第7話父よ母よ妹よ
ときは元号が平成に代わるほんの少し前。
ところはT県の西のはし、芯斗市中那村。
ウチは、古い木造の日本家屋である。
家族は姉と私、そして弟と父と祖母。
今夜も、田んぼでカエルが鳴きつづける。月空の下、いったいどれだけの恋が生まれているんだろう。五月も、はや一週間たった。
コタツ布団は、もう必要ないので物置にしまってある。柱時計が九時を打った。私は、黄緑のパジャマでイグサのゴザに座り「雲霧仁左衛門」を読んでいる。今夜は、藤の花がよく香る。
姉が声をかけてきた。
白のシャツにいつもの赤ジャージだ。
「トモ美、トモ美!」
「なに?お姉ちゃん?」
「ホタル!今年初のホタル!外におる!来てみて!」
「ええ!失礼します」
スウー。姉の部屋のふすまを開ける。
「どこ?お姉ちゃん」
「そこ。窓の下のほう。右の…」
見ると一匹、静かにしずかに青白い光が明滅している。カエルがわんわん鳴きまくっているのに、それはそれは静かな光景だった。
「何ボタル?」
「この感じは、ヘイケボタルと思うよ。ゲンジやったら、もっと強く光るはずやけん」
「そうなんだ」
「ゲンジなら、もっと大きい川の方と思う。もうちょっとしたら、鴨沢の辺で大量発生するろうねえ」
「詳しいね」
「まあね。こんなことにはね」
「さすが、雑学女王!」
「ふふん!ねえ、電気、消してみようか」
「うん、お姉ちゃん」
電灯のコードを引く。
パチン、パチン、パチン!
窓のむこうが、月で明るい。
ホタルは、すぅっすぅっと明滅している。
カカカカカカカカ…カカカカカカカカ…
川でカジカが鳴きはじめた。きれいな、まるで鳥のような鳴き声だ。
姉が呟いた。
「…『かの家のかの窓にこそ春の夜を秀子とともに蛙聴きけれ』…石川啄木…」
「お姉ちゃん、ここで、お茶いい?」
「うん、OK。今夜は紅茶がいいかな」
「了解。少々、お待ちをー」
「おねがいー、ありがとう」
「お盆、持ってもどるけん、ここ開けといてねー」
「りょーかい、よろしくー」
紅茶をいれてもどると、ホタルは二匹になっていた。
「あ、もう一匹きた」
「お友達かな?」
「カップル成立?」
「トモ美ー、飛ぶのはオスだけー」
「あ、そうか。はははは、やばいヤバい、ぎゃははははは!」
「わははは!お・と・こ・どうしで…わははははは!」
「やばいヤバいやばい!ぎゃははははは!」
「はーはー、あー、お腹痛い!あーもー、一瞬『とんねるず』と『ウリナリ』が浮かんだやんか!」
「すごい!一発でそんなに出るとは。さすがは『やおい女』!」
「よけいなお世話じゃ!許さんよ…けど…どっちが…どっちになるんかねえ?」
「ヨメ入り前のムスメがそんなこと話すなあ!」
月光のもと、私たちはどれほどの時間、見ていたのだろう。カエルとカジカの声をバックに、ホタルが二匹明滅する。私には時間の感覚がなくなっていた。
ふと、姉が口を開いた。
「来月で……」
「え?来月で?」
「もう、まる二年やねえ…」
「そうやねえ…お姉ちゃん…」
「あっという間に……すぎる…もんやねえ…」
「そうやねえ……お母さん…」
「ほんまに……ねえ……」
「……………………………………」
「……………………………………」
「……………………………ねえ………」
「……………………………?………」
「………ねえ……お姉ちゃん?…」
「……?」
「………辛かった…ろう?…いろいろ……」
「……ま………まあ…ねえ…。アノ人とは…色いろ…あった…けんねえ…」
「ごめん…お姉ちゃん…ほんまに辛かったねえ…」
「………………」
「私…お姉ちゃんがあんなに辛い目にあいよること…全然わかってなかった…」
「………、……………」
「あんなに怒られて…お姉ちゃん、もっとちゃんとしたらええのにと思いよった」
「……………………」
「ごめんね……お姉ちゃんの辛いが……わかってあげられんかって…」
「……………………」
「お姉ちゃんが…受験対策でこっちに移ってから…すごいよくわかったんよ…私…」
「……………………」
「お姉ちゃんが、こっち来てから…今度は私が言われたけん…」
「……そうやったね…ごめんね…」
「ううん…私は…お姉ちゃんほどじゃあ…なかったけん…」
「…トモ美…」
「まあ…辛いもんはツラかったけどね。どんなに一生懸命…マジメにしよっても怒鳴りつけられた。『いちゃもんと膏薬は何にでもつく』というのは、ほんまやねえ…」
「すまんねえ…あんたにまで…そんな思い…」
「私…あの時わかったもん。お姉ちゃんは…この一年…ずっと守ってくれよった…」
「そんなつもりないでえ」
「ほんとにそうなんよ…。けどね…私は思った。お姉ちゃんは受験があるけん、集中してもらわんといかん」
「……………………」
「お姉ちゃんが高校受かったら、今度は私の番やけん、頑張ってもらおうと思ったがよ」
「あんた…辛かったね…」
「ううん、私も、じきにとなりに入ったやん!」
「そうやったね…。ユウイチが…手伝うてくれて…移ったんやったね…」
「ホッとしたよ、私。連休明けからは…」
「そうやったね。暑い日やった。そっちに移った日は…ねえ」
「そうそう、お父さんが引っ越し祝い言うてラムネ買うてきてくれて!」
「四人でカンパイしたんやったねえ…」
「なつかしいね…」
私たちは、ホタルを見ながら話している。
私たちは、互いに顔を見ていない。
「実はねえ…」
「何?お姉ちゃん…」
「アタシがここに移ったのは…ほんとは……受験対策だけじゃないんよ」
「ええ?そうなの!下におったら、勉強できんけんじゃないの?」
「べつに…勉強は下でもできるけど…」
「………?」
「こっちにおったら…不必要に顔会わさんですむろう?アノ人と…」
「!」
「アタシの顔やら、姿やらがアノ人のスイッチやったけん…」
「そうやったね……とにかく、事あるごとに難癖つけて罵倒せんと…おれんかったもんね…」
「言われるがもイヤやけんど、そうなったときのアノ人の顔がイヤで…」
「…………」
「見とうないけん…父さんに相談して…ここに来たわけよ」
「そうやったが……私には…お父さんが話してくれたがよ。『カズ代のとなり、開けろうか』いうてね…」
「父さん…ずっと…味方してくれよったね…」
「そうやね…うれしかった…」
「カゲでね…ウラでね…ずっと助けてくれよった…」
「…………………」
「アノ人が気づいたら、ますますエスカレートするけんね…」
「そう…やったね…」
「父さんも…あんたも…アタシも、コツ…つかんだんよ…」
「…そうやね……」
ふと、本棚に目がいった。
「あれ?お姉ちゃん?」
「なに?」
「これ…『ガラスの仮面』買いなおした?」
「そんなお金、無いよう。ジョウ治師匠にもらったんよー。昔の本を」
「あー、そうか、師匠が。よかったやん」
「まあね。師匠も『こんな古い本、二束三文で売るより、必要なところにあった方が幸せやけん』いうてね」
「また読めるやん!」
「まあ…ね…そうやけど、まだあんまり…よう開けんのよ。もうちょっと…かかるな…。まあ、ありがたくそこにおってもらうけどね」
「そう…か…まだか…お姉ちゃん…」
「焦げてボロボロ崩れる『月影先生』見たら、もうトラウマよ」
「まさかねえ…風呂焚きにねえ…」
「アタシあの頃、お風呂入っても全然温まらんかったよ」
「気の毒やねえ…」
姉は、しばらくの間風呂の焚き口に行けなかったのだ。
「ねえ、お姉ちゃん…」
「…?…」
「お母さん、お姉ちゃんのシュミ嫌いやったの?」
「難癖のひとつやろうけどねえ…。もともと…根本からは…わかってもろうてなかったけんねえ…」
「だから、勉強も頑張った?」
「…それは…あるねえ。こんなシュミしよっても、成績は絶対下げんと思うてね。意地やね、もうね…」
「いい方にいったね」
「まあ、ね。受験はなんとかなったけどね。今考えたらね…」
「なに?」
「成績下がった方が、アノ人おとなしかったかもしれん…。調子にのってアノ人言うろうねえ…『そりゃあ、見たことか。あんなことしよるけんよ!』いうてね…」
「そんなことない、絶対!お姉ちゃんは、これでええの!下げたらイカン!思いどおりになったらイカン!」
「ありがとう、トモ美…」
ヴゥゥゥゥー!ヴゥゥゥゥー!ヴゥゥゥゥー!
田んぼの向こうで、ウシガエルが鳴いている。
「あの日ねえ…お姉ちゃん…」
「?」
「あの日…雨、ひどかったよね…」
「そうやったねえ。梅雨というより、台風みたいな日やった」
「お姉ちゃん、体の調子、すごい悪かったろう?」
「う……うん…」
「お弁当作らんと、高校行ったろう?『もう今日はパンとコーヒー買う!』言うて……」
「そうやったね…」
「お姉ちゃんが合羽着て行って、そのあと私、トイレ行って中学行こうとしたら、お母さんが来たんよ」
「え!」
「すれ違いざまに、ひどい言われた。もう、ほんまに、ぐちゃぐちゃぐちゃぐちゃ。私も頭にきてねえ」
「…………」
「トイレのお母さんに、つい叫んでしもうたんよ」
「……………」
「出がけに文句つけるなあ!お母さんは一日中寝よるやんか!病気じゃ調子悪いじゃいうて家のことも何にもせんで寝よって、朝も昼もないのはそっちやんか!調子悪いワルい言いよるくせに、ユウイチの学校のことだけは、ちゃんとオシャレして顔出しよることも、みんな知っとるよ!娘の顔見たらグダグダグダグダ文句つけて、何様じゃあ!がんばって県西部一の進学校に入ったお姉ちゃんには、『えらかったね』の一言もなしに、ひっとり何にもせんと引きこもって!お姉ちゃんは、学校終わってから私らあの晩ごはんつくってくれよるんで!お母さんも食べよるろう、寝間で!それでお姉ちゃん、朝は自分でお弁当つくって行きよることも知らんろう!昨日から体調悪かったけん、今朝はつくれんかったけどねえ!それでも母親かあ!お姉ちゃん、あんなにしんどいのに学校行ったのは、ココにおりとうないけんで!お母さんに会いとうないけんで!私も、おりとうない!…いうて…」
「……………」
「それで家飛びだしたら、お昼に放送で呼ばれて…」
「アタシも…呼ばれた…」
「お母さん……あの雨ん中…市内まで行って…」
「そうやったね…」
「あんなに、私が、責めんかったら…お母さん…」
「ううん、あんたのせいじゃない。アノ人がああなったんのは…そんなに…考えたらいかんよ…」
「…………」
「あんたのせいじゃないよ。だれのせいでもない…」
「…………」
「そう…だれのせいでもないんよ…」
「…………」
「…………」
「…………」
「………じ…つは…ね……」
「……お姉ちゃん…?…」
「実は…ね…今、話す。あんただけにね」
「?」
「あの日から、アタシの弁当箱が無くなったの、気づいとった?」
「え!?知らんかった!本当?」
「覚えてないか…あのころはアタシ、アルミのお弁当やったろ?」
「そうやっけ?」
「そう、それが無くなっていたんよ。まあ、あの日には気づかんかったけどね」
「そうやね。あれから一週間くらいウチはバタバタして…」
「アタシも、ワケわからんかったよ。お葬式すんで、ひととおり終わって、やっと学校行ける朝、気がついた」
「?」
「アタシの弁当箱、どこいったって」
「どういうこと?」
「いつもの棚に無いんよ」
「………」
「炊事場、全部探しても、無い」
「………」
「ハシ箱もハシも、お弁当の袋も無い」
「え?」
「アタシは、こう思った。アノ人、ひょっとしてアタシにお弁当、届けようとしたのじゃないかな?」
「ああ!」
「それで、出慣れてない人が高校まで来よって…」
「そうか…そういうことやね……やっぱり私……」
「あんたのせいじゃないよ。だれのせいでもない。こうなったんは…しょうがないのよ」
「……お姉ちゃん…」
「……………………」
「……………………」
「……誰のせいでもない…。だれも悪うない…。そう……だあれも悪うない……あえていうなら…『ビョーキ』のせいよ…」
「病気…」
「それも、漢字の『病気』じゃない…。カタカナの『ビョーキ』…。あえていうなら…そのせいよ…」
「そうやね…そう考えにゃいかんね…」
「そうそう…だれも悪うないんよ…なんちゃあないことなのよ…」
「…ありがとう…お姉ちゃん…」
「あんた、このこと、ずっと胸にトゲ刺したままやったの?」
「うん…正直いうとね……誰にも言えんかったし…」
「かわいそうに…ずっと…しんどかったね…」
「そんなことないよ…気にしてないよ!私は…」
姉は、突然こっちを向いて立ちあがり、私の肩に手をおいた。
「トモ美!あんたは、まだ若い!アタシも若いけどね!」
「うん?」
「アタシらには、未来があるんじゃ!これからの楽しい人生があるんじゃあ!明るく前向いていこう!気にせられん!これからを考えにゃあいかん!」
「そうやね。ほんとやね!お姉ちゃん!」
柱時計が鳴った。
「ええ!もう十二時?」
「お姉ちゃん、ホタルもおらん!」
「いっかん!早う寝んと!」
「お姉ちゃん、先に歯磨きして!私もすぐに行く!」
「それでは」「それでは」
「今宵はここまでに致しとう存じまする」
洗面所からもどると、姉はフォークギターを弾いていた。
曲は「ロンリー仮面ライダー」。
ゆっくりとしたメロディーが夜風に響く。
私の部屋の窓にもホタルが一匹。
曲にあわせるように明滅していた。
父よ母よ妹よ 終
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