第4話「護衛メイドは走馬灯を見る」

 アキ! アキ!


 ……そう、それがナギ様に貰ったわたしの名前。


 かつてわたしは生まれたばかりのナギ様の愛の精霊神様の祝福を受けたかのような愛らしさにひとめで心を奪われた。そして、絶対にこの子は自分が護り世話をするのだと心に誓った。それが九歳の時だ。

 ナギ様の母上であるエアリヒ様は、産後の肥立ちが悪く、しばらくは寝たり起きたりの生活をしていた。その為、幼いナギ様を乳母として育てたのはエアリヒ様の護衛メイドでもあったわたしたち姉妹の母エスターテだっだ。

 未熟児として生まれたナギ様は吸う力が弱く母が綿に染み込ませた母乳や山羊の乳を根気よく与えていたのをわたしはよく覚えている。その愛らしい顔を少しでも長く見ていたくて、母に執拗にお願いして代わって貰って乳を与えていたこともあるからだ。エアリヒ様が病院に行くときには護衛として付いて行く母に代わって、姉と二人で取り合いをしてまで赤子のナギの世話をしたこともあった。

 それから少しして犯罪に巻き込まれたエアリヒ様を護って母が亡くなった後は、周囲の助けを受けながらもアキがその代わりを務めるようになった。その時からアキはナギ専属の護衛メイドになったのだ。


 その頃のわたしは、歩き始めたばかりのナギ様に名前を呼んでもらおうと、事あるごとに自分の名前を連呼していた。自分の名前の全てを。

 もちろん「フィリア・キス・フィーア」などと赤子が言えるはずもなく、ナギ様が最初に口にしたのは日に何度か優しく抱いてくれる「かか」様だ。それでも諦めずにわたしは頑張った。しかし、次にナギ様が発したのは時々現れる子煩悩な「とと」様だった。今度こそはとは期待したが、次は孫を徹底的に甘やかす「じぃじ」様だった。

 それからナギ様はどんどん他の言葉を話す様になっていった。それはそれで嬉しいことだったが、自分の名前を呼んでくれないことには少し落ち込んだ。

 今思い返すとわたしはもう一つの過ちにも気づいていなかった。ナギ様にとっては、常に傍にいて口にするまでもなく要求を叶えるわたしの名前は呼ぶ必要がなかったのだ。

 しかし、そんな苦難の日々も突然終りを告げた。元気に走り回るナギ様がわたしの方を振り返って、少し考えてから「アキ」と呼びかけ手招きした。見つけた何かをわたしにも見せたかったのだろうか。目線からわたしのことを呼んでいるとわかった。おそらくナギ様は、わたしが連呼する本名の言いにくい部分を飛ばして、言いやすい部分を繋げてわたしを呼んだのだ。

 ナギ様がナギ様専属の護衛メイドとしての名前をわたしに付けてくれたのだと思った。それからわたしは自分でも「アキ」と名乗る様になったのだ。


 そんな中でアキやナギ様にとって、いえ、クシミカ家にとっても大きな事件が起こる。


 それはナギ様が五歳になった頃だ。恒例の家出(ただし、主犯は別にいる)に出ていたナギ様が防壁付近で見つかった時には、既に高熱を出して意識不明の状態だった。

 いつものことだと余裕を持って捜索していた自分を責めながらも小さな体を抱えてクシミカ邸に駈け戻った。確かに体が弱く頻繁に風邪を引いてたナギ様だったが、こんなに重篤な状態になったことは今まで無かったのだ。

 掛かり付けの医師が来て解熱剤を使っても一向に熱は治まらず、治療魔法を駆使してもやはり効果が無かった。誰もが、どんどん衰弱していくのを何も出来ずに見ているしか無かった。


「ナギ様……」


 その時のことを思い出すと今でも胸が苦しくなる。

 為す術も無くただただ祈るだけの静寂が流れた。その静寂を打ち破ったのは一羽の駒鳥だった。それは愛の精霊神が下界との連絡に使うと言われる式禽しきだった。その駒鳥が愛の精霊神の言葉を伝える。

 それは精霊神宮の拝殿の奥にある鳥居の前にナギ様を連れて来いと言うものだった。ナギ様の父上であるシンケルス・クシミカは、この市の領主として愛の精霊神の言葉をその式禽しきを通してたびたび聞いたことがあるため、疑うこともなく、すんなりとその言葉に従われた。震えるナギ様を毛布に包んで抱きかかえ、強化魔法を掛けて走り出したシンケルス様の後を追って、アキも人狼レアンの脚力で併走する。

 そうして指示された鳥居の前に到着すると、そこには大きな白い牝鹿が待っていた。駒鳥に言われるままにその白鹿の背に小さな体を乗せる。白鹿はナギ様を落とさないようにと気遣ってか、ゆっくりと鳥居をくぐる。追いかけようとしたアキが思わず続いて入ろうとしたが結界に弾かれる。御山おやまの結界は世俗の魔力に塗れた者を受け容れないのだ。目の前に居るナギ様に触れられないのが悔しかった。

 皆が祈るような気持ちで見ていると少しずつナギ様の顔色が良くなる。どのくらいの時間そうしていたのかわからないが、再び白鹿が結界の中から出てくる。慌ててナギ様の体をシンケルス様が抱き上げて確認されると、先ほどまでの熱が嘘のように下がっているという。とりあえずは容態が安定したことを駒鳥が告げると、皆が一様に安堵の声を漏らした。


「ナギ様、よかった……」


 アキも張り詰めていた糸が切れたように泣き出してしまい、同じように泣いていたイヴ姉と供に、ナギ様を抱えたシンケルス様の後を、エアリヒ様に手を引かれて帰ったのをいまでも覚えている。

 そのまま一緒にクシミカ邸に付いてきた駒鳥を通して、ナギ様の体は世俗の憎悪因子オディオを含んだ魔力の中では長くは生きられないことを愛の精霊神は告げる。いまは容態が安定しているが、このままではすぐに再び体調を崩すことになると言うのだ。成長することさえ出来れば、ある程度耐えられる様になるはずだが、世俗の憎悪因子オディオを含んだ魔力の中ではその年齢まで耐えられるかどうかはわからないらしい。


「そんな……」


 誰が呟いたのか今は覚えていないが、あの場にいた誰もが同じ思いだっただろう。

 そこでナギ様が憎悪因子オディオに耐えられる様になるまでの間、自分の所で預かることを提案する愛の精霊神。例え相手が愛の精霊神であっても小さなナギ様を一人で預けることに不安はあったが、それでも命には代えられないと考えて、その提案を受け容れた。

 一日の大半を愛の精霊神のもとで過ごす様になってから、それまでは寝込みがちだったナギ様が、みるみる元気になっていった。

 当初は昼の数時間しか戻って来れなかったが、いまでは夜は普通に家で過ごせるようになった。普通に学校に通う子供と大差のない生活が出来るまでに回復したのである。

 片時も離れずに主人を護り、身の回りのお世話をするのが護衛メイドのあるべき姿だと亡き母エスターテに教わっていたアキにとっては、御山おやまに登っている間は傍にいることができないのは少し悔しいが、いまは必要な事なのだと我慢している。


 アキ!!


 そう、それが私の名前。たとえずっと一緒に居られなくても、アキはナギ様がそう呼びかけてくれる限り、必ずナギ様の下に駆けつけます。


 ナギ様……


「アキ!!! 目を覚まして! アキ!」


 死の淵から舞い戻ったアキが最初に見たのは愛するナギの泣き顔だった。アキはそんなナギの汗でおでこに張り付いた髪に手を伸ばしてかき分けてやる。


「ナギ様、泣かないで……おねしょの後始末ならアキがやっておきますから」


 ナギがその言葉に驚いた様な顔をし、その後ろに立つセフルが笑いを嚙み殺すのを失敗して、変な音を漏らす。


「おねしょなんかしてません! でも、気がついてよかったです!」


 泣きながらナギがアキを抱きしめる。目覚めたばかりで記憶が混濁しているのか、状況がわかっていないアキは、目を白黒させながらなすがままに抱きしめられている。


「いったい何が……そうだ! ナギ様! 怪我は! 怪我はしていませんか!」


 意識が少しはっきりして来たアキは、カルダリアの女に襲われていたことを思い出す。覆い被さるように自分を抱き締めるナギの体を掴み返して寝台から起き上がり、自分の前に立たせるアキ。それから寝台を飛び降りてナギの体を隅々まで確認する。

 体の状態は問題無さそうだなと、その様子を見ていたセフルは小さく頷く。


「待って、アキ、落ち着いてください! 僕は大丈夫です!」

「本当に? 本当に怪我はありませんか? アキによく見せてください」


 アキに全身をべたべたと触りまくられて目を白黒させるナギ。アキはそれでも止まらない。


「なんで裸なんですか! お腹冷やしますよ! ナギ様はすぐお腹壊すんですから! 何か着るものを……ええええ?! アキも裸ぁ?!」


 そこでようやく、自分も一糸まとわぬ姿であることに気づく人狼レアンの護衛メイド。


「相変わらず騒がしい女子おなごじゃのう。少しは落ち着け」


 アキが声のする方向に目を向けると、銀の髪を纏め上げた女性が、美しい褐色の肌を惜し気もなく晒して立っている。見た目はアキと同じくらいに見えるが、纏っている雰囲気が、見た目通りの年齢ではないことを物語っている。アキにはその魔力に覚えがあった。


「あなたは……いいえ、あなた様は、もしかして愛の精霊神セ・フルハ・ルカス陛下でしょうか?」


 セフルがゆっくりと頷くと、アキは向き直って床に正座をする。


「ありがとうございました」


 深々と頭を下げるアキに、セフルの方が戸惑いを隠せない。


「いや、其方そなたを助けたのはナギじゃよ」


 しかし、アキは甘栗色の髪を横に振る。


「いいえ、そのことではなく、五年前にナギ様を救ってくれたこと、それからナギ様を導いてくださっていること。お会いする機会がありましたら、まずそのことのお礼を言いたいと思っていました」


 セフルは、やれやれと云った顔をする。


「律儀なことじゃな。ナギはわらわにとっても愛し子じゃ。そのことで礼を言われる筋合いはない。それよりも、今日の立役者に礼を言ってやれ。ナギが頑張らなければ、其方そなたの魂は肉体に戻れんかったじゃろう」


 そこで再びナギの方に向きなおるアキ。


「まだ状況が飲み込めませんが、ナギ様がアキを助けてくださったんですね。ありがとうございます」


 その瞳を真っ直ぐに見返して頷くナギ。


「このまま話を続けるのも変ですから、先に服を来ましょう。風邪を引いてしまいます」


 長身の女性二人も、少年のその意見には否やはなかった

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