0であり1である―重ね合わせの状態『キュービット』
「アシア!」
『エメ!』
五番機の再起動を確認した瞬間、二人の意思は一つになった。
「アシアの力を使って五番機と強制連携。追加装甲を強制パージ。五番機とのリアルタイムネットワーク構築。同期率99.9999999999%――トゥエルブナイン到達。こちらで機体のサポートを行います」
アシアのエメが告げる。
「アストライア。破損したカメラの補助を。過去映像からリアルタイムで現在情報を予測再現して。解像度は低くていい」
『承知いたしました』
「にゃん汰、アキ。センサーと機体状態の最適化を補助」
姉妹もすでに機体に対しアクセスをおこなっている。
「はい! 電磁装甲を停止。装甲筋肉に回し運動性能を確保します」
にゃん汰が五番機の機体をモニタに映し出し、装甲筋肉内の金属水素の流れの管理を開始した。
「わかりました! 各センサーの調整に入ります」
アキはセンサーの調整を開始している。
二人は内心焦燥感を抱いている。エメのほうがほんの僅かに反応が早かった。
本来人間であるはずのエメが、テレマAIを搭載している彼女たちよりも。
コウと五番機を観察し、常に何ができるか模索していたのだろう。
一秒かそこらだろう。だが二人にとっては永遠にも感じるその一瞬を挽回不能の遅れと受け取った。なんとしてもコウの力にならなければいけない。
『五番機のリアクター、復元確認。プロメテウスの火の潜在能力、あれは……』
「あれが五番機のプロメテウスの火の機能。
アシアのエメが答える。発動した機能を確認してようやく解析できる、秘められた能力だ。
『リアクターやパワーパックの亀裂がなくなっている? 自己修復機能でしょうか』
「アクシオンを用い記憶していた物質の時間軸データをキュービットに適用することによって、
『それは…… 過去の事例もない機能です。
「そういうこと。粒子が相関し
『戦い続けるとは?』
「戦闘意思に呼応して発動し、乗り手が死んでも目的が達成されるまで起き上がる。立ち上がろうとする。それが『不撓不屈』の本質。あれはヘパイトスなんかじゃない。アレスとか別の何かが基幹AIかと思わせる闘争本能。異様な概念がフェンネルOSを侵食している。いつかの暴走もパイロット候補の意思に感応してこの能力が発動したのかも」
『コウが死んでも、起き上がり続ける? シルエットが? パイロットがいない状態で動くということはフェンネルOSにとって最大の禁忌のはず』
アストライアも絶句する。
「偶然とはいえその禁忌に触れずに覆す概念が仕込まれていたとみるべき。五番機。いいえ、ラニウスを構築したのは兵衛か。いったいどんな概念を仕込んだの? 神ならともかく死からの黄泉還りは人にとって最大の禁忌。死んで神になった英雄はいる。非業の死を遂げ戦場に現れる悪鬼になった伝説もある。でもこれは死してなお戦いを欲した存在の概念。そんな伝承が……人物がいるというの?」
アシアのエメさえ戦慄を覚える機能の数々。
不撓不屈という単語で収まるものではない。
「代償も想像以上に大きい。当然か。フェンネルOSはオーバーロードを起こして戦闘能力が大きく低下している。パイロットへの感応度が低下中」
エメはその間にも目にも留まらぬスピードで、物理キーボードを叩き続ける。
「五番機のフェンネルOSに量子的エラーの大量発生を確認。自然回復には時間がかかる。こちらで対処します。スタビライザー
アシアのエメは、直接五番機のフェンネルOSに干渉を行おうとしていた。
「プロメテウスの火を応用した仮想ブロッホ球空間での作業に移行します。アストライアの処理能力と五番機のフェンネルOSならエンタングルメントアシストスタビライザーフォーマリズムによって量子エラーの訂正コードを作れるはず」
Entanglement assistedstabilizer formalism――量子通信チャネル上で量子データを伝送する前に、送信者と受信者間で共有される量子もつれを用い量子情報を保護する量子通信技術の一つ。この方式はデータの送信者が量子エラー訂正プロパティを利用することが可能であり、量子エラー訂正コードを形成可能になる。アシアはアストライア内で五番機のMCS内に生じた量子エラーの訂正を試みるのだ。
『待ちなさい。仮想ブロッホ球空間での作業は危険です。あなたたちの魂まで下手をすると焼き付きます』
ハード管理をアシアが並列作業で処理しているのだ。
エメの指はいまだ高速でタイピングを行っている。
「構いません。私たちの意思は一つ。十秒、頼みましたアストライア」
アシアのエメの瞳は金色に輝き、そして虚ろになっていった。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
「ここは?」
球体の底にエメはいた。
足下には猫が頭をすり寄せている。ロシアンブルーだ。
「師匠まで?」
「この姿で君に触れるのは千年ぶりだね」
師匠はにゃあと鳴いた。思わずエメが抱きしめる。千年ぶりのぬくもりだ。
『ここがキュービットを可視化した仮想ブロッホ球空間。五番機のフェンネルOS、量子プログラムのなかを単純に視覚化したといったらいいかな』
アシアが虚空から現れた。
『
エメは頷いた。彼女の頭脳の一部はフェンネルOSの集積回路と同等のものだ。
『五番機のフェンネルOSは物理現象を伴う過負荷による量子的エラー――演算処理に使う数値が収縮されてキュービットとして観測できなくなっている。一つの固有状態に収縮されている状態なの。
アシアのいう波動関数はシュレーディンガー方程式――量子力学の基礎方程式だ。
師匠が浮かない顔をする。今ちょうど、かの有名なシュレーディンガーの猫と似たような状態だ。死んでいるか生きているか不明な状態であり、死が観測されているにも関わらずエメのなかで意思をもって生きている。
「その例えは私にとってきまずいね。アシア」
「私たちに手伝えることはあるの?」
エメが素朴な疑問を発する。シュレーディンガー方程式はさすがに理解しているとは言い難い。
『視覚化した仮想空間にしているから安心してね。ようはエメと師匠にはもぐら叩きをしてもらうことになる』
「おやすいご用さ」
「うん。それなら私も!」
『あなたたちの意識はアト秒単位まで引き上げている。これからが勝負よ』
アト秒。光の動く速度まで知覚できるようになると言われている領域だ。
「十秒だね。何をすればいいの?」
『この球体の中。点滅しているものがあるでしょ。その点滅しているブロックが壊れて収縮されたデータ領域。それを触れるだけでいい。だから二人の力を借りるの。あとは私が観測して複素数のキュービット状態に戻す。量子的エラーに対し量子コヒーレンスの維持と量子デコヒーレンスの軽減と管理の実行など処理に専念することができるの』
「デフラグみたいだな」
師匠はコウのいた時代のHDDを思い出していた。デフラグは空き容量を作るために行われるがたまにディスク自体を破損してしまう。その場合システム全体に致命的なエラーが起きる場合があるのだ。
『あれよりは安全よ。断片化したデータの修復中にディスクが破損したらシステム全体に影響がでるけど、これはあくまでキュービットの重ね合わせの状態を観測するだけだから。あとは周囲の情報にあわせて訂正されていくわ』
「私たちは量子的エラーを見つけ出し取り出す、君の目となり手となるわけだね。了解だ」
「やろう。師匠」
「うむ。助けよう。コウと五番機を」
二人は無心で作業を開始。
量子的エラーと思われる断片を探し出しては触れていく。
その作業は無限に続くと思われるような途方もない時間に感じられる。
量子的エラーのブロックをもぐら叩きのようによつんばいになって潰していく。
その速度もどんどん速まる。
隣で師匠が量子的エラーのブロックを肉球でポンポンと叩いていた。
「誰かいるよね」
ふと人の気配がするのだ。その気配は優しく、エメの見落としをサポートしたり、手が届かない場所を潰してくれたりしている。
「いるね」
師匠も同様に人の気配を感じていたようだ。そして彼を手助けしてくれている。
「0と1が同時に存在する領域だ。何か私たちを……いやコウを助けたい者たちがいるかもしれない」
「うん」
今魂の在処などという禅問答をする時間はない。己の作業に集中するだけだ。
その間にも遠くでボソボソと聞こえる男女の声のようなものが聞こえてくる。
アシアもその存在は感じていた。なぜならば、仮想の球状空間の外からエラーの修復要請がきているのだ。
五番機の中にそんな存在はいない。彼女が作った空間に引き寄せられた何か、としか言えない。
この空間の維持と、量子的エラーの修正で手一杯でその正体を確認するまでには至らない。どんな存在であろうと味方なのはすぐに理解できたからだ。
『もうすぐ十秒。上出来だわ。こっちへ』
「あと少しだから! ちょっとだけ……」
「エメ! 無茶だ!」
エメが必死に叫び返す。あと本当にもう少しなのだ。
師匠がエメを叱責しつつも、同様に作業を続けている。
老いぼれ猫め。久しぶりだ! お前はまだこちらにきちゃだめだ。やることがあるだろう?
師匠がぽんとアシアの方向へ弾き飛ばされた。見覚えがあるその姿は――
「君は!」
弾き飛ばされた師匠を振り返るエメ。
そのエメも突き飛ばされた。
あの子をよろしくねエメちゃん。朴念仁だから大変よ? あとはこっちでやっておくわ。
「貴女は! 待って!」
エメの叫びも空しく響いた。
薄れゆく意識のなかで二人並んでいる男女を、確かに彼女は視たのだ。
目を開くとアストライアの戦闘指揮所内。いつもの司令席だった。
「アシア。あの二人は?」
『二人いたのね。私ではわからなかったの』
アシアは何かが存在していたことは知っているがその正体までは理解できなかった。
『仮想ブロッホ球空間消失。五番機のフェンネルOS修復を終了。完全な状態です』
アストライアが告げる。
「そっか。よかった。でもまだ、コウは戦っている。アシア、また融合を」
『うん!』
アシアのエメが、再び作業に向かう。先ほどの空間の履歴が表示される。
アシアとエメの記憶が共有される。その異常な現象の正体。
目を閉じ、涙がでそうなのをぐっと堪える。
「ありがとうございました」
誰にも聞こえないようそっと呟く。五番機のフェンネルOSの修復は確かに完了していた。
仮想ブロッホ球空間での彼女たちの作業記録は9.98秒まで。そして仮想ブロッホ球空間での作業は10.82秒に完了し消失。
確かに虚空の空間の作業記録が残っていたのだった。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
剣を振り抜き、五番機は姿勢を立て直す。
五番機はそのまま加速し、大きく距離を離す。
「浅かったか」
コウは戦果に満足してはいないようだ。
「装甲筋肉に金属水素が優先されている?」
『アストライアより強制干渉。当機のサポートを行っています』
端末に映るカラー。アシア、アストライア、エメ、アキ、にゃん汰とわかる識別信号がリアルタイムで干渉してきている。
間違いなく五番機の復旧に全力を、いや全力以上の力を出しているのだろう。
『システムエラー回復しました。同調率92%達成。近接戦闘に特化する状態を優先。運動性能83%の状態です』
「あのダメージからそこまで回復か。十分だ」
五番機の声が力強い。一人と一機で戦乱のアシアを旅し、ずっとの相棒だ。
これだけはコルバスに負けるはずのないもの。
待て。
自分の言葉に疑問を持つ。
コウの強み。コルバスの弱点に気付いたのだ。
「確かにリアクターは破壊したはずだ。どんな手品を使ったのやら」
「さてな」
とぼけてみせるコウ。
「お前は昔からたまにとんでもない手を打つな」
カストルが呆れる。
コウは笑みを浮かべた。事実に気付いたことで、笑い返すぐらいのゆとりはできた。
コウがやれること。五番機がやれること。その事実に気付いた今、カストルに重ねていた修司への畏れは消し飛んでいた。
「まがい物の機体にまがい物の体。いい加減潮時だ。石ころに戻れカストル」
「そうはいっても貴様の性格も全ての剣も知り抜いているぞ? こちらはな!」
その言葉にコウの笑みが深くなる。
カストルはその笑みが気に入らなかった。
「何故笑う? そんな余裕がどこにある?」
「違和感に気付いたんだよ」
コウは笑みを崩さない。それはさらにカストルを苛立たせた。
「修司さんならあそこで突きはない。その肉体と知識をお前が使いこなせていない」
修司なら両腕を狙い無力化を目指すか、コウの確保を狙うなら体当たりして姿勢を崩してくるだろう。
突きはない。だからこそコウは驚いた。そして相手が修司ではないという確信めいた安堵さえある。そこに若干だが心の余裕まで出来た。
突きでのリアクターのみ破壊。見事ではあったが金翅鳥王剣の上段からでは無理がある。
圧倒的な自身の能力を誇示したい故に突き。それは花のこころには遠いもの。
修司の姿をした誰か。目の前にいる男はカストルという
「ほざけ!」
カストルの心に焦燥感が生じる。
結月の今際の際の、あの台詞が呪いのように思い出された。
カストル。あの人ならね。そこは飛込胴よ?
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2022/08/16
エンタングルメントアシストスタビライザーフォーマリズムって何?! 呪文か!
と知人に問い合わせを受け説明追加。よりSFっぽくなりました?!
欄外用語解説
【量子ビット】
4量子ビット配列による量子コンピューティングというデルフト工科大学の量子ビット論文を参考に修正しました。
【ntanglement assistedstabilizer formalism】
量子通信の理論において量子もつれ支援安定化形式は,量子通信チャネル上を介して量子データを伝送する前に送信者と受信者間で共有される量子もつれの助けを借りて量子情報を保護する方法です。
これは共有エンタングルメント(Brun et al.2006)を含めることにより,標準安定化器形式を拡張します。
もつれ支援安定化符号の利点は,送信者が任意のPauli演算子集合の誤り訂正特性を利用できることです。
送信者のバウリ演算子は必ずしも送信者のアーベル部分群を形成する必要はありません(送信者のパウリ演算子はn{\displaystyle n}n qubits上のパウリグループΠn{\displaystyle\Pi^{n}}\Pi^{{n}}のアーベルサブグループを必ずしも形成する必要はありません)。
送信者は大域安定化器がアーベル型であり,従って有効な量子誤り訂正符号を形成するように有効な量子エラー訂正コードを形成することができます。
※フレーバーテキストだと思って下されば幸いですが、実際にある用語です。
より正確な記述を英語Wikipedia参照にして抜粋します。興味があったら調べてみてくださいね!
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