第三話 決意

彼がこの場所に来て数日の時間が過ぎた。

彼の感覚では四、五日だが正確な時間は分からない。

身に付けているものに時間を指し示すものがないからだ。

昼と夜を自由に変える事が出来る事も相まって、

彼の時間感覚は少しずつ麻痺し始めていた。


あまりに大掛かりな仕掛けである事と、閉じ込められているという印象から、

監視をされている可能性は彼の中でまだ拭い去れていない。

あの後も幾度か呼びかけてみたが、誰かが応答するような事はなかった。

彼自身が状況を整理する以外の選択肢がないという事だ。

彼はこの数日で気付いた事を頭の中でまとめ始める。


まずは思い浮かべた食べ物に味と香りを変える草について。

これは彼が食べた事のある味にしか変化しない事が分かった。

彼の実家ではホワイトシチューに中濃ソースを混ぜ、

それをご飯にかけて食べるという、少し変わった食べ方をする。

もし「ホワイトシチューを食べたい」と普通の人が願っても、

まず出てくる事のない味だ。

しかし彼がホワイトシチューを望んだ時に草が再現したのは、

紛れもなく実家の味だった。

また、まだ食べた事のないキャビアなどをいくら強く思い浮かべても、

草は何の変化も示さなかった。

データとして保存されている味から読み取っているような仕組みではなく、

彼自身の記憶から再現されていると考えて良いだろう。


脳の深層から掘り出してくるのか、断片的な記憶でも正しく再現される。

直近で良い食事をした記憶がない彼にとってこれは大きな救いだった。


次に滝のような水場について。

彼はこの滝が水温を望む温度に変化させる性質を持っている事を発見した。

普段流れている水は飲用としてはぬるくもなく冷たくもないが、

浴びる事を考えると冷たい水温だ。


滝を適温に変えてシャワーとして利用できる事は、

一般的な清潔感を失いたくない彼にとって大きな発見だった。

彼は暇があれば滝行のようにシャワーを浴び、考えをまとめるようになった。


また、あまり発声しないと喋れなくなりそうなので、

歌を歌ったり声を出したりするのもここで行う事にしている。

誰も居ないとはいえ、広い空間で大声で歌うのは抵抗があった。

僅かでも音が紛れる所で声を出すのが、彼にとっての妥協点だ。


ちなみにコーヒーやビールなどをいくらイメージしても滝には変化がなかった。

滝が変化できるのは温度だけのようだ。この事は少しだけ彼を落胆させた。


正体不明の草や水を飲食している健康への影響についても考えた。

直接命に関わってくる問題なので、彼が一番気になっている事だ。

飲食を始めてからしばらくの間は、

「体調が悪くならないから大丈夫」

と楽観的に考えていた彼だったが、今は大きな違和感を感じている。

便意が全くないのだ。


当初はストレスの影響だろうと軽く考えていた彼だったが、

数日間もの間全く変化がないとなると話が違う。

彼の身に何かが起きているのは間違いない。

その原因が口にしているものの影響か、

それともここに来た時には既に彼の身体が変化していたのか。

いずれにせよ彼には答えが出せない問題が発生している。


この空間の外に出てみたい。出入り口はどこだろう。

彼は草原に寝そべりながら考える。


空にある太陽のような光は、この空間のどこからでも見る事が出来た。

地続きの球体ならばあの光が見えなくなる場所があるはずなので、

彼はこの地表が地続きの球体ではないと予想している。


信じがたい事だが、何かしらの原理で空間がループしているのかもしれない。

彼はこの空間にアクションゲームのフィールドのようなイメージを持ち始める。

いずれにせよ、ここにいる事が事実である以上、入口はあるはずだと彼は考える。


それとも何かしらの方法で空間ごと転送する事が可能なのだろうか。

彼の想像はネガティブな方向へと進む。

空間のループが可能な技術なら、何となく出来るような気がする。

その場合は出られなくてもおかしくはない。


弱気になった彼の思考は更にネガティブな方向へと陥る。

もしこれまで想定してきた事が全て違う場合。

自分が死んでいる、もしくは並行世界や異世界などにきてしまった。

そのような突飛な可能性も考慮に入れなければならない。

物語の中のような話だが、今体験している事自体が最早物語の中の話だ。


それらは彼にとって考えたくない可能性ではあった。

何よりそれが事実だとしたらどうしようもない。

しかし彼の知っている世界とあまりに異なっていた。

彼の住む時代の日本である可能性を考える方が非現実的だ。


じっと息を潜めるようにここで生活をしていた方が良いのだろうか。

彼は思考を巡らせる。

非常に快適な空間だ。出られないという事以外は特に不便を感じない。

敢えて言うなら娯楽がないのは気になる所ではあるが、

まだ分からない事だらけでそこまで手が回っていない。


しかし今でこそ住んでいて快適な空間だが、

この状態がいつまで続くのかが全くわからない。

もしこの空間に捕らわれている可能性があるのであれば、

いつかは何かしらのアクションがあるはずだ。しかも悪い意味での。

いずれにせよこの空間の外を知らない事は危険だと彼は考える。

ここでじっとしていても、状況が理解出来るとは到底思えない。


しかし仮にここを出る方法が見つかったとして。

本当にここが何かしらの牢のようなものだったとした場合、

外が宇宙や深海のような危険な場所である可能性もある。

そのリスクを負ってまで外を知る必要があるのだろうか。


この自問自答には早々に答えが下される。

当然知りたい。彼の不安よりも好奇心が優先されての結論だ。

彼はこの空間の外に出る事に本腰を入れて取り組むことを決めた。


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