第17話:土曜日その2「荒野に呼ばわる声」

 黄昏時だった。

 港湾に面した山下公園の、夕闇迫るその雑踏を歩いていた。

 人が多い、たぶん土曜日だからだろう。


 東側に開けた海は、すでに夜の闇に呑まれて、行き交う船舶の灯り、或いは南側に広がる工業地帯の、その無数の照明だけが、漆黒の闇に白く浮かび上がる。


 北側に目を転ずると、みなとみらいの非現実的、非日常的な夜景が、見る者の目を楽しませ、或いは終末を暗示する黙示録のように、夜空に浮かび、人類に向かって何かを警告する。


 家族連れや観光客は駅の方へと流れて行くが、男女のペアや友達と来ている若者は、ベンチや芝生の上など、そこかしこに思い思いに座り、夜景を眺めたり、小さな声で話をしたりしている。


 オレはズボンのポケットに両手を突っ込んで、夜景や、道行く人を眺めながら、目的も無く、ただブラブラと歩いていた。夜の街を歩くなんてホント久し振りだったが、退屈だったし、何となく身の置き所の無い気分だった。だが家に帰るにはまだ早過ぎる時間だったし、一人で飲み屋なんか行きたくなかった。


 誰かが怒鳴っている声が聞こえた。嗄れ、ガラガラに荒れた、オッサンの声だった。面白そうだ、退屈だった、ケンカかも知れない。オレは足を向ける。


 ギターの音がした、アコギの生音、やや力まかせの、乱暴な、ぞんざいな耳触り。オレと同年代の不惑を過ぎたオッサンが、芝生と歩道の間の縁石に直に座り込み、ギターを抱え、大声で歌っている。


 なあんだ、


 じゃない、

 ケンカより、ずっと面白そうだ。


 オレは少し離れたところから、その弾き語りのオッサンを見る。

 黒っぽい色のカーゴパンツに、同じく黒っぽい色のトレッキングシューズを履き、その脚であぐらを組んで、地べたに直に座り込んでいる。同じく黒っぽいTシャツに赤い、綿の長袖シャツを羽織り、頭には白いタオルを巻いている。ファッションとかビジュアル性とかは完全に考慮から外された、何だろう、生活実感を伴った自己実現追求型の、リアルで真剣な感じの「弾き語り」だった。


 いい歳した四十代男性が、目をきつく閉じ、大きく口を開けて、声を震わせ、或いは振り絞る様子は、リアルな様でいて、しかし非現実的、というか、鬼気迫る雰囲気があった。


 ――アタマがオカシイんじゃないか?


 とも思ったが、一方で、病気や、或る種の障害とかではない、とも感じた。ヤケクソでがなり立てているにしては(逆だと感じるかも知れないが)、声が大き過ぎるのだ。強い意志で、公共の場で、何かを訴求したくて、歌っているのだ。彼は「表現者」に違いなかった、かなりハタ迷惑ではあるにせよ。


 ケンカより、ずっと面白そうだ、

 というか、

 逆にケンカだよ、これ、相手は世の中全体、

 なんて思ったりした。ひょっとしてケツ青すぎ?いやオレがだけど、


 洋楽だった。オッサンなのに意外、こんなふうな、歌。


 Yes I did,I shot her!

 You know I caught her messin' round,messin' round town……

 Yes I did,I shot her!

 You know I caught her messin' round,messin' round town……


 かなり激しい感じの歌。

 ロックなムードなんだけど、それをカントリーブルースっぽい、掠れたガラガラ声で乱暴に歌い上げる。イライラしていて、……爆発寸前な感じ、……そして、


 So I gave her the gun,I shot her!!!


 カミナリが落ちた感じ。何処かヒステリックでカン高い、ブチ切れたオッサンの胴間声、破裂音、耳が痛い、


 ――そうだ、あの女に弾丸をブチ込んでやったんだ、オレが銃で撃った!!!


 そのオッサンの痩せた横顔は、反抗と怒りの色を帯び、驚く通行人のことなんか「知ったこっちゃねえよ」と言いたげに、イライラと目蓋を伏せる。


 そして、乱暴なコードストロークで激しくギターを掻き鳴らす間奏のあと、


 I'm goin' way down south,

 Way down to Mexico way!

 I'm goin' way down south,

 Way down to Mexico way!So I can be free!!!


 ――この道を下って、メキシコに行くんだ!オレは自由だ!!!


 声が掠れて完全に裏がえる、でも笑っている声、気が狂ったのか、と一瞬思う。狂気の中でしか、救いなど、見出すことはできない、とでも言いたいのか?


 Ain't no hangman gonna,

 Gonna tie a rope around me!

 Ain't no hangman gonna,

 Gonna tie a rope around me!Good by everybody!!!


 ――死刑執行人だろうが誰だろうが、オレの体にロープを掛ける事などできない!じゃあなオマエラ!!!


 強くて、真っ直ぐな声、最大音量。オペラ歌手のような、強く、長く、抑揚の効いた太い声。高らかに自由を宣言するような、


 でもきっと、本当は神への祈りの声。無駄だと分かっている、無理だと知っている、でも祈っている間は、きっと永遠なんだと思う。永遠に達成され続ける。うまく言えない、……違うかな?


 Hey Joe where you going with that gun in your hand,

 Hey Joe where you going with that gun in your hand,……


 ――ヘイ、ジョー、何処へ行くんだい?銃なんか持ってさ、いったい何しようって言うんだい?銃なんか握りしめてさ、……


 歌は最初の問い掛けに戻り、くたびれて、物哀しい、静かな歌声で終わった。


 弾き語りのオッサンは一曲終わるとすぐに、左手でペグを、グリグリ無造作に回して弦のチューニングを変え出した。チューナーは、どうやら使わないらしい。


 拍手は起こらない。それが当たり前のようだった。オッサンはそれに慣れていて、時間的に変な間を空けたりせず、次の曲の準備をする。やや痩せた体躯を屈め、仏頂面で、弦を弾く音に耳を澄ませる。


 特に人だかりは出来て無かったが、周囲には何人かが立ち止まっていて、例えば真横の少し離れた位置だとか、後ろの芝生に腰を下ろして、だとか、オレのように一見関係ないような離れた位置から、とか、そのオッサンの歌を聴いていた、というか見ていた。弾き語りが中断している短い時間の内に、何人かがその場を立ち去る。


 正面に立つ者はいなかったし、まして声を掛ける者などいなかった。オレはその曲を聴いたことがあったが、昔の曲だし、しかも洋楽だ、今時の若い人は多分知らないだろう。それに、そのオッサンの、ギターを掻き鳴らして、しかも声を枯らして歌う、という行為そのものが、あまりにヤバ過ぎた。


 彼は間違い無く、完全に社会常識の範囲外、アウトロー、よりもっと危険な存在、アウトサイダー、だった。見栄も、大人としての体裁も、社会的なルールや人間関係さえも、彼を束縛したり躊躇わせたりすることは不可能に違いなかった。


 オレは痩せこけたオッサンの、その地べたに直接座り込む姿を、呆然と見る。


 オレだって世の中を相手に日々戦っているつもりだったが、結局のところ、世間体を気にして、周囲の目に怯えて、自分の胸中を満たす倒錯的な何かが露見することを極度に怖れる、卑しくて弱い、未熟な人間に過ぎなかった。


 そういう人間じゃなかった。用も無いのに人に話し掛けたりすることはなかった。しかし気が付くと、そのオッサンの姿を視界の中心に捉えながら、オレは足を運んでいた。


「こんばんは」


 声を掛ける、少し緊張する。


「ああ、どうも、こんばんは」


 意外にも、ごく普通の返事が返ってくる。愛想笑い、まで行かないが、機嫌良くペコリと軽く頭を下げる。


 さて、この時点で、もう既にこれ以上話すことが無いことに、オレは思い至った。興味はあった。しかし初対面の人にいきなりあれこれ訊く訳には行かない。


「ギター、上手いですね、……えっと、今の曲、聴いたことはあるんですけど、誰の、でしたっけ?」


 素朴な疑問を投げ掛けて見ることにした。


「ああ、ジミ・ヘンの、Hey Joe ですよ、洋楽、好きなんですか?」


 少し掠れた声で、逆に聞き返される。


「好き、というか、まあ、人並みにです」


 と答えて、それから、オレは胸の中を占領している気持ちを、とりあえずは伝えてしまうことにした。


「スゴイ歌でした、迫力あって、びっくりしました」


「あー、いやいや、でも、ありがとうございます」


 タオルを巻いている額の辺りに手を当てて、オッサンは少し照れくさそうに言う。その笑顔には、やや気弱そうな性格が垣間見える。


「お名前、いや、何て言う名前で活動しているんですか?」


 訊いてみた、知りたかった。そしてオッサンは答えた。そしてその答えに、オレは擬然となった。


「荒野に呼ばわる声」


 だって、

 それは、

 聖書に出てくる「預言者」の呼び名だった。







































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