第10話 駄目みたいです
俺はものすごく後悔している。一時間前の俺をぶん殴りたい。助走をつけてぶん殴る勢いで殴りたい。もしかしたらその拍子にこの忌々しい顎関節症も衝撃で治るかもしれない。
五月蠅いバンドマンをゴミの中に生き埋めにしたところまでは良かった。自室の畳の心地よさと狭いワンルームを広々とした感覚を楽しめたのも良かった。
問題はそのあとの俺の考え方よ。暇とか思っちゃってんのよ。いや、仕方ない事なのは分かる。考える脳がある以上、とりあえずの目標が達成されればそう思うのは当然の流れだが、もっと別の方向に今回は意識を向けるべきだったんだ。
それは読書についてだ。
たぶん世界初であろうゾンビ読書家である俺の脳は本を求めている。それも開かない顎のせいで例の肉を齧れない事による延々に満たされない食欲のせいだ。
炭酸飲料や酒を胃にぶち込んだところでゾンビとしての本質は健在。学校での仙人的な生活と緊張感のお陰で以前と比べれば減ったがそれでも胃袋は求め続け、それは読書という形で満たされているのだ。
暇と空腹を忘れるには本と飲み物が必須なんだ。止められないし、止まるものでもない。
そこで平和で静かで穏やかである部屋に彩香を残し、新たなダンジョンの発見と探索に出ると言う選択はもはや俺の本能ともいえる仕方のないこと……。それを一日、せめて半日でも伸ばしていればこんなことには。もう少し足裏の畳の感触を楽しんでいれば!
「加藤さん! 加藤さん!」こいつと再会する事もなかっただろうに!「やっと見つけましたよー!!」
「あ……あー」
ここに加藤なんてゾンビはいない。いるのはただの名も無いゾンビだ。
再びゾンビがゾンビの真似をするなどこの先絶対に無いと思っていたのにまたやる羽目になるとは。屈辱の擬態……じゃない事態だ!
「おっとー? あれだけ練習したのにちょっと腕が落ちているんじゃないですか? まったく私がいないと駄目みたいですね。若干の恥ずかしさもあるようですし」
そうですね、駄目みたいですね……。
もしかすると俺はゾンビでないのか? 自分をゾンビと思ってる変人な可能性もあったり? ええい、自己存在への疑問はどうでもいい。何故ここに小野川がいるのか、どうやって逃げるかを考えるべきだ。見たところ一人のようで調達組の姿も見当たらないが。
「それは何でここにいるのかって顔ですね。ホワイトボードに書かなくても分かります。話が長くなるのですが……て、ちょっと! 待ってくださいよ!」
長くなるのなら帰る。そうでなくても帰る。こちとら暇ではないのだ。厳密には暇だが小野川に割く時間は無いのだ。達者で暮らせよ。
「しょうがないですね。歩きながら話すとします」
やっぱり駄目みたいですね、そうですよね。俺の歩行速度ではとても振り切れないのは分かり切っているのに無駄ですよね。
「えっとですね……。私、加藤さんがいなくなってからキャッチボールの相手がいなくなってボッチだったんです。それで前に捕まえた前髪をひたすら弄ってるゾンビがいたじゃないですか。あの鏡の前から動かないゾンビ。勝手に田中さんって呼んでいるのですけど。で、あまりにも暇だったので田中さんの前でゾンビの真似したりして……もちろん一人ですよ? 誰も一緒にやってくれないので。楽しいのに何故でしょうね? で! 当然なんですけど無反応で……」
どうした? 急に動かなくなったけど。虚ろな目をして呻き出して……。あ! こいつ感染したな! ゾンビ映画でよくある、噛まれたの黙ってたとかそんなんだろ。それで学校から追い出されたとかだろ!
「ふー、危ない危ない。話に夢中で危うく襲われるところでした。加藤さんは運が良かったですね。油断大敵ですよ」
ああ、ゾンビの真似してただけね。
「どこまで話しましたっけ? そう、そう! で! 思い切って檻の中に入ったんです。けどやっぱり無反応で。正気じゃない? そうかなあ? で! で、ですよ? ちょっと悪戯したら反応するかなーって。鏡をこう、右に左にグラグラ動かしてみたりするじゃないですか。そうすると鏡に合わせて田中さんもユラユラ動くわけですよ! これって大発見じゃないですか! それで私、楽しくなっちゃって! そこまでは良かったんですけど……。調子にのってたら勢い余って倒しちゃって。ええ、鏡を。盛大に。『あーあ、やっちゃったなあ。替わりの見つけないとなあ』と思ってたら田中さんが急に叫び出しちゃって。次の瞬間には檻の外に走り出してました。ほら、兎小屋って外からは鍵かけられるけど中からは無理じゃないですか。後はまあ、言わなくても分かるかもしれないですけど。その流れで基地が無くなっちゃいました」
話し長いとか思ってたらなにサラっと基地無くなったとか言ってんだ。テヘペロじゃねぇよ。
「ちょうどお昼時だったので火事が起きるわ、三人くらい噛まれるわでもう大騒ぎ! 物資の備蓄分はなんとか運び出して大丈夫だったんですけど。私めっちゃ怒られて追い出されちゃいました。追放ってやつですね! 初めて体験しました。『命があるだけ感謝しろー』とか『次の基地にお前のベッドねぇから!』なんて言われちゃいまして。あと『ゾンビの真似してからなんか臭い』とかも言われました。女性に向かって臭いは酷いですよね? いくら私のゾンビ力が凄いからってそこまでいう事はないと思うんです。それだけ迫真の演技だったといういう意味では嬉しいですけど」
罪悪感皆無な小野川のいうゾンビ力だとか、名前の分からないゾンビに対して田中さんと命名するセンスが同じだとかはこの際どうでもいい。この状況をどうするかだ。
「で……なんですけど」
可愛く上目使いでこちらを見てきますがこれは絶対ろくなことにならないパターンですね。
俺の足よ動けと念じたところで。普通のゾンビより足が少し早い程度なので生存者からすればナメクジか芋虫のクソ雑魚脚力。前髪を弄りながらも全力でダッシュできる田中さんが羨ましい。こんなところで自分が『遅いってことはやっぱりゾンビだな』と再確認しているのも悔しい。逃げたい。
「行くとこ無いので一緒に住んでも良いですか?」
ホラ来た! やっぱり来たよこれ!
「そんなあからさまに嫌な顔しないでください。妹ちゃんに齧られないように注意しますし、ボールもぶつけ無いように我慢しますから!」
俺の喉がゾンビ声帯でなければ「お前の部屋ねえから!」と叫んでいるところだ。
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