第10話:挿話「境界線上の季節」
「ユウタ君、ちょっといい? お話したいんだけど」
帰りのホームルームが終わって帰ろうとするユウタを、シンイチロウは廊下で呼び止めた。
さすがに呼び止めない訳にはいかない、というか、しっかり話を聞く必要があると思った。
ランドセル背負って、目をまんまるくして、びっくりした顔のユウタ君、・・・・
シンイチロウは、大学4年の教育実習生、二十一歳。
ユウタは、小学5年生の、十歳だ。
呼び止めてまで話を聞かなければならない理由は、ユウタの行動が、あまりに不審だったからだ。或いは、実習生とはいえ「先生」という立場である自分の、ユウタへの接し方に問題があるのかも知れなかった。
ユウタはクラスの中でも目立たない、控えめに言って、ものすごく内気な男の子だった。
色は白く、痩せていて、身長も小さい、女子生徒と比べてもひ弱なイメージ。
肌と同じく色素薄めな髪は長く、その前髪に隠れて目が見えない程だ。
声も小さい、というか、ほとんどしゃべらない。
教育実習が始まって最初の一週間は、ユウタについての印象はほとんど無かった。
おとなしい、目立たない、声すら出さない、そんな生徒だったのだ。
ある日、休み時間に次の教室に向かって歩いていると、ユウタが廊下のカドから「ぴょこっ」という感じで顔だけ出して、こちらを見た。距離にして五メートルくらいだろうか?もちろん教員志望なので、印象は極めて薄いにしても、それが受け持ちのクラスのユウタ君であることはすぐに分かった。
ずいぶん大きな目だな。
そう思った、普段は前髪に隠れていて見えないのだ。
その目をまんまるに見開いてこちらを見ている。
次の瞬間、ユウタは「さっ」と壁から顔を引っ込めた、こちらの視線に気付いたのだろう。
カドのところまで来て見ると、もう廊下にユウタの姿は無かった。
何だろう?・・・・でも子供って、面白いな。
シンイチロウは、その時はまだそんな風に思っていた。
しかしそれがたび重なった。
ある時、廊下を歩いていて、ふと背後に気配を感じ、振り向くとそこにユウタがいて、ユウタは「わあっ!」という感じで声を出さずに、声を出さずにびっくりして、そのまま廊下を階段のほうに足早に折れて、素早く姿を消したり、
またある時は、教室で慣れない授業をしていて、はっと気付くとユウタが、またまた大きな目でシンイチロウをじっと見ていて、声を掛けようとするとユウタはそのままぷいっと横を向いてしまい、その後「ユウタ君?」と何度声を掛けてもテコでも返事をしない、など枚挙に暇が無かった。
「ユウタ君、ちょっといい? お話したいんだけど」
そして、この場面になる。
ランドセル背負って、目をまんまるくして、びっくりした顔のユウタ君、・・・・
何をどう聞くべきか迷ったが、相手はいちおう五年生だし、そんなに幼い子供でもない。
単刀直入に訊くことにした。
ユウタは背が低いため、シンイチロウはひざに手を当てて中腰になり、視線の高さを合わせる。
ユウタの顔が近づく。
女の子みたいだな、と思った。
栗色の前髪は目の中ほどの位置までかかり、その前髪ごしに見える目は大きく、その瞳は濁りが無く透明な、カメラのレンズのようだった。
まつげも長くて、ちょっと意外な感じだ。
「ユウタ君、先生はユウタ君のこと、いい子だなって思ってるんだけど」
聞いているのかいないのか、ユウタはびっくりした表情のまま、一度だけ目ばたきした。
口は少しだけ開いている。くちびるの先がとがっていて、子供らしい。
「先生、ユウタ君が嫌な気持ちになることを、何かしちゃったのかなって、心配してるんだ」
その口元が小さく閉じられると、
ユウタの顔がおでこの方から、急速に赤くなってきた。
「ユウタ君は、なんで先生とお話をしてくれないのかな、って、・・・・」
もう首のほうまで真っ赤だ、あれ?
「・・・・・・、ユウタ君?」
びっくりしたままの、揺れる瞳から、涙があふれ出した。
大粒の涙が、ポロポロ、ではなくボロボロと丸い頬を伝う。
あれあれ、なんで?
感情の高まりに耐えかねたように、ユウタはギュッと目をつむり、口元を歪ませ、そして両方の手のひらをその目に当てて、
うー、うー、
と声をあげて泣き出した。
近くにいた生徒が振り返り、そのうちの何人かがこちらに向かって歩いてくる。
ちょっと待て、なんか俺が泣かしたみたいだ。というか、俺が泣かしたのか、・・・・・・
シンイチロウは途方に暮れながら、しかしユウタに声を掛けたり、その小さな頭を撫でたりした。
まだ夜が明け切らない早朝の道を、駅へと歩いていた。
東の空が白み始める、そんな時刻。
かえでは軽くなったスーツケースを引いて歩いていた。
今日は、ごくシンプルな白のTシャツにスリムのブルージーンズという、考え得る限り最もオーソドックスな男の子のスタイルだった。
だがやはり男の子には見えない。「男の子っぽい格好をした女の子」に見えてしまう。
シンイチロウは、もう松葉杖を使ってはいなかった。
あの時のことを訊いてみた。
「教育実習の時、泣かせちゃったこと、あったよね?」
シンイチロウの問いに、かえでは遠くを見るような目をして黙った。
「廊下で?」
とかえでは聞き返し、そして下を向いて少し笑った。
「んーん、違うよ、あれ、私が自分で泣いちゃったんだよ、・・・・・・」
「なんで?」
「えーっ、・・・・・・言うの?」
少し恥ずかしそうに言い、かえでは歩きながら手のひらを返し、額に手の甲を当てた。
羞恥に赤く上気した、顔とおでこを、冷まそうとするようなしぐさ。
「・・・・・・緊張したんだよ、シンイチロウに、声を掛けられて」
「緊張?」
シンイチロウは、余計な言葉は差し挟まず、続きを待った。
「すごくドキドキしたの、・・・・・・」
かえでの瞳が揺れた。
「ドキドキして、ドキドキが止まらなくなって、そして、すごく苦しくなって、だって、・・・・・・」
かえではくるっと向き直ってシンイチロウを見た。
潤んで揺れる瞳から、涙がこぼれそうだ。
「大好きだったの」
かすれて震える、やっと聞こえるくらいの、小さな声。
朝焼けを背景に、泣き出しそうなかえでの細い身体を、シンイチロウは抱きしめた。
震える小さな肩、
泣き出しそうな口元、
丸みを帯びたうすい頬、
白くて滑らかな肌、
涙に揺れる目の色、
複雑な光沢を宿す瞳、
軽くて柔らかい髪、
まるで人形のような造形、
ある意味こどものような、
そして夢に見るような、
理想の少女、
今だけの、・・・・・・
キスをする。
柔らかい唇の感触。
唾液を甘く感じる。
かえでの息。
かえでの匂い。
かえでの温度。
しかし、
シンイチロウの腕を掴み、かえでは身体を離した。シンイチロウから顔を背けるように、頭を少し傾げ、羞恥に染まる視線を右の方に流す。
人に見られちゃうよ、
そう言いたげな様子。
シンイチロウは下を向いた。
たぶん、これが最後のキスなんだろう。
そう思うと、灼けるような温度の喪失感が喉元にせり上がって来る。
昨日、と言ってもつい数時間前までの話だが、あんなに抱き合っても、いつものように満たされることは無かった。
かえでを失いたくない、・・・・・・
とその時、
「痛たっ、・・・・・・」
フラついたかえでが、腰の少し上に手を当てた。
いけない、確かに昨日は、ちょっと無理をさせてしまったかも知れなかった。
明日は帰らなければいけない、
そう分かってはいたが、抑えられなかった。
「大丈夫?」
シンイチロウが、かえでに身体を寄せた。
次の瞬間、
「ドンッ!」と胸に何か当った。
かえでが繰り出した、
右ストレートのパンチだった。
「ねえ、きのう!」
涙に濡れた、でもイタズラっぽい声。
「・・・・・・ちょっと、ガッツキすぎ!」
前髪に隠れて、表情は見えない。口元は、しかし泣いているようにも見える。
「・・・・・・なんですケド!」
下を向いたまま、こぼれる涙を指で拭いながら、かえでは笑って見せた。
この一週間、朝になるとよく交わした、いつものやり取りだった。
「・・・・・・ごめん」
これも、いつものセリフ。
でもシンイチロウは、うまく笑うことができなかった。
駅前の踏み切りに着いた。
かえでを最初に見た、あの踏み切りだ。
「ここでいいよ」
かえでは言い、そして続けた。
「ごめんね、最後に面倒なこと頼んじゃって」
「別に、大したことないけど、・・・・・・でもいいのか?」
一呼吸置いて、シンイチロウは続けた。
「本当に、全部捨てちまっても?」
スーツケースにいっぱいに入ってた筈の、かえでの衣類のことだった。
かえでが女の子として着ていた、下着や、あの水色のショートパンツや、ヤケに丈の短いパジャマ、そして花火大会の日のワンピースも、今かえでが持っているスーツケースには入っていなかった。
「ん、・・・・・・いいの、もう、着ること無いから」
かえでは下を向き、寂しそうにそう言った。
唇が、少し残念そうに、小さくとがっている。
シンイチロウは地面を見ながら、胸の中で重さを測っていた。
かえでが捨てようとしている、置き去りにしようとしている物の重さ、・・・・・・
不意に、くちびるにやわらかいものが触れた。
かえでの顔がすぐそこにあった。
見慣れたアングル。
腕をウエストの後ろで組んで、
目を閉じて、
背伸びをしたかえでのキス。
柔らかくて、甘くて、控えめなキス。
くちびるを離す時、
「ありがと」
かえでがそう囁いた。
別れの時が来た、そう感じた。
また会わないか、
そう提案してみるのも、或いはありかも知れない。
きっとまた会えるよ、
いつか俺がかえで、いやユウタに言った言葉を思い出す。
でも、多分もう会えない。
恐らく半年前、かえではちょっと可愛い顔の、ただの子供だった。
そして半年後、かえではちょっと可愛い顔の、年頃の男の子になっているだろう。
この夏が最後だと思う……、
今だけが、この夏だけが、かえでがずーっと待ち続けた「女の子」として生きることができる、たった一回の「季節」だったのだ。
だからこそ、会えるかどうかも分らなかったはずの俺を、探しに来たのだ。
また会わないか、
そんなこと、言えるわけないじゃないか。
かえでは腕を後ろで組んだまま、一歩、後ろに下がった。
白のTシャツとスリムのブルージーンズ、
かえでの意図に反して、やっぱり男の子には見えない。
全然見えない。
意外なほど長い脚は、スリムのジーンズによく似合ってセクシーだし、
肩にかかる栗色のボブカットの髪は、滑らかで艶があり、とてもキュートだ。
そして、まぶしい程の白い肌。
青く透きとおる色を湛えた、大きな瞳。
「じゃあね、……バイバイ」
シンイチロウに背を向けながら、かえでは小さな声で言った。
少し寂しそうな声と、表情。
前を見て、かえでが歩み去る。
「かえで!」
シンイチロウは一度だけ呼んだ。
かえでは振り返らない。
そうか、
もう答えないんだな、
かえで、って呼んでも、……
だいぶ明るくなってきた駅前の景色の中、
シンイチロウはしばらく立ち尽くした。
夏の盛りはすでに過ぎつつあったが、
今日も暑くなりそうな予感があった。
「境界線上の季節」:了
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