10
自分でも不思議だった。顔を見ないで電話で話している時は、胸を痛めるほど妹のことをいとおしんだのに、顔を見た瞬間からまるですべてが存在しなかったかのように消滅している。
「そっかァ、片仮名じゃなかったんだ」
典子は少し消沈気味な言い方をする。
その瞬間、佑介は思いをあらためた。あれだけ自分のために心配し、兄のために惜しまず協力してくれた妹に対して、少しでも煩わしく感じたことを恥じた。
「そんなにがっかりすることないよ。典子が片仮名じゃないかというヒントを与えてくれたから解読できたようなもんだ」
佑介はやっと本音をいうことができた。
「ほんとに? 少しは典子役にたったのかなァ」
「少しどころじゃなくて、大いに手助けをしてくれたよ」
佑介はあらためて妹の顔を見た。
「よかった。あたしどうしようかと思った、お兄ちゃんにもしものことがあったら」
「よせよ、そんな縁起でもないこと」
「だってェ……。でも正直いってどうだった? 死ぬと思った?」
典子はいまだからそうなのか、ゲーム感覚で訊いてくる。
「そんなわけねえだろ。オレには真行寺さんと茜、それに弘務がついてくれてたんだからな」
寝転がっていた佑介は、半身を起こして少しムキになっていった。
「じゃあさあ、みんながいなかったらどうしてた?」
「――」
佑介は、胸をえぐるような問いかけにすぐとは答えることができなかった。
典子のいうとおり、暗号を無事解読することができたのは間違いのない事実だが、自分ひとりでやったわけではない。もし、この強力な助っ人がいなかったら、ひょっとしてあのふたりと同じような目に遭っていたかもしれないと思った。
「間違いなく、死んでた」
「やだァ」
典子は泣きそうな顔になっている。
「でも、ほら、こうやって無事に帰ってきたんだから、いいじゃないか。あとでどうやって解読につながったか教えてやるからさ……」
「うん」
母親の由美江が店を片づけて座敷に顔を出した。
「佑介、コーヒーでも飲む?」
息子が久しぶりに帰ったような優しい言い方をする。
「いや、普通のお茶がいいな」
佑介は無事に実家に戻ったことを感じたかった。
やがて、白い湯気を立ち昇らせた湯呑とせんべいの入った菓子器をお盆に載せて、由美江が座敷に戻った。
2本の指先だけで湯呑を持ち上げ、旨そうにお茶をすする佑介。典子は座卓に肱をついたままお茶よりも先にせんべいに手を出す。ぼりぼりと乾いた音を立てて嬉しそうな顔をする。佑介はやっと家に帰った気がした。
由美江は両手で湯呑を支え持つようにしながらにこやかに子供たちを眺めている。まるですべてがなかったように、まったくあのことに触れる様子がない。はたからみたら、まるで最初からメールで人が死ぬなんてことは信じていないといったようにも見えるし、おぞましい出来事から自力で脱け出して来た我が子をそっとしておいてやりたいといったふうにも見受けられた。
「佑介、お風呂どうするの?」
お茶を半分ほど飲んだ由美江は、佑介を気づかっていう。
「入りたい」
「じゃあ、追い炊きしてこようか」
由美江は湯呑を置いて立ち上がろうとする。
「ああ、でももう少しあとから」
「どうして?」
「あと25分が必要なんだ」
「25分?」
由美江は意味がわからないといった顔をする。典子は黙ってせんべいを口に入れながらふたりの会話を聞いている。
「あと25分したらみんなにLINEすることになっている。無事なことを報告するための」
由美江は、そうすることが当然なことのような顔のままなにもいわずにお茶を啜った。
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