第16話:土曜日その1「隣のテーブル席に男の子が一人座っていた」

「社長っ!なにやってるんですか?」

 西久保さんに怒鳴られた。仲間から怒鳴られるのは、起業してから初めてのことだ。でも、まあ、無理もない。一時的にではあるにせよ、マスターキーを無くしたのだから。


 オレ達「防災屋」にとって、最もやってはいけない忌むべき失敗ミスは、何と言っても、防火シャッターや防火戸を人員配置無しに、遠隔で、意図せずして起動させてしまうことだ。これはもう「失敗ミス」では無い。「インシデント」、事故だ。


 それに次いでヤバイ失敗ミスが、この「マスターキーを失くす」だ。


 大抵の建物にはこの、当該建物にあるすべてのドアを開錠出来る鍵「マスターキー」があるが、この鍵を貸して貰えるというのは、お客様からの「信用のあかし」である、と言える。そしてもしも紛失してしまった場合には、その建物に設置されているすべてのドアの錠前を、防犯上の観点から、即刻交換する必要が生じる。全数だ。


「ああ、あったあった、すみません西久保さん、心配掛けて」

 軽自動車サンバーの後部ハッチのところに造作してある棚の上に置いてあった。腰道具にブラ下げている道具類を点検用から工事用に付け替えようとして、キーリールからマスター鍵を一旦外してそこに置いたのだ。こんなとこに置いてなんだか忘れそうだな、とは思っていたが、やっぱり忘れた。繰り返すが、絶対にやってはならないミス、100%許されないウッカリだ。

「社長」

 以外にも少し優しげな表情で西久保さんは告げる。

「今日はもう帰って、少し休んだらどうですか?」

 表情は優しいが、言っていることは辛辣だ。危なくて任せられない、もう帰れ、と言われている。社長はオレで、オレが西久保さんに「任せて」いる訳だが、……でもまあしょうがないか、マスター鍵を失くすなんて、常軌を逸している、マトモじゃない。

「ここはモトコと二人で大丈夫なんで、車も2台で来てるし」

「すみません、任せます」

 オレは軽自動車サンバーで現場を後にした。


 まだ明るい日中に事務所に戻ってくるなんて久し振り過ぎて、不安になる。

 薄暗い事務所、少しだけタバコ臭い、やや散らかった事務所。

 顧客管理用のファイルを納める大きな書棚と、事務デスクの上と、プリンター複合機のまわりだけはキレイに片付けられている。

 機能優先、処理速度スピード優先の事務所。

 他の事はあまり考えられてない。

 考える時間的ゆとりが無いのだ。

 しかし今、事務所の中の時間は静止したまま動かない。

 静まり返ったまま動かない。

 不思議な気分。

 あまりに不思議すぎて、まるで醒めない悪夢のようだ。


 オレの事務デスク。

 他の従業員用のデスクの2倍の広さに拡張されたオレの事務デスク。

 その上に処理していないファイルや資料が山のように積まれている。

 机の上から溢れそうだし、事実、書類が何枚か床にこぼれ落ちている。

 こんなこと初めてだ。

 こんなに処理すべき書類を貯めたことなど無い。

 まあしょうがないか、そうも思う。

 毎日、アクセル全開のフルスピードで書類やメールや見積りや情報を処理し、深夜まで懸かってやっとの思いで机の上をキレイにカタして自宅に引き上げていたのだ。夜間工事などで書類の処理が一日出来ないと、それだけで机の上が結構いっぱいになっていた訳だから、一週間でこれなら少ない方と言わねばならない。


 事務所の奥の流し台のところに行く。

 冷蔵庫から缶コーヒーを取り出し、プルタブを片手で開ける。

 香りの無い、苦さだけがある黒い液体を喉に流し込む。

 不味まずい。

 ガスコンロの上、換気扇の前にタバコが置いてあった。

 echo と書いてある、西久保さんのだろう。

 オレは箱を振ってタバコを1本咥えると、隣に置いてあった百円ライターで火を点ける。

 換気扇を回して、ゆっくりと、細く、煙を吐く。

 目が回る、視界が白く霞む、まるで昔の、映りの悪いテレビを見ているようだ。

 あーあ、せっかく止めてたのに、そう思う。

 台無しだ。

 でも、もうどうでもいい、そんな気分だった。

 気が付くともう、タバコが短くなっている、フィルターぎりぎりまで燃え尽きている。

 オレは灰皿の底にタバコの火を押し付ける。

 止めを刺すように、完全に死ぬのを待つように、押し付け続ける。

 指を離して、左手で持っていた缶コーヒーを口に含んだ。

 不味まずい。

 オレはため息をひとつ吐き、換気扇に向かって呟いて見る。

 さて、どうするか?


 夕方の雑踏を歩く。

 自宅にはまだ帰りたくなかった。

 こんなに早く帰ったことなど無かったし、だいいち帰ったって、いったい何したらいいのか分からない。嫁さんにいろいろ詮索されるのも気が重かった。

 スタジアムから港の方へ続く大きな通りの、幅の広い歩道を歩く。

 銀杏並木が青々と葉を茂らせて、しかし今は夕空とのコントラストで、黒く複雑な輪郭を空に刻んでいる。

 歩道にテーブルを置いたオープンテラスの喫茶店があった。カフェなんて、こっ恥ずかしくて言えるか。久し振りに車を使わずに徒歩で移動したせいで、少し空腹を感じていたし、何か飲みたかった。


 夕食前の時間で、店は空いていた。

 店の中のカウンターでチリドックとアイスコーヒーを買い、歩道に面したテラス席の、いている一角に腰を下ろす。アイスコーヒーをストローで啜り、すぐにストローと透明な上フタを外し、プラスチックの容れ物のフチに直接口をつける。ストローで吸うなんて子供みたいで嫌だったのだ。学校を卒義して社会に出てから仕事に追われ続けた。とんだ時代錯誤の頑固オヤジだな、と自嘲気味にくちびるを歪める。考えて見ればまだ四十になったばかりだ。現実のものとなりつつある超高齢化社会にあっては、まだ若い方なのに違いない。


 隣のテーブル席に男の子が一人座っていた。

 違和感があった。

 まわりに人がいない、いている席を選んで座った筈だった。

 小学2~3年生くらいの、痩せた小さな男の子だった。髪はやや長めで、特に前髪が長くて顔の上半分を隠し、表情が分からない。オレの斜め後ろ、こちらに背を向けて座っている。

 気にはなった。しかしオレは横目でさりげなく見るにとどめる。今日は土曜日だ、家族連れだろう。きっと近くに父親か母親がいるに違いない。その両親に変な心配を掛けたり、逆にオレがいづらくなったりするのが嫌だった。

 おかしな時代だ、と思う。

 こんなガキに、いい歳したオッサンが、こんなおかしな気の使い方をするなんて、バカげた話だ。

 男の子はまだ一人で座っていた。

 なかなか親は来ない。

 オレは、店の奥のカウンターを見る。

 誰もいない。

 周囲に視線を巡らす。

 数人の客が座っているが、この子の親らしき人物の姿は認められなかった。

 ―― おかしいな?

 その子の姿を再度見る。

「……、え?」

 思わず声が漏れた。

 その小学生の男の子は、今はこちらを向いて座っている。さっきと角度が違う、斜め後ろから、オレはその姿を見ていた筈だった。しかし、気のせいかも知れない、いや、気のせいだ。ハッキリとは見ていなかったのだ。


 滑らかな髪、

 優しそうな大きな目、

 年相応の、柔らかい曲線を描く頬、

 白い、すべすべした肌、

 えんじ色のトレーナーに、

 青色のショートパンツ、

 白のハイソックスに、

 デッキシューズっぽいデザインの靴、

 脚が長くてキレイ、

 男の子じゃないみたい、


 ――あれ?

 オレは既視感に見舞われる。

 この子、見たことある。

 テーブルを挟んで正面に座っているその子は、微妙に地面に届かない足を椅子の前でブラブラさせながら、そのテーブルの上をぼんやりと優しげな眼差しで見ている。

 ――あれ?

 確か、隣のテーブルにいた筈だ。それに他人だし、同じ席に座ってるなんて変だ。でも、……いいのか、子供だし。

 子供だし、……? 子供だといいのか?

 考えがまとまらない。

 と、その子が視線を上げた。

 オレと目が合う。

 大きな目。

 透明感のある、クリアな瞳。


 疲れていた。

 ガキなんかに話し掛けられたら面倒だ。

 オレは目を反らそうとする。しかし、


「久し振りじゃないか?」


 ――えっ?

 オレは驚く。頭の中が真っ白に痺れて、失神しそうなほど驚く。

 ――オレの声、

 口が勝手に動く、勝手にしゃべる。


「何の用だよ、もうオッサンなんだ、忙しいんだよ」


 その子は表情を変えない。

 大きな、透きとおる、吸い込まれそうな瞳で、キッカリとオレの目を見ている。

 瞬きもせずに、だ。

 人形のように、ただじっと、こちらの目の中を見ている。


「オマエだったんだな、最初、分からなかったよ」


 ――かえで、じゃなかった?

 ――かえで、なんていなかった?


 どういうことなんだ?

 そこには、オレしかいなかった、とでも言うのか?

 あの夜、不思議な「恋」に落ちた夜、……

 しかし画面には、何も映っていなかった、

 あんな同人マンガなんて無かった、とでも言いたいのか?


「知ってたよ、でも忙しいんだよ、戦ってるんだよ、オレは」


 その時、その子が口を開いた。

 変わらない表情で、瞬きしないまま。


「嘘だ、何でそんな嘘をつく、オマエは知っている筈だ」


 思ったより大きな声だった。

 自分の声だった。

 自分の口が動いているのが分かった。

 声帯が震えるのが分かった。

 驚いた。

 誰かに聞かれただろうか?

 周りを見る。

 誰もいなかった。よかった、……って、


 ――え?


 オレは息を呑む。

 あの子がいない。

 あの大きな目の、えんじ色のトレーナーの子もいない。

 まるで最初からいなかった、そんなふう。


 ――そんなバカな、


 いや、

 しかし、

 それはそうだろう。

 腹の底から、力なく、笑いがこみ上げてくる。

 笑ってしまう、笑うしかない。

 最初から、誰もいない店内の一角に、席を見つけ座ったのだ。

 いる筈がないし、いたらおかしい。


 すぐに席を立ちたいような気もしたが、何だかひどい倦怠感を覚え、疲れ切ってしまっていて、立ち上がる気力が湧かなかった。

 オレは夕方の、何だか場違いな時間帯の喫茶店で、ただ一人椅子に、力が抜けたように深く腰掛け、色褪せ、暮れゆく空を眺めた。



















































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