6
佑介は弘務と別れたあと、家に帰る途中で後悔をした。
メールのことを弘務に話さなかったほうがよかったんじゃないだろうか――。自分さえ黙っていればそれですんだはずなのに、結果的に弘務を巻き込むことになってしまった。
半信半疑ではあるが、もし暗号が解けなかった場合、自分は死を余儀なくされる。その時、経緯を知っている弘務には重い後悔が残るに違いない。
しかしもう遅い。苦悩から逃れるために後先を考えずに話してしまった。弘務にそんな思いをさせないためには、なんとしても暗号を解かなければならない。解ければすべてがうまくいく。
理髪店の前を過ぎて家の前まで来ると、閉店は夜の8時としているために、電気はまだ煌々とともっている。夜遅くになんか滅多に客が顔を覗かせることはないが、少しでも長く店を開けておきたいというのが由美江の主義だった。客が来なくても店を開けているだけで心が安らぐといつも子供たちに話している。
由美江は客が来ないのを見計らって夕飯の用意をする。普段は商店街の肉屋から買って来た、コロッケやメンチカツが食卓に並ぶことが多い。それが唐揚げだったり肉団子だったりする。そんな母親の背中を毎日見ながら生活をしている佑介や典子は、決して不満を洩らすことはなかった。
由美江にしてみれば、毎日の食事が大方そんなだから、休みの日曜くらいは母親としての手料理を食べさせたくて、財布の中身と相談しながら惣菜を拵える。それがせめてもの母親が見せる子供への愛情だと思っている。
佑介が部屋に入ってインターネットで調べ物をしていた時、階下から夕食を報せる由美江の大きな声が聞こえた。胸のあたりが重苦しくて食欲のない佑介は、気のない返事をしながら階段を降りる。中学3年の典子は台所で母親の手伝いをしていた。
食卓の皿には佑介の好物であるメンチカツが2枚載っている。しかし、きょうばかりは箸がなかなかすすまない。ご飯を1膳と味噌汁、つけ合わせのキャベツは全部食べたがメンチカツを1枚残した。
「佑介、具合でも悪いの? 大好きなメンチを残して」
由美江は心配そうな顔で佑介を見る。
「別にィ。なにかきょうは食欲がない。ひょっとしたらオレ、風邪ひいたかもしれん」
佑介はメールの件を正直にいうことができず、思いついた口実を口にした。
「気をつけてよ。じゃあ、お風呂はどうするの?」
「ひどくなると嫌だからきょうはやめとくよ」
佑介はそういい残して自分の部屋に閉じこもった。
部屋に戻って机に向かった佑介だが、到底受験勉強などする気にはならない。やれといわれてもいまの精神状態ではとても無理なことだった。
数学の参考書を開いても活字の間からあの文字が浮かび上がってくる。目を瞑れば目蓋の裏側にあの文字が抜き出てくる。どうしようもない。撞着する気持に泪が出そうになった。動物園のクマのように何度も机と窓とを行き来する。そうすることでなにかヒントになるものが得られるような気がした。
「お兄ちゃん、紅茶いれたんだけど、飲む? お母さんが、躰が暖まるからって……」
と、典子が部屋の外から声をかける。
「ああ、飲むよ。いま開けるから」
襖を開けるのを待っていた典子は、お盆に載せた紅茶とビスケットを机の上に移すと、黙って部屋を出ようとした。
「サンキュ。心配しなくていいからとカアさんにいっといて」
「わかった」
典子は明るい笑顔を残して襖を閉めたあと、もう一度襖を細く開けて、ふふっと笑った。
「なんだよォ」
「ううん、なんでもない」
「おかしなやつだなァ」
佑介は、典子の不可解な仕草に小首を捻りながら紅茶をかじり、ビスケットを頬張った。紅茶の馥郁とした薫りに包まれた時、いくらか気持が和らいだ気がした。
階下では母と娘が同じように紅茶を飲んでいた。
「大丈夫だろうか、お兄ちゃん」
由美江はふちのわずかに欠けたティーカップを手にしたまま視線を2階に向けていう。
「大丈夫だよ、お母さんはお兄ちゃんのこと気にし過ぎだよ。ちょっとくらいは私にも気を向けてよ」
典子は唇を尖らせて不満を洩らす。
「そんなことないよ。典子だって同じように大事なんだから。ただ、体調が思わしくないっていうから、母さんは心配してるの」
由美江は娘に痛いところを突かれて少しムキになっていった。
「わかってないな、お母さん」
「なにが?」
「お兄ちゃんのこと。好きな人でもできたんだよきっと。ご飯が食べられないっていうのは、よくいう恋の病に罹ったからじゃないの?」
「なんでそんなことあんたが知ってるの?」
由美江は躰を乗り出すようにして訊く。
「だって、昨日の夜も遅くまで部屋でごそごそやってたも」
典子は点けてあるテレビに目を向けたまま答える。
「勉強してたんじゃないの?」
「違うよ。なんで勉強するのに動き廻らなきゃなんないのよ。あれはきっと誰かのことを想って寝られなかったんだよ。その証拠に、今朝お兄ちゃんを起こしに行ったら、お兄ちゃん腫れぼったい目をして起きて来た」
「わかったわ、もういいから、あんたも部屋に行って勉強しなさい」
由美江は、息子に対してほのかな悋気が立った。
「はーい」
典子はどたどたと音を立てて2階への階段を昇って行った。
佑介は紅茶を飲んだあと、ふと気づいたことがあって、メールの内容を自分用にもう1枚プリントアウトする。
「こんこうのこんせきはとうしのたましい とうこんのもんせきはちょうこんす」
佑介は逆から読んだり、ひとつ跳ばしで読んだり、呪文のように口ずさんだりした。何度も繰り返しているうちに自分が僧侶にでもなった気がしてきて、昨日墓参りで聞いたお経の節を真似て唱えてみる。
そんなことくらいで解明の道が拓けるとは思わないが、糸口が掴めない以上そうでもしなければ息が詰まりそうだった。
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