第11話:月曜日「ある意味では臨界事故にでも遭ったみたいな」
オレは塚原ケンスケ、設備点検業のプロフェッショナルだ、いや笑うな、話は始まったばっかりだ。
自分が何者なのか、まず説明したい。
オレは大学卒業後、そう、こんなガテン系の職業だが一応大卒だ、大卒なんて学歴、クソの役にも立たないけどな、大卒のオレが言うんだから間違いない。いっそ工業高校とかに行って、電気をちゃんと基礎から勉強したかった。
話が逸れた。
大学卒業後、東京の商社に就職したオレは、人殺し以外は何でもやる、という社会人としての基礎を徹底的に叩き込まれ、いやむしろそういうノリに向いていたオレは、社内で忽ち頭角を顕し、「豊島支社の営業マシーン」とか、「文京支社の販売サイボーグ」とか配属の度にいろいろアダ名され、……あれ、オレなんかバカにされてた?いやそんな筈は無い、と思うけど、だがしかし入社五年目にそのキャリア、というか社内の評判のすべてを投げ棄てて、この設備点検業界に転職したのだ。理由は、こんな会社でどんなに身を粉にして働いても将来はたかが知れてると直属の上司達の姿を見て気付いてしまったからだ。
起業して独立したい。
自分の才能と労力とを自分の為だけに使いたい。
強くそう思うようになった。
消防用設備保守点検業を選んだのは、資本力のない個人が起業するのに、これ以上適した業種が、ちょっと見当らなかったからだ。
ごく少ない元手で起業可能であり、
商材や原材料等の仕入れに伴う資金繰りが完全に不要、
しかも競争相手が少なく、
消防法に護られていて仕事が無くなる心配はない。
資格取得が必須なのと、実務経験が十年くらいないと業務遂行は難しい、という意外と高いハードルはあったが、度胸と気合と根性で、なんとかする自信はあった。取りあえず請けちまって、やりながら覚えればいい。血みどろの悪戦力闘は覚悟の上であり、それはオレの得意とするところだった。
会社の取引先であった老舗の防災屋(消防用設備工事・点検業者のことを業界ではこう呼ぶ)に転職し、入社一年以内に、以下の資格を取得した。設備系の資格は完全に網羅した。
(以下、取得順)
消防設備士 甲種四類
消防設備士 甲種一類
消防設備士 甲種二類
消防設備士 甲種三類
消防設備士 甲種五類
消防設備点検資格者 一種
消防設備点検資格者 二種
消防設備士 乙種六類(甲はなく乙種しかない)
消防設備士 乙種七類(甲はなく乙種しかない)
二年目には以下の資格を取得、業務に必要な資格はほとんど揃ったと言っていい。
(以下、取得順)
防火対象物点検資格者
防災管理点検資格者
防火設備検査員
電気工事士 二種
消防設備士の資格を最初に「甲四」、「甲一」の順で取得したのは、今でもオレの自慢だ。取得が最も難しい資格だからだ。
「一番難しいヤツから取ってやる」
これは、このオレが、この業界で生き抜いて行けるのかを占う、という重大な決意の顕われだった。
こうして資格も取得し、メンテナンスや工事の実務経験も積み、大変お世話になった老舗の「竹村兄弟社」さんだったが、やはり入社五年目、三十三歳の時、オレは独立起業に踏み切った。
家庭を持って六年目、当時四歳の子供が一人いたが、今しか無いと思った。
ところで三十三歳という年齢は、人生の大きな節目、転換点となる時期のように思えるのだが、どうだろう?
幕末の志士、坂本竜馬が寺田屋で襲撃を受け命を落としたのは、確か三十二歳だし、佐幕派の巨魁、新撰組副長の土方歳三が函館で討ち死にしたのも、確か三十四歳の時だ。
そして、後にキリスト教を興したナザレのイエスが、死海のほとりで神の国の到来を説いた「洗礼者」ヨハネの下で洗礼を受けたのも、たしか三十二歳の時だった、と思う。
それから七年間、いろいろ苦労もあったが、……と書くべきなのだろうが、実際にはそれほどでも無かったことを白状して置く。
業界全体が人手不足で、特に有資格者が足りておらず、最初は竹村兄弟社さんの仕事を毎日のように手伝っていて、これじゃ独立した意味がないじゃないか!と思っている内に自社受託物件がだんだん、というかどんどん増えて行き、七年目の現在では二人の従業員を抱え、合計三名の一個の独立した業者として、業界の片隅にではあるが、看板を構えるに至っている。
苦労、というか大変だったのは、むしろ逆の意味で、だ。
世の中の需要に、消防設備士の数がまったく足りておらず、その業務はしばしば「激務」の様相を呈した。しかし、今はそれには触れない。
そして今、起き抜けのオレは、朝の洗面所の鏡の前に立っている。
昨夜就寝したのは確か、三時半くらい、ほとんど寝ていない訳だが、何だろう、全然眠くない。どちらかというと、少し興奮している。
鏡に映っている自分の顔は、相変わらずの四十絡みのオッサンの顔貌そのものだが、その、前頭部の少しハゲた相変わらずの顔貌に、オレは違和感を感じた。感情の起伏が表面にまでなかなか現れない、ニブくて眠そうな顔、全然眠くないのに、眠そうな顔。
見慣れた顔、なのに違和感、何だろう?
少し興奮している原因は分かっている。昨日、というか、さっきウェブで見た、あのエロ同人漫画のせいだ。
(※ 作中の台詞:かえで)
「もし今度会っても、きっとまたシンイチロウは、ボクって気付かないね、……」
不意に、名状し難い感情が胸の中にいっぱいに充満し、それが身体の内側をガリガリと引っ掻いた。
突然のことで、自分でも驚く。
胸が苦しくなる。
Tシャツの胸の辺りを握り締めて、それを抑える。
そして鏡の中に、子供みたいに表情を歪ませた、泣きそうな自分がいる。
……、このオレが?
相手を籠絡する為に、作業服の胸ポケットにいつも商品券とビール券とお米券と図書券を必ず五枚ずつ持ち歩く、このオレが?
商品券とビール券とお米券と図書券をたまたま切らしていて、しょうがないから一万円札を剥き出しで若い元請メーカーの営業マンの手に握らせようとしたら、ドン引きされて手を振り払われて、でも最終的には半ベソ掻いて本気で嫌がる営業マンのその手にしっかりと万券を握らせた、このオレが?
何が起こった?
どうなっちまったんだ、オレは?
何だろう、この不思議な気持ちは?
切なさ、に近い、ある種の高揚感……、
今、自分の胸の内を支配しているのは、あの同人漫画に描かれた、その儚くも悲しく美しい恋の終わり、
……ってちょっと待て、
恋の終わり、って、かえでとシンイチロウって、そもそも男同士じゃなかったっけ?そういうのって、ホモとかゲイとかって言うんじゃないのか!ヤバクないか?しかもシンイチロウは二十五歳で、かえでは、ハッキリ書いてないけど普通に考えれば十四歳だ!犯罪なんじゃないのか?男子生徒だからって許されないだろう!それを果たして「恋」と呼んでしまっていいのか?いや一般論的な話ではなく、主観的に言って、オレ自身はこのことについて、一体どういう立場でいるべきなのか?どういうスタンスでこの問題と向き合うべきな
……って、それこそちょっと待て!
何かおかしい。
問題の核心から、思考がどんどん逸れて行く。
恐らくオレは今、自分が見たくないもの、触れたくないものを目の当たりにしている、この腕の中に抱いている。
世間一般の、少し古い通念で言うところのマイノリティの、儚くて切ない恋の終わりの物語を読んで、オレらしくもなくセンチメンタルな気持ちになってしまった、……だけじゃない!
オレの体腔の内部に今、いっぱいに充満しているこの、なんだろう、おかしな胸の高鳴りは、その核心は、「切なさ」じゃない。
そうだ。
(※ 作中の台詞:かえで)
「ボクさぁ、ずーっと女の子になりたくって、……」
………………………………いやいや、………………、
髭でも剃って、顔を洗おう。
出勤が遅くなっちまう。
もう考えるのはよそう、……
いや考えない方がいい、……
というか、考えるべきじゃなかった、……
女の子になりたくなっちゃった、なんて、そんなこと、……
今はまだ、問題の全貌は見えない。
だが、どうやら途轍もない事態が自分の内部で起こった、ということだけは理解できる。
ある意味では臨界事故にでも遭ったみたいな、そんな感じだろうか?
気が付かない内に、例えば二シーベルトくらいの線量の放射線に被曝した、みたいな。
そういえば一瞬だけチカッと光る、キラめく青い発光を、オレは作中のかえでの瞳の中に見たような気がした。
この日、オレは嫁さんを起さないように静かに、そーっと家を出た。
顔を見られたくなかった。
「変態バレ」が恐ろしかったのだ。
「変態バレ」、……
今日もワンボックスの軽自動車、サンバーのハンドルを握り、朝日を背に、早朝の環状二号線をひた走る。
いつものコンビニの広い駐車場に乗り入れ、いつものコッペパンといつもの缶コーヒーを買う。
タバコは吸わない、半年前に止めたのだ。
すぐにまたサンバーに乗り込み、エンジンをかけ、コッペパンを齧りながら、器用なハンドル捌きで素早く車道に乗り出す。今日も仕事が、オレを待っている。
すがすがしい朝。
でも変態なのだ。
…………、
つぶあん&マーガリンのコッペパンが砂と同じ味になる。
流し込んだ缶コーヒーは、紙の味だった。
「株式会社 塚原防災テック」
の表札がかかった事務所のドアを開けて中に入ると、まずパソコンを立上げ、メールをチェックする。続けて昨日やり残した見積書をチャッチャッと作り、メールで流すと、今日の業務予定の確認をする。
「おはようございます」
控えめな声であいさつしながら、身長百八十センチ近い痩せ型の、猫背の大男が事務所に入ってくる。
西久保さんだ。
オレよりひとまわり年上の五十歳、起業当初からの社員で、それ以前から消防設備業に従事していたベテランの防災屋だ。
視力はあまり良くなく、細い目に、黒縁の大きなメガネを架けている。
「おはようございます」
と、オレも敬語であいさつを返す。
西久保さんがキッチンに行って換気扇を回し、二本目のタバコを吸い終わって事務机の席に戻る頃、
「……はよーっス」
ともう一人、ボソボソした小さな声で、身長百七十センチくらいで同じく痩せ型の、ボサボサの寝ぐせ頭の大女が事務所に入ってくる。
モトコだ。
草木素子。
そう、この業界にはめずらしい女性の作業員だ。
年齢は二十代の終わりのほう。
肩くらいまであるボサボサの髪は黒一色で、痩せてとがった顔はやや青白く、口元は、何が気に入らないのか小さく「へ」の字に結ばれていて、しかめた細い目でスマホの画面を見ている、というか睨んでいる。目付きが悪いのは視力が悪いせいで、本人に悪意は無いのだが、目が合った人は、ガンを飛ばされているような印象を持つ。痩せていて、胸は無く、化粧っ気もまったく無い上に、今日も濃紺の作業着上下を出勤した時点ですでに着ていて、女性である、という印象は皆無だ。何だろう、例えて言うなら、反抗期でかなり気合の入った不良の「男子」高校生、或いは不精で貧乏なハードロック「青年」、とでも言うべき風貌だ。その不機嫌でブッキラボウな横顔は、むしろ「男」としてカッコイイくらいだ。
「おー」
と、オレもテキトーなあいさつを返す。
「何だ顔色悪いな草ッキー、……アレか?」
と西久保さんがパソコンの画面に映し出されたビットコインの相場変動グラフを見ながら声をかける。もちろん、生理か?という意味だ。
「ちげーよ、うるせえな」
横目で鋭く睨みながら、モトコが短く答える。
仲が悪いとか、別にそういう訳じゃない。いつもこんなふう、というか、そんな人間が集まる業界なのだ、やれやれ。
西久保さんも、モトコも、どうやらオレの変調には気付かない。
というか、或いはオレが気にし過ぎているだけかも知れない。
睡眠不足で、調子が少し狂っているだけだ、きっと。
オレとモトコはサンバーに乗り込み、点検作業の現場に向う。
運転は勿論モトコだ。九時近くになると携帯電話が鳴り始め、運転できないまま一ミリも前に進めなくなること必定だからだ。
「まずどこっスか?」
眠そうな細い目に、フチ無しのメガネを架けたモトコが訊く。
現場に行く前に、元請さんに点検票と請求案内を届けなければならない。
「まず総合メンテナンスさん、それから湘南台」
……………………。
車も発進しないし、返事も無い。
ちょっとムカッとして運転席に目をやると、……意外な光景に、ちょっと驚いた。
モトコが、あの、いつもは親のカタキを見るような細くて険しい目を、大きく、丸くしてこちらを見ている。いや、これはもう「見ている」と表現すべきなのか、完全にびっくりした表情で、メガネもずり落ちてしまっている。
「社長、……何かあったんスか?」
びっくりしたままの表情でそう訊く。
「え?、……」
オレは黙る。
くそっ、やっぱり女だな、カンがいい。
たぶん声だ、いつもと何か違うのだ。もちろん自分では全然分からない。
「別に、……」
それ以上何も言わなかったし、言えなかった。
相手は女だ、油断できない。
言えば、墓穴を掘るような気がした。
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