第1話「護衛メイドは手を抜かない」
「いってきまーす」
領主の住居にしては質素な屋敷の玄関から浅黄色の服を着た少年が飛び出してくる。現ナーラント市領主の一人息子であるナギスティア・クシミカである。
「ナギ様、ちょっと待ってください」
後から出てきたのは、濃い緑のメイド服を来た
「アキ、
少し早足で歩きながらナギが、隣を歩くアキの方を見る。
「いいえ。魔法を使っていない状態にも慣れるようにと、セフル様がおっしゃっていたので、いまは使っていません」
頭髪と同じ甘栗色のしっぽが風に揺れる。少し楽しそうにも見える。それから二人は、屋敷から大通りまでの間にある小さな商店街に差し掛かる。朝が早いので木造の店舗のほとんどがまだ開店していない。
「ナギ様、アキちゃん、おはよう」
「「おはようございます」」
朝が早いお店の代表格である豆腐屋のおじさんが二人に声を掛ける。白灰色の肌や耳介の無い耳だけでなく、手足の長さも
「アキちゃん、チョコ豆腐の試作が出来たから、今日の分と一緒にお屋敷に届けておくよ」
「「えっ! チョコ豆腐?」」
二人が同時に疑問の声を上げる。
「あれ、聞いてない? この前イヴさんに、なんか食べてみたい味付けの豆腐があるかって聞いてみたら、チョコって言ってたから作ってみたんだけど」
クシミカ家のもう一人の護衛メイド、実の姉であるイヴの名前が出た時点で、アキが思考を放棄する。実の妹にも何を考えているのかわからないのがイヴなのだ。
「あ、わかりました。アキ、今日は帰りが夕方なのでイヴ姉に渡しておいてください」
そう言って、手のひらをひらひらさせて、豆腐屋の前を後にする二人。
「ねえ、アキ……」
「なんでしょう?」
歩きながら恐る恐る尋ねるナギ。少し足取りが重そうに見える。
「まさか、さっきのお豆腐、お味噌汁に入って出てきたりしないですよね?」
しばし、沈黙。思いもよらない指摘に、ちょっと動揺を見せるアキ。
「えっと、さすがのイヴ姉でもそれは……ほら、食後の甘いものとしてなら、美味しそうじゃないですか」
「え~。でも、昨日、食後に食べるのかなと思ってたバナナに、醤油をかけて白ご飯の上にのせて食べてましたよ……」
再び、沈黙。アキの実姉のイヴは最近、妙な味覚に目覚めたようだ。
そんな風に他愛ない会話をしていると足下の石畳の色が変わる。朱雀大路と呼ばれる大通りに出たのだ。この街の真ん中を貫く道路だが、通勤通学の時間には少し早いので交通量は多くない。通りに出て右に向くと真正面に目指す
「もうすっかり弐の太陽が昇らなくなって、壱の太陽だけになりましたね」
「はい。そろそろ冬物の服を出しておいた方が良さそうですね」
ナギの言葉に、アキがしっぽを揺らしながら応える。いつもの通りに大通りをのんびり歩いて行く二人。
小さな交番の前にいる
このクシミカ防壁都市は、ほかの防壁都市と比較して
そんな日常の舞台になっている大通りの両脇の建物は、木造二階建ての質素なものがほとんどだが、最近はおしゃれなお店も増えてきた。ただし、新しい店も突拍子もない色使いはしていないので、それなりに街並みに溶け込んでいる。ここでもやはり時間的に開いているのは朝食を出す店くらいだ。
「あ、あのお店、来週には開店するみたいですね」
「どのお店ですか?」
小さな手が通りの反対側を指さすと、長身のアキが、ナギの目線に合わせてその方向を見る。
「あの硝子張りのところです。朝からカレーを出すお店なんだそうです。王都にある本店では行列が出来てたこともあるそうですよ」
ナギが少し微妙な顔をする。
「朝からカレーは重そうですね。それにしても、王都のお店のことなんて、よく知ってますね」
「ソラリア様の手紙に書いてあったんです」
ソラリアの名前を聞いて、アキが少しにやにやする。
「公女様、貴族高専の近くの寮に入られてからは、よく手紙を送ってこられるようになりましたね」
貴族高専の正式名称はアーハン王国立高等専門学院貴族学部という。国内外から優秀な人材が集まってくるアーハン王国最高峰の高等専門教育機関である。話に出てきたソラリア公女は、通常十七歳で入学する高専に、十四歳から通っている才女である。
「四月に入学されてからは、週に一回くらいの割合で手紙がきます。面白い先生の話とか、ヴァリヤーグから留学して来られた方の話とか、色々教えてくださるのは楽しいんですけど、これだけ多いと返事を書くのが大変です」
ナギが楽しみ半分、面倒くささ半分の微妙な表情をするが、それでも毎回きっちり返事を書いているのを、アキは知っている。
「手紙だと付き纏われないからいいですけど……」
ナギのつぶやきを聞いたアキが、苦笑いをする。ナギの複雑な感情を感じとったからだ。
「あ、信号変わりました。道路渡りますよ」
アキが空いた手を差し出すと、ナギが素直に握って横断歩道を渡り始める。アキは小さな手の温もりを感じながら、これもいつまで続くだろうかと、考えながらナギの手を引く。
そうして道路を渡りきって顔を上げると、そこには下の鳥居と呼ばれる大きな鳥居がある。そこを潜ったところでも石畳の色が変わる。
「
立ち止まって頭を下げるナギに併せて、アキも頭を下げる。
「ナギ様もアキちゃんも、おはよう。今日も早いですね。いまから
「はい」
ナギが素直に返事をする。その大きめのおでこを撫でてやってから、
「先日は、すまないことをしました。ここで不審者を止められていたら、二人を危険な目に遭わせんでもすんだのに……」
「頭を上げてください。相手が
頭を上げさせようとして差し出したアキの手よりも早く、ナギがしわしわの手を掴む。
「アキも僕も今日も元気です。だから、朝、美味しいご飯も食べられたし、こうして大宮司様ともお話しできます。明日もお話しましょうね」
緩くうねった黒髪を揺らして、ナギがにこにこと笑う。それは今日あることを心の底から喜んでいる笑顔だ。つられて
「そうですな。私もそうあれるように今日出来ることをするとしましょう。さあ、精霊神様をお待たせしては申し訳ない。もう行ってください」
「はい。でも、セフル様はたぶんまだ寝てると思います。いつも、僕が行って起こすんです」
「アキ? どうかしましたか?」
動かないアキにナギが不思議に思って尋ねる。普段、あまり結界を意識したことのないナギにはアキの躊躇は分からない。
「いえ、いま行きますよ」
少し緊張しながら一歩を踏み出すアキ。以前とは違い拒絶されることなく鳥居を潜る。そこでもう一度立ち止まって感慨にふける。
「アキ、上まで競争しましよう! よ~い、どん!」
薄明かりに照らされた石造りの参道を、いきなり走り始めるナギ。不意打ちで飛び出した分だけ先行する。
「あ、ナギ様、ずるい!」
そこそこの傾斜だが、
「アキ! 早く!」
いつもは一人で走る参道を、アキと一緒に走れることが純粋に楽しいのだ。そんなナギの横に、ようやく並んだアキが声を掛ける。
「さあ、ナギ様、ここからが本当の勝負ですよ」
そこから一気に加速する二人。やはり、
「もうちょっとです!」
ほとんど同時に階段を上り始める二人。ものすごい勢いで駆け上っていく。しかし、ここでも長身のアキがぎりぎり先に最後の鳥居に飛び込んだ。すぐ後にナギが転がるように飛び込んで行く。いや、実際に玉砂利の上に転がり込んだ。そのまま、大の字になるナギ。その横にアキも座り込む。
「あ~あ、負けちゃいましたぁ」
悔しそうに言うナギ。しかし、アキの方は初めて見たナギの本当の身体能力に舌を巻いた。アキは
それから、それぞれの体操服に着替える二人。その後、アキが着替えた服を洗濯している間に、ナギはセフルを起こしに向かった。もちろん愛の精霊神様はよだれを垂らして未だ爆睡中だった。
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