第2球 異世界野球場への召喚

 ぼやけ、曖昧になる景色。

 凄まじい速度で日が昇り、落ちて行く。

 しかしそれは巻き戻っているのか、進んでいるのか分からない。

 ただ周囲と自分の感覚が超高速で剥離していくのを感じる。

 どんどん世界から切り離され、異なる場所へ移動しているのだ。という妙な実感があった。

 変わらないのは、少し緊張した面持ちで、俺の手を握るペトラだけだ。

 ペトラは口の端を震わせながら、神妙な面持ちで繋いでいる俺の手を見ている。

 景色が完全に薄れて、もはや水の中に水彩絵の具をぶちまけたような色になっている。

 もし仮に、何の説明も無く独りでこの場所にいたら俺はどうしていただろうか。

 少なくとも、こんなに落ち着いてはいられなかっただろう。

 この少し口の悪い、軽い感じの自称女神ペトラの手から伝わってくる安心感は、まるでずっと昔からいる家族のもののようだった。

 家族か。

 まだ小学生の頃だ。ある日、両親と東京ドームで野球の観戦中に突然姿を消した父の事を思い出す。

 それ以来、母は女手一つで俺を育ててくれた。

 都立のなかでも野球が強い高校に入り、三年間レギュラーに入った。

 三年目。エースで四番という漫画みたいな状況でついに俺は甲子園の決勝マウンドに立ったのだ。

 優勝は悲願だった。

 自分のためでも、チームのためでもある。

 しかし、なにより母のために。俺は優勝のその先へ進まなければならなかった。

 プロになるのだ。

 そのためには甲子園優勝ピッチャーという肩書きは必要なものだった。

 そのためなら、訳の分からない事象女神の手だって握るよ。

 それもこれもいきなりいなくなった親父のせいだ。

 あいつがいなくなったから、我が家の生活が悪い方に一変したんじゃないか。

「親父・・・・・・」

 もう顔も声も思い出せない概念の名を呼ぶ。

「え?」

 突然ペトラが弾かれたように顔を上げた。

「お前は俺の親父じゃないだろ」

 苦笑する。

「いや、そうじゃなくて」

 ペトラは首を振った。

「翔はさ、お父様のこと覚えてる?」

「は? まぁ、覚えてるけど・・・・・・多分何処にでもいる野球好きのおっさんだったってことくらい。もう何年も前に蒸発したからあんまり印象が無い」

 事実を伝える。

「まぁ、翔からみればそうかもね」

 ペトラは肩をすくめた。

「でも私たちの世界において、貴方のお父様はとてつもなく偉大な人よ」

「ん・・・・・・どういうことだ」

 まるで親父を知っているような言葉だ。

「貴方のお父様もね、私たちの世界に召喚されたのよ」

「へ・・・・・・?」

 間抜けな声が出てしまう。

「親父が?」

「えぇ。世界を救った四人の英雄。その中心人物がダイチ・オオヤマ」

「大山大地・・・・・・。親父の名前だ。おいペトラ」

 俺がペトラの名を呼ぶと、いきなり顔を硬直させ、髪をぶわっと膨らませて声を上げた。

「名前を呼んだ!? 貴方、名前を呼んだわね!」

「なんだよいきなり!」

「な、な、なんでもない。何でも無いわ」

 ペトラは両手で頬をぎゅっと挟むと、変顔に近い状態から、元の済ました表情に戻るのだった。

 なんだこの面白顔芸姉さんは。

「で、だ。親父のことなんだけど」

「えぇ。彼のお方のことですね」

「名前を言えないあの人みたいな言い方だなおい。そんなに偉いの親父」

「まぁ、文字通り偉人だから」

 俺は周囲を見渡す。

 ついさっきまで甲子園のマウンドだったその風景は、急速に形を為し始めていた。

 もうすぐ『着く』という感覚が頭に流れ込む。

 そして、もう容易には――あるいは二度と――戻れない予感めいたものが生まれていた。

「その、お前の世界に行けば親父に会えるのか」

 ためいきのように言う。

 果たして、親父は俺を見てちゃんと自分の息子だと理解してくれるのだろうか。

 しかし。

「あぁ、それは無理」

 ペトラはこともなげに言った。

「おいなんでだよ」

「だってお父様、もう死んでるから」

「はぁ!? 死んだ! 死んじゃったの!?」

「はい。もうかれこれ400年ほど前に」

「よんひゃくねーーん!?」

「だから偉人なんだってば」

「えぇ・・・・・・うわぁ、マジか。ちょっと期待しちゃったけど、まぁ、でも・・・・・・そうかぁ・・・・・・」

 死んだ、と聞かされても。あぁそうか。という感情が大きかった。

 胸が痛んだり、涙が出たりはしなかった。

 俺は冷たい人間なんだろうか。

 それとも親父が400年前の偉人と告げられて、俺の中でさらに現実感が無くなったからだろうか。

 心の整理が付かない。

 そんなことをする暇も無く、周囲の景色があやふやな見た目から鮮明なものになってくる。

「お・・・・・・?」

 水彩絵の具を水に溶かした映像。

 その逆再生のようだった。

 歪んだ世界がまるで元からそうであったかのように構築された。

 目の前には蒼い空といくつもの雲。

 あの甲子園の空よりも澄んでいて、俺は浮遊感に包まれていた。

 え、落ちてる?

「おい落ちて・・・・・・」

 俺は慌てて隣のペトラを見ると、向こうも青ざめた表情でこっちを見て言った。

「転移場所間違えたー!」

「おまえー!?」

 慌てて視線を巡らせる。

 上空何メートルかは知らないし、どうやら重力もある。風圧も相当だ。

 パラシュート無しのスカイダイビングをすることになった俺の落下方向には、巨大な円形の施設が見えた。

「あ! あれ! あそこで私のチームが今まさに戦ってるの!」

「こっちも今まさに落下死しそうです!」

「大丈夫だよー!」

「なにがー!」

「地面に激突する直前に魔法使うから! そうすれば大・丈・夫! 私のことはお構いなくー!」

 良くあることだと言わんばかりのスマイルを浮かべるペトラ。

 あと聞き捨てならないことがあるんだが。

「俺はどうするんだよー?」

「え?」

 え? じゃないよ。真顔で小首を傾げるなよ。

「勇者って体頑丈なんでしょ? ほら特殊能力とか、そういうの」

「いやそんなの無いから!」

「だってほら! 彼のお方は神子の祝福で偉大な力を・・・・・・あっ! 神子の祝福するの忘れてたじゃない!」

「うっかりさんめ! このままだと俺だけが地面と激突死だよ!」

 俺は、ただあのすっぽ抜けたボールをもう一度投げたいだけだったのに。

 変な女の甘言を受け入れた結果、異世界に召喚されて数十秒で死ぬとか悔やんでも悔やみきれないだろうが。

「だ、大丈夫! 今からなら間に合うから!」

「ほんと!? こんな状態からでもできる祝福あるの!?」

「任せなさいって! 私、神子なんだから!」

 そう言っている間に地面はどんどん近づいている。

 円形の施設はまるで、否、野球場そのものだ。

 土と芝生。そして白いダイヤモンド。

 なにより、その周囲には大勢の人が見える。

 そう。それくらい高度が下がっている。

「早く! なんでもいいから早く!」

「ハイハイハイハイ!」

「ハイは一回でいいから! 早くぅ!」

「・・・・・・数多ある光の道を示す主よ、我に異郷の勇士を祝福せし力を与えよ、我が名は――ちゃんとやると五分くらいかかるし、えーい! 間に合わないから詠唱破棄! 簡易祝福! 【グラン・キャバリエ・アボウト 大体でいいから勇者になーれ】 翔! 手を出して!」

「アバウト? アバウトって言ったな!」

「早くしないと死ぬわよ!」

「もう! 分かったよ!」

 俺は思いきり手を伸ばす。

 あがくように。

 未来を掴むように。

 願いを込めて。

「頼むぞペトラ!」

「掴んだわよ!」

 瞬間、繋いだ手が熱くなる。

「翔!」

 ペトラに手を引かれ、彼女の顔が突然近づいた。

 そして。

 唇が触れあった。

 あ――

 キスだ、これ。

 そう思ったのも一瞬。

 全身の肌が粟立った。

 体の中が沸騰するかのように熱くなり、

「んんーーー!」

 思わず声が漏れる。

 体内の血が何倍にも早く循環する感覚。

 急速に俺の身体が作り替えられていく。

 これが、勇者になるというものなのだろうか。

 目の前が明るくなり、光に包まれる。

 光の中で甲子園の泥が付いたユニフォームが消え、白とオレンジ色を基調とした新たなユニフォームに入れ替わる。

 何分も身体を焼かれるような感覚だったが、実際は一瞬だったのだろうか。

 まだ地面には着いていない。

「間に合った!」

 唇を離したペトラが頬を紅潮させ、恥ずかしそうに笑う。

「可愛くできました」

「お、おう?」

 妙な言い回しに疑問符を浮かべながら、空中でペトラと抱き合いながら落下する。

「本当に大丈夫なのか?」

「大丈夫!」

「なんか耳も良くなったかも。自分の声が違って聞こえるみたいだ!」

 視界が開け、より景色が鮮明に見える。

「さぁもうすぐ到着よ! みんなに、うぅん! ザ・グランボール私たちの野球世界に貴方の姿を焼き付けましょう!」

「ところで俺のポジションは?」

「エースで四番ですよね?」

「最高かよ!」

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