彼女を見捨てて逃げてしまったのだから。殺してと頼まれたのに……。
この惑星へ戻り、研究所の跡を探したが、まだ見つからない。ただ、あの日見た彼女と似た樹木は何本か伐り倒した。そこに彼女はいなかったが――私が逃げていた五十年で、育ったんだな。伐った大樹の形は、まさに彼女のすばらしい腕や脚や、指の形をしていたよ。私の愛した森の妖精――しかし、心臓がないんだ。心臓が見つからない。
だがそれも、もう少しだと思う。刑務所に入る前、伐った右脚の近くにな、見覚えのある小川を見つけたから、たぶん――」
こんな話を聞かされて、何言えっていうんだ?
爺さんはそれっきり黙っちまったし。いつのまにか奥から出てきて、何食わぬ顔で話を盗み聞いてたバーテンと俺は視線を交わした。ここにも頭のいかれちまった、憐れな廃人がいるってな。
爺さんの技術を盗むのは、とうに諦めてたよ。変に絡まれんうちに退散する気だったが、どうせ無一文なんだろう。親切心で、あと一杯分の金だけ手前に押し出してやったんだが、いらん気遣いだったらしい。爺さんは俺より先に立ち上がってた。
「最後に、誰かに聞いておいてもらいたいと、思っていたんだ」
ありがとう。ぽつりと呟いて、金も受けずに去ってった。
「おかしな野郎だったな」
残った俺は狐につままれた気分さ。バーテンに同意を求めたが、あいつは急に自分の職務を思い出して、皮肉っぽく肩をすくめて奥へ引っ込みやがった。それで俺はムカッときてね――ひょっとして、うまいこと煙に巻かれたんじゃねえかとな。
爺さんは何度も自分の獲物をチンピラに横取りされてる。その腹いせに、やつらと同類に見えた俺を馬鹿話でからかったんじゃねえかって。
見てろ、と思ったさ。酒を切り上げて店を出た。案の定、爺さんはまだその辺をよたついてる。俺は後をつけ、やつが町の隅の納屋に潜り込むのを見届けた。
いったんねぐらへ帰って、森歩き用の簡単な装備を整えたらすぐ戻ったよ。貸し倉庫の陰で雨除けをかぶって眠り、爺さんが動き出すのを待った。
完全に夜が明けきる前、納屋の戸が軋む音がした。腐ったミルクみたいな朝靄の中、北へ歩き出した爺さんを、俺は距離をあけて慎重につけていった。
ジジイは次の大樹を伐りにいく。今度、そいつをいただくのは俺だと心に決めていた。
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