第二一話 特殊潜航艇 マダカスカル襲撃

 さて、ここでは珊瑚海海戦ではなく、この時期に実施された第二次特別攻撃隊(甲標的)による、マダガスカル・ディエゴワレス攻撃とオーストラリア・シドニーの攻撃の模様を記したいと思う。

 真珠湾攻撃の際に実施された第一次特別攻撃隊の戦果はなかったわけであるが、連合艦隊司令部は戦艦一隻撃沈に関与したと認めその功績を評価していた。

 山本司令長官はもともと特攻作戦には反対であったが、連合艦隊司令部は兵器の改善と搭乗員の訓練により相応の攻撃効果を得ることができると考え、特殊潜航艇ー甲標的ーの準備運用を進める気運となっていった。


 ハワイ作戦から帰投したイ号第十六潜水艦は呉において、交通筒の工事をおこなった。これは甲板上に設置される特殊潜航艇に乗艦するのに一旦浮上して潜航艇のハッチから乗り、そして再び潜航して発進する方法をとっていたが、これでは一々浮上せねばならず、交通筒を設置することで、潜航したまま潜航艇に移乗して発進できるようになり、潜航艇の整備も楽であった。また、ジャイロコンパスも改良されて信頼度が高いものとなった。


 十七年三月、第八潜水戦隊が編成され、第二次攻撃にむけて作戦準備を行うこととなった。


甲先遣支隊

 第八潜水戦隊 司令官 少将  石崎 昇

  第一潜水隊 司令 大佐 今和泉喜次郎

  伊十  伊十六  伊十八  伊二十  伊三十 

  特設巡洋艦  報国丸  愛国丸

乙先遣支隊

  第十四潜水隊 司令 大佐 勝田治夫

  伊二十七  伊二十八  伊二十九

丙先遣支隊  

  第三潜水隊 司令 大佐 佐々木半九

  伊二十一  伊二十二  伊二十四


 特設巡洋艦の報国丸と愛国丸は、大坂商船が建造した一万トン級の貨客船であったが、最高速度二十一節を誇る優秀船であったため、海軍に徴用され、武装を施されて一五センチ砲八門、十三ミリ機銃二基四門、五三センチ魚雷発射管、偵察機などを装備した。この甲先遣支隊の作戦時には一五センチ砲が一四センチ砲に換装され、十三ミリ機銃も二十五ミリに換装された。潜水艦への補給の燃料タンクも持ち、真水タンクや予備魚雷五〇本も収納できるようになっていた。


 甲先遣支隊のイ号潜水艦の各要目は次のようである。

 伊第十潜水艦

  竣工  昭和十六年十月三十一日

  基準排水量  二、四三四トン

  全  長   一一三・七メートル

  最大幅    九・五五メートル

  速 力    水上最大 二三・五ノット       

         水中最大  八・〇ノット 

  航続距離   水上 一六ノットで一六、〇〇〇浬

         水中  三ノットで九〇浬

  安全潜航深度 一〇〇メートル

  兵 装    四〇口径十一年式一四センチ単装砲一

         二十五ミリ連装機銃二基

         五三センチ魚雷発射管六(搭載一八本)

  搭載機    零式小型水上偵察機一

 伊第十六潜水艦(一八潜、二十潜は同型)

  竣工  昭和十五年三月三〇日

  基準排水量  二、一八四トン

  全長     一〇九・三メートル

  最大幅    九・一〇メートル

  速力     水上最大 二三・六ノット       

         水中最大  八・〇ノット     

  航続距離   水上 一六ノットで一四、〇〇〇浬

         水中  三ノットで六〇浬

  安全潜航深度 一〇〇メートル

  兵 装    四〇口径十一年式一四センチ単装砲一

         二十五ミリ連装機銃一基

         五三センチ魚雷発射管八(搭載二〇本)

 伊第三十潜水艦

  竣工  昭和十七年二月二十八日

  基準排水量  二、一九八トン

  全長     一〇八・七メートル

  最大幅    九・三〇メートル

  速力     水上最大 二三・六ノット       

         水中最大  八・〇ノット

  航続距離   水上 一六ノットで一四、〇〇〇浬

         水中  三ノットで九六浬

  兵 装    四〇口径十一年式一四センチ単装砲一

         二十五ミリ連装機銃一基

         五三センチ魚雷発射管六(搭載一七本)

  搭載機    零式小型水上偵察機一


 甲先遣支隊は「伊三十潜」が四月十一日、他の潜水艦及水上機母艦「日進」と「愛国丸」「報国丸」は十六日に呉を出港し、それぞれ二十日と二十五日にペナン基地に進出した。日進は「甲標的」を降ろすと任務を終え三十日帰途についた。「伊三十潜」は二十二日ペナンを出撃した。他の潜水艦は愛国丸、報国丸とともに三十日に出撃し、南アフリカ方面へ航行していった。


 「伊三十潜」は七日にアデンの偵察、翌日はジブチ、十九日にはザンジバルとダレサルムを飛行偵察し、有力艦艇は不在であるとの報告を行った。「伊三十潜」は特別任務として「遣独任務」があり、偵察任務後はドイツへと向かっている。このことはまた別の機会に述べたいと思う。


 先遣支隊の主力は、五月十七日マダカスカル島南端から約三〇〇浬に達して散開した。

 この間、愛国丸と報国丸は五月九日、南緯十七度二〇分、東経七六度二〇分においてオランダ油槽船「ヘノタ」を発見してこれを拿捕して、回航班を移乗させてペナンに回航させた。


 石崎司令官が乗艦する「伊十潜」は二十日南アフリカのダーバンの飛行偵察をおこなったが、有力艦艇は認められず、石崎司令官はディエゴスワレスの攻撃を決意し攻撃日を五月三十一日と定めたと発令した。


 特殊潜航艇の搭載潜水艦と搭乗員は次の通りである。


 伊十六潜

   艦長  中佐 山田薫

   特潜艇長  少尉 岩瀬勝輔

   艇付    二曹 高田高三

 伊十八潜

   艦長  中佐 大谷清教

   特潜艇長  中尉 大田正治    

   艇付    一曹 坪倉大盛喜

 伊二十潜

   艦長  中佐 山田隆

   特潜艇長  大尉 秋枝三郎

   艇付    一曹 竹本正巳


特別攻撃隊員の略歴を次に記す。

 岩瀬勝輔 少尉(戦死後大尉)

  大正十年八月四日生 香川県綾歌郡山田村出身

  昭和十六年三月兵学校卒、十一月任少尉。  

 高田高三 二等兵曹(戦死後兵曹長)

  大正六年二月一日生 福井県坂井郡坪江町出身

  昭和十年六月呉海兵団入団、十六年五月二等兵曹。

 秋枝三郎 大尉(戦死後中佐)

  大正五年九月十五日生 下関市豊浦村出身  

  昭和十三年九月兵学校卒、十四年六月任少尉。

  十七年五月任大尉。

 竹本正巳 一等兵曹(戦死後特務少尉)

  大正二年五月十七日生 広島県賀茂郡竹原町出身

  昭和六年呉海兵団入団、十四年十一月一等兵曹。


 秋枝三郎大尉の家は祖父の代まで毛利家の仕えた槍一筋の家柄であつたといい、中学時代は柔道の主将を務め、吉田松陰や乃木希典大将を崇拝していたそうで、豪放磊落、親分肌の人物であったという。

 岩瀬勝輔少尉については高松市が発行した「岩瀬大尉」がある。勝輔少年は虚弱体質であったようであるが、年を重ねるごとに丈夫な体になっていったようで、海兵、陸士も合格するという英才ぶりを発揮するまでに成長した。この岩瀬大尉の伝記は戦意昂揚の事もあるが、感涙せずにはいられない。


 五月三十日、「伊十潜」は搭載の偵察機を発進させてディエゴスワレスを偵察し、湾内にエリザベス型戦艦一、巡洋艦一その他の艦船を認めた。同湾は世界でも屈指の大きな良港を有すると言われ、呉の七倍の面積をもつといわれる。

 このディエゴスワレスを英軍が領有したのはごく最近のことであった。この地は元々フランス領であった。この頃のフランスはドイツとの戦いで敗戦しており、親独のヴィシー政権が成立しており、マダガスカルはヴィシー政権下であった。イギリスとしてもこのままでは日本軍に占領されかれないと考えたために、イギリスは陸軍部隊と海軍部隊を派遣し、五月五日に攻撃を開始し、ディエゴスワレスを三日間で占領した。その後も島内では英仏軍の戦闘は続いた。そんな中、日本潜水艦が特殊潜航艇をもって襲撃したのである。

 

 石崎司令官は三十一日〇二三〇を期して特殊潜航艇による攻撃を実施することを令した。

 ただし「伊十八潜」は五月十八日に荒天のために機械故障をおこしており攻撃参加を断念していた。そのため攻撃は「伊二十潜」と「伊十六潜」による二艦による攻撃となった。


 五月三十日、「伊二十潜」の午後、士官室では潜航艇員の秋枝大尉と竹本一曹の壮行と成功を祝して、准士官以上が集まり、さらに艇の整備員である高林、大本三曹を交て会食をおこなった。この艦には司令の今和泉大佐も乗っていた。

 大佐が激励の言葉を述べて会食ははじまった。

「準備においては十分の自信があるから、あとはただ実行あるのみ。伊予灘や安芸灘で訓練したときと同様、平常心をもって事に当たり、十分腕前を発揮してもらいたい。攻撃決行まではこれに専念し、攻撃が終わったら、会合のことに専念せよ」

 そのあと、士官たちが、

「しっかりやれ」

 と激励の言葉を告げた。

午後十一時艦は港口の八十二度、十浬を確認して、針路二七〇度を保ったまま、速力五ノットで港口に接近していった。

 午後十一時十分、港口の九浬に達したことを確認して、針路九十度、速力を二ノットとした。

 搭載の筒より

「筒発進用意よし」

 の電話報告が入った。艦首は九十度を示した。潮流は二七〇度、一ノットで港口へ流れていた。筒の固定バンドも外されていた。

「発進準備よし」

 阿田航海長が

「発進位置にきました」

 と報告する。

 今和泉司令が電話にて

「もう行くか」

 と告げると、

「元気いっぱいでやってきます」

 と力強い声が返ってきた。

「落ち着いてやれ」

 司令が山田艦長に電話器を渡すと、

「しっかりやれ」

 とだけ告げ電話線は切断された。筒は発進した。


 二艦は三十一日午前零時特殊潜航艇を発進させた。攻撃終了後の収容場所まで各潜水艦は移動したが、二日まで現場海域で待機したが、特殊潜航艇を発見することはできず、戦果も未定のまま帰還するしかなかった。

 発進した特殊潜航艇は湾内への進入に成功し、クイーン・エリザベス級戦艦のラミリーズと油槽船ブリティシュ・ロイヤルティに魚雷一本ずつが命中した。ラミリーズは前部砲塔水線下に命中して弾薬庫などが浸水して大破した。だが、機関は大丈夫であり、応急修理をしたのちにダーバンへと向かった。ブリティシュ・ロイヤルティ(六、九九三トン)は沈没した。戦艦一隻大破、油槽船一隻撃沈は大戦果であった。

 戦艦ラミリーズは基準排水量二八、〇〇〇トン、全長一九〇メートル、全幅二七メートル、速力一八ノット、三八・一センチ連装砲四基、一五・二センチ単装砲八基、其の他の武装を持つ英海軍の主力戦艦であったが、艦歴も二十五年近くで旧式であったたため、地中海艦隊から、東洋艦隊へと移動していた。


 快挙を遂げた特殊潜航艇は「伊二十潜」の秋枝艇の可能性が大であるという。秋枝大尉と竹本一曹は攻撃終了後、艇を沈めて脱出して上陸し、会合地点に向けて山道を踏破して海岸に到着したが、潜水艦の姿はなかった。二人は住民により英軍に通報され、包囲され追い込まれ、英軍の降伏勧告を拒否した上、拳銃で応酬した。二人は銃撃により死亡し、付近に埋葬された。英軍は死亡一名、負傷四名の被害を受けた。

 「伊十六潜」の岩瀬艇の行動は不明であるが、その後の調査で湾外リーフで特殊潜航艇らしい残骸が発見されており、これが岩瀬艇ではないかと推測されるが、遺骨も発見されていないので、詳細は不明のままである。

 

「写真週報」第二六七号(昭和十八年四月十四日号)の中に第二次特別攻撃隊員の海軍合同葬の模様が報じられているが、合同葬が行われたのが昭和十八年三月三十一日呉鎮守府 海仁会桜松館(現存)でした。

 前掲「岩瀬大尉」に、大尉中心ではあるが詳しく掲載されているので紹介したい。


【山本連合艦隊司令長官弔辞】

 故、海軍中佐秋枝三郎君他、諸勇士の英霊に告ぐ。諸士は夙に大東亜戦争の事に従い、或は寒風怒涛の中、或は酷熱弾雨の下、粉骨碎身、各其の任を全うし、遂に君国に殉ず。痛恨何ぞ堪えん。今や戦局大いに進み、皇威八紘に洽し。是固より 御陵威の致す所となりと雖も、亦、諸士が勇戦奮闘の賜に外ならず。諸士以て瞑せよ。茲に英霊を迎えて葬送の儀を行うに当り、うやうやしく敬弔の意を表す。

  昭和十八年三月卅一日

     連合艦隊司令長官従二位勲一等功二級 山本五十六

【今和泉大佐弔辞】(当時第一潜水隊司令)

維時昭和十八年三月三十一日

謹みて、故、海軍大尉岩瀬勝輔君の英霊に告ぐ。

さきに、米英の驕恣きょうし暴累年其の度を加え、不当に興国の進展を阻むこと多年、妄りに挑戦して吾を屈服せしめんとす。蓋し、天下の公敵、不倶戴天の仇なり。斯くして、隠忍遂にきわまり、去る昭和十六年十二月八日、畏くも宣戦の大詔渙発かんぱつあらせらるるや、疾風迅雷、曠古こうこ大捷たいしょうを博し、今や、帝国の武威七洋を圧し、必勝不敗の態勢を堅持しつつ、一億一心、勁敵必滅に邁進しつつあり。この間、君は選ばれて特殊潜航艇の指揮官となり、酷熱瘴癘冱寒しょうれいごかん烈風をも意とすることなく、日夜燃ゆるが如き研究心と、卓越せる技能とを以て、斯術の練磨に之努め、又、終始、至誠奉公の念厚く、寡黙にして沈着、事に当りて剛毅果断、情に厚くして部下をいたわり、真に青年将校の亀鑑きかんにして、吾人の深く尊敬する所なり。而して、客年五月三十一日、一度命下るや、欣然きんぜん勇躍、策を練り計を進め、日を徹すること数十日、遂に逆巻く怒涛を乗り越え、万古を排し、長躯「ディエゴ・スワレス」港の強襲を敢行せり。闘志満々、意気正に敵を呑む。君が神々しき姿。生還を期せずして、「只今より出発します。」の強き一言。今尚髣髴ほうふつとして、瞼に映じ、強く耳朶を打つを覚ゆ。正に、死地に入らんとするに、何等平素と変る所なく、悠々詩を吟じ、歌を詠み、欣然として之に飛込みて悔ゆる所なし。その攻撃たるや、猛烈果敢、敵の主力を瞬時に潰滅せしめて遂に帰らず。戦友相見て声なく、徒らに在りし日の君を偲びて、万感胸に迫るを覚ゆるのみ。嗚呼悲しい哉。決戦半ばにして、君の如き有為の士を失うとは。何を以てか償うことを得んや。然れ共、今や聖戦完遂の希望日に大に、国是顕現の曙光愈々昭ならんとす。之素より 御陵威の下、天佑神助に依ると雖も亦、兄等が忠烈の賜たらずんばあらず。其の武勲煌々として青史を照し、後昆相承け、景仰已むことなし。君、亦以て瞑すべきなり。今や、戦局愈々決戦段階に突入せりと言うを得べく、実に挙国鉄石、不退転の決意を固むるの要今日より切なるはなし。我等益々操守を固め、愈々練武に精進し、以て君が遺烈を継承し、堅忍持久、誓って完勝の彼岸に到達せんことを期す。

茲に、君の英霊を迎え、親しく葬送の礼を行うに当り、謹しみて耿耿こうこうの至情をうったえ、以て敬弔の微哀を表す。こいねがわくば来りけよ。

              海軍大佐 今和泉喜次郎


 四月一日白木の箱は郷里高松に帰り、十二日村葬が盛大に執り行われた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る