第9話:挿話「境界線上の季節」
「弟さんですか?」
トラッドな女学生風の女性店員の、嬉しそうな声、・・・・腐女子かよ!
「違います」
シンイチロウは言下に答えた。
シンイチロウの顔は笑っていたが、目は無表情で笑ってはおらず、そこから感情の色を読み取ることは出来ない。
そしてかえでの方は、女性店員を正面に見て、好意的な笑みを浮かべたまま、右方向に約三十度、首を傾げた。
「あっ、ヤダ私・・・・、ごめんなさい」
ビンテージ女学生コスプレ店員は、そう言って勘違い(?)を謝罪すると、
「何かお探しですか?」
と、ようやく本来の、販売員としての機能を発揮し始めた。
買い物を済ませ、例によって書店に寄り、スターバックスで飲み物を買って、荷物をレンタカーに積むと、エンジンを掛け、エアコンを全開にして帰途に着いた。かえではアイスのラテ、シンイチロウはアイスコーヒーに口をつけながら、何も言わずに走った。
・・・・弟さんですか?
さっきのことが気になっていた。でもどう触れていいのか、分からなかった。
「あさっての日曜日、花火大会だね」
不意に、かえでが言った。
市が主催する海岸での、夏の花火大会は、この地域一円ではかなり有名だった。
「花火大会が終わったら」
かえでが続けた。
コーヒーの味がしなくなった。
かえでが何を言おうとしているのか、瞬時に理解した、聴きたくない。
「ボク・・・・、帰るね・・・・」
そう、
分かってた、
いつまでもこんな日々が、
続くハズなんてない。
夕方の海岸沿いの歩道を、東の方に、岬の公園に向かって歩いていた。
花火大会が始まるまでは、まだ一時間半ほどあったが、歩道も砂浜も人出でごった返し、すぐ横の沿岸の国道もひどい渋滞だった。
今日は杖を突いていないシンイチロウを気づかいながら、しかしかえではいつに無くはしゃいでいるように見えた。
おととい買った、白いワンピースを着ていた。
ミニで、ヒザ上10センチ丈、シルエットはごくシンプルなAライン。
肩の部分はキャミソールになっていて、あと赤い小さなリボンが胸の上と、腰回りの両サイドの3箇所にあってアクセントになっていて、それが、かえでの身体の小ささと、そして手足の長さをさりげなくアピールしている。
しかしそのワンピースの最大の特徴は、後ろから見ると、裸の上から白いエプロンを身に着けていて、腰から下はピンクのミニのフレアスカートを履いているかのような意匠なのだが、しかし前から見るとやはり白一色のシンプルで上品なワンピース、というなかなか凝ったデザインだった。
足元は水色で涼やかな印象のウェッジソールのサンダル。
頭にはつばの大きな、薄いピンク色のリボンを巻いた麦わら帽子を被っていた。
かえでが「本当に」女装するのを見るのは、シンイチロウは初めてで、もちろん、かえでにとっても初めてだったが、ヤバイくらいに凄まじく似合っている。あの女性店員は、一体どこでかえでを男の子と見破ったのだろう。
行き過ぎ、すれ違う男性のほぼ全員が、かえでを一瞥し、或いは振りかえる。
赤い夕暮れのやさしい光の中、海からの、やや強めの風を受けて、かえでの髪が柔らかそうに揺れ、薄いワンピースの生地が、その風をはらむ。
かえでが笑いながら麦わら帽子を押さえ、片目をつむってシンイチロウを見て、
「どう?何か言ってよー、・・・・似合ってる?」
似合ってる、すごく、・・・・
言おうとして、声が出なかった。シンイチロウは顔を横に背け、ボンヤリと、車道の渋滞を眺めた。
「ねぇ、ひょっとして、可愛すぎて何も言えないとか?」
フザけたことを言って、うふふ、なんて笑ってる。
そう、正解だ。
夕焼けの中のかえでの、その儚く、透きとおるくらいに美しい姿を直視しながら、
似合ってる、
そう言おうとして、
そう言おうとしたら、
急に胸が塞がって、泣きそうになったのだ。
ふたりは岬の公園の高台に続く細い道を登った。
西の空の端を、日輪の残光がわずかに赤く染めていた。
すっかり暗くなった高台の木立の芝生に、二人は腰を下ろした。
「ほら」
シンイチロウは着てきた半袖のシャツを脱ぎ、芝生の上に敷いた。
「ありがとう」
かえではその上に腰を下ろし、膝を抱え、体育座りになった。
二人の前に広がっているはずの海は、夜に呑まれてしまっていて既に見えない。
もう、いつ花火が始まってもおかしくない時刻に違いなかった。
「かえでがこの町に来た、本当の理由って、何?」
シンイチロウは聞いてみた、今日はちゃんとした答えを聞きたいと思った。
かえでは静かにシンイチロウを見た。
「女の子になりたかったから」
はっきり言った。
シンイチロウは聞きにくい、しかし最も知りたいことを訊いてみた。
「・・・だから男とヤろう、って?」
「短絡的?」
かえでは首を傾げ、少しイタズラっぽい笑みを浮かべた。
「でも、誰でもよかった、って訳じゃないよ」
そして、頭の後ろで両手を組むと、仰向けに寝そべって夜空を見上げた。
「ボクさぁ、ずーっと女の子になりたくって、・・・・」
少しの間、沈黙があった。
かえでを見た。
彼女は両腕を、顔の上で交差させ、目と表情を隠しながら、静かに泣いていた。
しゃくり上げるような息づかいが微かに聞こえた。
女の子になりたい、
言葉にしてしまえば一言だ。
だがそこには、複雑に絡み合った様々な思いと、それに費やされ、振り回され、時に打ちのめされた、そんな長い時間があったに違いなかった。
「でも、そんなこと言ったらお父さんとお母さんもきっとすごく悲しむし、テレビを見てても、男の子ってみんなこう、とか、男の人ってこういうの好きだよね、とか、ボクは全然そうじゃないからそういう時すごく居心地が悪くって、中学生になって制服を着るようになると、嫌でも、今までよりずっと性別を意識しなくちゃいけなくて、それなのに、女の子になりたい、なんて、そんなのダメだ、って、・・・・」
シンイチロウは黙って、かえでの嗚咽が収まるのを待った。
「でも、分かってるんだ」
わずかに濡れた声で、かえでは話を続けた。
「手もだんだん、なんだか血管が浮き出てきて、子供の頃と違うし、クラスの女の子と並ぶと、ボクの方が背が高いことが多い」
宙空に浮かぶ満月に、寝そべったまま手を透かして、かえでは言った。
まるで女の子のような手が、闇の中で青白く光る。
「静かに、だけど容赦なく、身体の内側から凄まじい勢いで、男に変わってゆく、そんな感覚が少し怖い、・・・・」
かえでは起き上がり、夜の暗黒に溶ける海を見る。
「この夏が最後だと思う」
そして立ち上がると、シンイチロウの前で、組んだ手を上げて大きく伸びをした。
背を向けて前を向くかえでの姿は、今までと違って、男の子に見えた。
今まで見てたかえでより、ずっと未熟な、子供のようだった。
きっとそうだったんだ、と思った。
そう見えなかったのは、こちらの願望が投影されていたに過ぎない、たぶん。
「これからきっと、声も変わって、背もどんどん伸びて、そして、きっと、ボクは世の中と、それなりに折り合いをつけてやって行くんだと思う」
記憶の奥のほうから、何かが浮かび上がってくるような気がした。
その未分化の曖昧なカタマリは、カメラのピントが合うように、急速にハッキリしたイメージとなって像を結びだした。
「そうなる前に、まだ女の子に見えるうちに、会って置きたかったんだ」
息が止まった、シンイチロウは、今はもう完全に思い出していた。
「大好きだった先生に、・・・・」
かえではくるっと身体の向きを変え、シンイチロウのほうを向いた。
「ユウタ、・・・・」
炸裂した花火の、激しく白い発光を背に、かえでは話し続けた。
まばゆい光が白いワンピースの布を透過し、かえでの身体のラインが、夜空に浮かび上がった。
「もし今度会っても、きっとまたシンイチロウは、ボクって気付かないね、・・・・」
逆光の中、さみしげに微笑むかえでの、その青く透き通った瞳の色を、
俺は一生忘れないだろう。
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