第7話:挿話「境界線上の季節」
「好きでもないのに八冊も買ったりするの?」
「歴史小説のこと?」
「ん、なんで?」
話して見ようかな、そんな気分になった。
「薬みたいなものなんだ、かえでにはまだ分かんないと思うけど」
「クスリ?」
「そう、精神安定剤」
部屋をボンヤリ照らす薄暗い照明を見ながら、シンイチロウは話し始めた。
人に話したことは一度も無かった。
「三年前に今勤めてる会社に就職して」
「先生じゃないんだ」
ヌルっと言った、予想してなかった、何で知ってるんだ。
「ちょっと待って、何で俺のこと先生だって思ったの?」
「だって…、話し方とか先生っぽいよ、シンイチロウ」
タオルケットに身体をくるんだかえでが、クスっと笑った。
ああ、そうか。
「大学四年の時、小学校に一カ月間、教育実習に行ってたんだ」
それ以上、気には留めなかった。
「教師を目指してたんだ、一応」
「イケナイ先生だね」
かえでがまた小さく、クスクス笑った。
タオルケットの下には、何も身に付けていなかった。
「ボクのことを抱いたりできるのか?って、言ってるの!」
何も答えられなかった。
だって、何て言えばいい?
かえでは勇気を振り絞って言ったに違いなかったし、
こちらには未成年者を預かる大人としての立場があった。
沈黙が、部屋を支配した。
十秒に満たないくらいの、ごく短い時間。
かえでを見た。
俯いた表情は、ショートボブの髪に隠れ、見ることができない。
小さな背中が、震えていた。
子供みたいな、小さな背中。
「ごめんなさい、変なコト言って、…」
かえでが顔を上げた。
笑顔だった。
でも涙が、頰にこぼれてしまっていた。
「帰るよ、ごめんね、…」
立ち上がろうとしたかえでの二の腕を掴んだ。
華奢な腕だった。
「待ちなよ、こんな時間に、いったいどこに帰るんだよ?」
シンイチロウは言った。
今引き止めて置かなければ、どこかに行ってしまって、きっともう会えない。
何かが胸の中を焦がした。
かえでは、今はもう完全に泣き崩れていた。
大粒の涙が、転がるように頬をすべり落ちる。
「だって、こんなこと、変だよね、…気持ち悪いよね?」
息が止まった、目ばたきを忘れた。
「だから、もう、…」
かえでは顔を横に背け、立ち上がろうとした。
シンイチロウは目を閉じ、歯を噛み締めた。
そして腕に力を込め、かえでの身体を無理やり引き寄せると、
両手で肩を掴んで自分のほうに向かせた。
髪が大きく揺れた。
びっくりした表情、丸く見開かれた目。
抱きしめた。
小さな肩、
小さな背中、
やわらかな腕、
華奢な首筋、
小さな頭、
なめらかな髪、
体温。
今度は、かえでが目ばたきを忘れた。
「………いい」
シンイチロウが何か言った、が、声が小さくて聞き取れない。
「え?…」
小さく聞き返した。
シンイチロウの表情は、俯いた前髪の陰になっていて見えない。
「君は美しい、気持ち悪くなんかない、だから帰らなくていい」
今度はハッキリ言った。
かえでは濡れた目蓋を閉じた。
そしてシンイチロウの背中に、白い腕を回した。
「新規の保守契約も、改修工事も取れてないじゃないか、一体どうしたんだ?」
設備系の大手メーカーに入社後、半年ほどだった頃、メンテナンス部門の直属の上司に呼び出された。新人教育と前任営業担当者からの引き継ぎを終えて、まだ三カ月しか経っていなかった。
官庁関係の保守契約の入札時期はすでに過ぎ、既存のメンテナンス物件には現時点で、設備更新や大掛かりな改修を要する案件は皆無だった。
上記の内容を説明し、さらに引き続き顧客や取引業者への声掛けを徹底していく旨を補足し、営業成績の不振について謝罪した。
「オマエ、仕事ナメてんのか?」
上司の口調が変わった。
意外だった。どちらかと言うと理解のある、比較的優しいタイプの上司だったからだ。
「ナメたりなんてしていません、お客様へのご案内とお願いは徹底しているつもりです、しかし現時点では、・・・」
「だから、それがナメてるって言ってんだよこのバカ!」
馬鹿呼ばわりされた。
「あの、…どういうことでしょうか?」
上司は、まるでケンカしているチンピラみたいな胴間声で、こう怒鳴った。
「誰がご案内なんてしろって言った!このうすらバカ!仕事を取ってこい、そう指示したハズだぞ!ご案内とお願い、だなんて、一ミリも言ってねえぞ!」
数字と金という結果しか要らない、何処にでもよくある、日常的なやり取り。
日本はいい国だ。
「すみません、・・・でもこれ以上どうしたらいいか、・・・」
「もうすぐ月末だな」
「はい、・・・」
「このまま行ったら、タダじゃ済まさねえぞ、分かってんだろうなオマエ?」
クダラナイ仕事、
反吐が出そうな気分。
シンイチロウは、しかし頭を下げ続けた。
そこから一線を超えてしまうまでは、あっという間だった。
と言っておく。もちろん実際には色々あったし、二人とも初めてで戸惑う場面もあった。だがここでは触れたくない。
かえでは泣いた。
シーツの上で、手のひらで顔を隠して、声を殺しながら泣いていた。
シンイチロウは気付いて少し慌てた。
「ごめん、大丈夫?・・・痛くて嫌だったらヤメてもいいよ」
「嫌じゃない、・・・」
かえでは言った。そして母親を求める子供のように、シンイチロウに向って腕を伸ばし、手を拡げた。
白くてしなやかな肢体、
息づかいとともに微かに上下する薄い腹部。
「泣いてるのは嫌だからじゃない」
涙に濡れた瞳が痛々しかった。
その瞳の奥に、
身体感覚に圧倒されながらも失わずにいる、
何か意思めいたものを感じた。
「もっとして、シンイチロウ、・・・」
シンイチロウは、かえでの頬を撫で、指で涙を拭うと、
片腕を腰に回し、強く掴んだ。
頭の中のネジを十本くらい外すことにした。
ある程度まとまった本数を外す必要があった。
正気でいたら、商売はできないと思った。
感性がブッ壊れた頭で営業活動を続けていたら、だんだん数字が上向いてきた。
やればできるじゃないか、死ぬ気でやれば何でもできる、と何人かの上司が褒めた。
気が狂ってるんじゃないか?
いや勿論狂ってるんだろう、当たり前だ、スーツ着て街中を歩いているヤツは全員そうだ。
二年目に入る頃には、社内・社外で一人前の営業マンとして広く認知されるに至った。
しかし俺は、
自分は何者なのか?
自分が今何をしているのか?
完全に分からなくなっていた。
目が眩んだような、
フワフワ浮かんだ夢の中を、全力で走っているような、そんな状態。
泣きながら、力が入らないまま、まるで何かから逃れているような。
教育実習の時に知り合った乗り物好きの男子生徒でケンタという男の子がいた。
実家の近所に住んでいて、たいへん人懐っこい性格だった。子ども離れした社交性の持ち主であるとも言えた。よく近所で行き会い、立ち話をすることも多かった。
「中学校の文化祭来てよ!先生が教えてたクラスのヤツみんないるよ!」
そんなケンタの誘いに応じて、その地元の中学校の文化祭に行ってみた。
ケンタが所属する科学部の教室には、見知った顔がいくつかあった。
俺は笑顔で、少しだけ大人に近づいた彼らと色々なことを話したハズだった。
しかし、その内容を今、まったく思い出せない。
晴れ上がった十月の空、
大きな窓、
明るい教室、
その明るい穏やかな光を全身に、いっぱいに受けた彼らの姿が、
その笑顔が、
その時の俺には、あまりに眩しくて、
直視することができなかった。
俺を見ないでくれ、
俺に近づかないでくれ、
俺は汚い、
俺はドブの臭いがする、
生きるために自分の人格をイジクる、
俺はイビツな弱虫だ、
俺は嘘つきだ、
会社に媚びへつらって人を騙す犯罪者だ、
告白する。
俺は泣きそうだった。
輝く彼らの、
その伸びやかな姿の前で、
俺はひざまづいて許しを請いたいと願望した。
キスをした。
ひとつに繋がったまま。
二人とも呼吸が乱れ、心臓が激しく鼓動を打つ。
高熱に浮かされたような表情と、瞳の色。
獰猛な肉食獣のように、本能のまま、互いに見つめ合い、そして距離を縮める。
唇を合わせる。
前歯どうしが、ガチガチと音を立ててぶつかる。
そんなことを気に留めてる余裕は無い。
二人とも息が上がりそうなほど興奮している。
口の端から唾液を流し、唸り、喘ぎ、呻く。
シンイチロウはかえでの名を、うわ言のように何回も呼んだ。
かえでの答えはすでに、言葉になってはいなかった。
「んっ、んーっ!」
かえでが四肢をシンイチロウの身体に絡ませた。
そして強くしがみついた。
かえでの体が震えだし、呼吸が止まった。
きつく閉じた目尻から涙を流し、開いた口から牙のような犬歯が覗いた。
そして、
「愛してるシンイチロウ、・・・・」
それだけを漸く吐き出した。
かえでの言葉と呼気が、シンイチロウの鼓膜を打った。
「かえで、・・・」
それしか言えなかった。
シンイチロウはかえでの身体を強く抱きしめた。
子供みたいな、小さな身体だった。
顔を、かえでの髪とうなじに埋めた。
全身の筋肉が固く緊縮した。
そして、
眩みそうな目を強く閉じ、
叫んだ。
叫び続けた。
しかし、
それは声にならなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます