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「別にって、なにか用があるからここにいるんだろ?」

 警官は手にした懐中電灯を足元から顔までを舐めるように這わせる。その瞬間、得体の知れない恐怖感が足元からせりあがって来た。

「ちょっとその自販機にジュースを買いに来たんです」

 佑介は思いついた作り話を口にする。

「こんな時間にかね?」

 警官は相変わらず猜疑の鋭い目で見る。

「はい」

「まあいい。君の名前と住所、それに電話番号を教えてくれるかな」

 警官は突然事務的な口調に変わっていた。

 いまの佑介の内心は穏やかではない。警察官に職務質問されるなんて生まれてはじめてのことだ。これからどんな手順で物事が進められるかまったく見当がつかない。

時間がひどく気になる――。

焦燥がじりじりと締め上げてくると同時に、もしこんなパトロール警官のために自分が死ぬようなことになったら――そう考えると急に腹の中が熱くなった。

 手にしたスマホの時計を盗むようにを見る。わずかな残り時間に鼓動が烈しく鳴った。想定外の事態に躰が拒否反応を起こしている。

 しかし、ここで時間をロスすることになればそれこそ死んでも死に切れない。佑介は、しかたなく住所と名前を正直に伝えた。

「この住所といったら、ここからすぐのところにあるアズマ商店街のあたりじゃないのかね?」

 近くの居酒屋で飲んでいたのか、よれよれのジャージを羽織った中年の男が、珍しい物でも見るように、何度も振り返りながら咥え煙草で通り過ぎて行った。

「そうです。アズマ商店街にある『サイクルショップ・サクラ』が僕の家です」

「そうかね。佐倉さんとこの息子さんか」

 警官の口振りでは自分の家を知っているようだった。

「はい」

「そうか。最近はこのあたりも物騒になったから、あまりうろうろせずに早く帰りなさい」

 これまでとは打って変わって優しく親切な口調になっていた。

「はい、ジュースを買ったらすぐに帰ります」

 佑介は深く頭を下げた。

 パトカーは赤いテールランプを見せてゆっくりと遠ざかって行った。あとには知らぬ間に元の暗い闇が音もなく戻ってきていた。

 21:56――残された時間はあとわずかしかない。

しかし門が閉ざされている以上どうすることもできない。なぜこんな所に門なんかあるのだろう。これが神社ならば、躊躇なく入ることができたのに――。

 佑介はあきらめの気持を持ちかけた時、正門の横に潜り戸があるのに気がついた。

(ひょっとして、あそこから入れるかも……)

 佑介は時間に背中を押され、決心して取っ手に手をかけると、半信半疑のまま押してみた。意外にも潜り戸は意外と簡単に開いた。おそらく檀家が急用で訪ねて来た時のために開けてあったのだろう。

ほっと胸を撫で下ろしながら、一旦寺の中の様子を覗ってから足を踏み入れる。

(もう大丈夫だ!)

 思わず笑みが洩れた。と同時に、強張っていた全身からすうっと力が抜けていった。本堂の脇にある対の防犯灯がやけに明るく見えた――気のせいだろうか。スマホを取り出して時刻を見る。11時を1分だけ過ぎていた。

 そういえば、あのふたりは期限の時間の1時間後に死んでいる。とすると、まだ安心はできない。少なくともあと59分は様子をみないといけない――佑介はほとんど明るさのない境内でしばらくそのままでいた。静寂が耳の痛くなるほど伝わってくる。

 そのとき、どこからか金木犀の匂いが漂ってきた。

(そうか、もう年中行事である時代行列の季節が訪れた。祭りには弘務と茜を誘ってみようか――)

 そんなことを考えていた時、まるで話しかけてくるかのように、足元から虫の音が聞こえてきた。


 佑介は、体内に血液が流れるのを確かめるようにしながら庚安寺を出た。

肩透かしを喰らった気分のまま家に向かってペダルを踏む。軽いのか重いのかよくわからない。自転車で5分足らずの距離なのに、やけに家までが遠く感じた。

やっと大通りの信号の赤さが目に入った。通りを越えて50メートル向こうが家だ。タイミングよく信号が青に変わる。少し得した気分で思い切りペダルを踏んだ。

目を凝らすと、店の灯りが点いているのが見えた。佑介は不思議に思いながら家に向かって自転車を走らせると、店の前に黒いふたつの人影があるのに気がついた。母の由美江と典子だった。佑介の帰りをふたりして待っていたのだ。

「ただいま」

 佑介は何事もなかったように取り繕っていう。

「大丈夫なの?」

 よほど心配していたのだろう、由美江の最初の言葉がそれだった。

 由美江と典子は佑介が庚安寺に寄ってきたことを知らない。

「別にどってことない」

「お兄ちゃん、お母さんとふたりでずいぶん心配してたんだよ。……でもよかったね、暗号が解けて」

 典子は母親の腕にしがみつきながら笑顔を零す。

「うん」

 佑介は自転車を片付けながら背中で答える。

「佑介が帰ったから、店を閉めるよ。典子手伝って」

「はーい」

「なんでこんな遅くまで店開けてんの?」

 佑介は、心配で店を閉めることができなかった母親の気持を忖度することなくいう。由美江はそれに答えずシャッターに手をかけた。

 座敷に上がると、ずいぶんと時間をへだてていた空間のような気がした。

「ねえ、ねえ、お兄ちゃん結局暗号はどうやって解読したの?」

 典子は、神経を使い果たして座敷で大の字に伸びている佑介顔を覗き込んだ。

「結局あれはローマ字だった」

無事家へ帰ったことを実感しながら躰を憩めていた佑介は、うとましく思ったのか、ぶっきらぼうに返事をする。

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