第2話「天使は氷の杭を振り下ろす」

「あ、そろそろおにぎりを作らないといけませんね」


 ナギの部屋の掃除を済ませて台所に向かうのはアキ。本名はフィリア・キス・フィーアといい、ナギスティア・クシミカの専属の護衛メイドである。

 甘栗色の短い髪と同じ色の犬耳と尻尾は人狼レアンの証であり、無族ノーブリングの女性と比べれば長身と言っていいだろう。その長身の体を白襟白袖の濃い緑の裾の長いワンピースで包み、その上から十分な長さの白のエプロンを着けている。全体としてはメイド服と呼ばれる衣装である。凹凸は少ない方だ。

 基本的に小食なナギ様だが、御山おやまから降りてくるといつもお腹を空かしているので、おにぎりを持って鳥居まで迎えに行くのが護衛メイドとしての日課であり、彼女の楽しみなのだ。


「昨日の鯛のアラが少し残ってたはずです。焼いてほぐしてそぼろにしておにぎりに入れましょう。ナギ様は、ちびっこい頃から鯛が好きですからね」


 離乳食を始めた頃のナギ様は少しでも粒が残っていると舌で押し出して受け付けず、かといって量を食べないので水で溶いて薄くしすぎると栄養面で不安だった。ただ、離乳食に慣れた頃に食べさせた鯛のすり身にとろみを付けたものは、いままでと比べるとびっくりするほど食い付きがよかった。それからは離乳食の最後に白身魚を出す様にした。他のものを食べた後でも、それだと食べるからだ。


「んー、そぼろのやつは海苔にするか、朧昆布にするか、それが問題です」


 おにぎりを頬張る姿を思い浮かべるだけで微笑ましい気持ちになってくる。


「さあ、急がないとナギ様をお待たせちゃいます」


 アキは三つ作った小さなおにぎりを手早くラタンの弁当箱に詰めて、竹の水筒と一緒に鞄に入れる。ナギ様は大きなおにぎり一つよりも小さなおにぎり三つの方が、目先が変わるからか沢山食べるのだ。優秀な護衛メイドは食の細いあるじに食べさせる工夫を欠かさないのである。そうして、いつもの準備を整えて、いつもの様にナギ様を迎える為にクシミカ邸を後にして、日常の喧噪を通り抜けると急に静かな空間に入る。愛の精霊神を祀る精霊神宮のある区画である。


「こんにちは~」


 一生懸命おしとやかに歩きながら権禰宜ごんねぎたちに挨拶をして通る。


「アキちゃん、こんにちは。これからナギスティア様のお出迎えですかな?」


 愛族アモルスの老婆が声を掛ける。彼女は、この精霊神宮の責任者であり、精霊教団エレメンタロスの大宮司でもある。


「はい、そうです」


 にこやかに返事をしてから、更に境内を奥まで進み、大きな拝殿の裏側に回るアキ。そこは一般の参拝客は入れない場所である。そこから続く道を進んでいけば、御山おやまの結界との境界線に立つ鳥居が見えてくるはずだ。

 子供の頃はいま向かっている御山おやまに対して、近付き難さを感じていた。この地を守護してくれているという愛の精霊神の巨大な魔力の気配に気圧されてしまっていたからである。しかし、今はその巨大な魔力の気配に大きな安心感すら感じる。それは愛の精霊神がナギ様の命を救ってくれたことと無関係では無いだろう。


「ナギ様、鯛のおにぎり、喜ぶでしょうか?」


 と、歩きながら喜ぶナギの顔を想像して、顔の筋肉を緩める人狼レアンの少女。早くその想像を現実のものにしたいと顔を上げた先にお腹を空かせたあるじが待っているはず鳥居が見えてくる。

 すると、何故かその足下に二つの人影が見える。小さい方の影はナギだ。だとするともう一つの大きな影は誰だろう。他の誰かが迎えに行くとは聞いていなかった。アキは嫌な予感を覚えて走り出す。ほとんど同時に小さなナギの影が大きな影と交差する。人狼レアンの嗅覚が風に混じった血の匂いを嗅ぎ取る。その匂いがアキに状況を伝え激昂させる。明らかに何者かがナギを襲っているのだ。人の入れないこんな聖域の奥に襲撃者が現れる様なことはないだろうと無意識にでも油断していたことへの後悔が一瞬頭をよぎる。しかし、いまはそれよりもナギを護ることだとすぐに思考を切り替え、全身に力を込めて一気に速度を上げる。

 全速力で走りながらも、エプロンの裏から苦無くないを取り出すと、同時に心の中で、発動コレル! と唱えてメイド服の袖に仕込まれた術式石プロト・ペトラを使って材質強化の魔法をかける。木製の苦無くないがそれだけで鉄より固くなる。その強化された苦無くない人狼レアンの腕力で襲撃者に向かって投げつける。


 ビュッ!


 アキの手を離れた苦無くないは、空気を切り裂いて飛んでいく。直撃すれば命も奪いそうなその攻撃を、ナギを襲っていた黒衣の女は右手を軽く振ってあっさりと叩きおとす。


「だぁれ? いきなりこんなもの投げつけたりして。危ないわね」


 その間に駆け寄ったアキはナギと女の間に体を割り込ませる。


「お前こそ誰だ! 何故こんなことをする!」


 傷だらけのナギを見ればアキにも目の前の女が敵であることがわかる。その為、ナギの名前を口にして余計な情報を与える様なことは避ける。


「こんなことって、おでこちゃんの怪我のこと? それは誤解だわ。おでこちゃんが抵抗しなければ傷なんか出来なかったのよ」


 黒い外套を巻き込むようにして顔のほとんどを隠している女は、長身の人狼レアンのアキを少し見上げるようにして腕を組む。


「その人、僕の手足をへし折って持って帰るって言ました」


 ナギがアキの後ろから女の言葉を再現する。


「そうよ。その方が暴れなくて面倒がないかと思ったのに、おでこちゃんが逃げ回るから、可愛い顔に傷が付いちゃったのよ」


 女が悪びれもせずに話している間に、肩に掛けていた鞄の紐に手を掛けて、いきなり大きく振り回して女に向けて投げつけ、それと同時に襲いかかるアキ。

 魔力を帯びていない鞄で相手に傷を負わせることは、ほとんど不可能である。物理攻撃に強い防御結晶バリアの魔法でなくても、薄い魔力隔壁ウォールの魔法で簡単に防げてしまうからだ。それでも、鞄が自分の顔に迫ってくれば、条件反射で身構えてしまうのが人間の自然な動作である。アキはその隙を狙って攻撃を仕掛けた……はずだった。しかし、黒衣の女は顔に向かってくる鞄には全く反応せずに、アキの拳をあっさり躱してしまう。鞄は魔力隔壁ウォールの一種である体表保護スキンにあたって鳥居足下に落ちる。女は何事も無かったかのように、上体が伸びきったアキのお腹に下から持ち上げる様に手を添える。次の瞬間、アキの体はくの字に折れ曲がり、ゆっくり倒れこむ。

 女の手の平には、いつのまにか魔法で練り上げられた魔力の塊が現出していた。高密度の魔力はそれだけで十分な攻撃になるのだ。詠唱がなかったことをみると術式石プロト・ペトラを使ったのだろう。

 倒れたアキに意識を向けることもなく、身構えるナギに顔を向ける黒衣の女。その背後で、アキが破けたメイド服の脇腹をさする様にして立ち上がる。アキは人狼レアンの強化された筋力で女の攻撃を受けきったのだ。


「いまのを耐えちゃうの? さすがケダモノね」


 気配を感じて振り返った女が感心した様な表情を見せる。

 アキはその顔を睨みつけながら、相手の意識を自分に向ける為の言葉を口にする。


人狼レアンのアキをケダモノと呼ぶ上に、魔力球による攻撃……貴様、カルダリア人だな」


 カルダリア人とは、ここアーハン王国から見て大陸の反対側に位置する神聖カルダリア皇国に住む者のことだ。かの国では、アキたち人狼レアンを含む獣人族モンストローズス風族エルフたち霊人族サマノスは人間とは認められていない。せいぜいが家畜扱いだ。そして、戦闘の際には魔力を球体状に圧縮した魔力球と呼ばれる風魔法で戦う者が多いと、アキは聞いたことがあったのだ。


「あら、ばれちゃった。まあ、こっちも隠してるつもりもなかったけどねぇ」


 外套と一体化した頭巾を下ろすと赤茶けた髪と彫りの深い顔が現れる。胸元には、カルダリア人が洗礼として記されると言う模様が刻まれていた。どうやら、カルダリアの支配種族の真人ヴェリマではなく、ただの無族ノーブリングの様だ。無族ノーブリングは世界の人口の半分を占める種族であり、ナギも無族ノーブリングである。ただし、黒衣の女の顔つきはカルダリアに多い顔つきに見える。


真人ヴェリマの下僕が、大陸の反対側からわざわざ何の用!」


 言葉でけん制しながらアキは背中に回した指でさりげなく鳥居の方向を示して、ナギに指示を出す。ナギも静かに頷く。


「それはさっきおでこちゃんにも言ったのよ。ここには裏切り者の様子を見に来ただけ。でも、そこへ前から欲しかったものが転がり込んできたから、お持ち帰りしようと思っただけ」


 カルダリアの女が言い終わる寸前に、ナギが鳥居に向かって走り出す。結界の中に入れればナギの安全は一先ず確保されるからだ。ナギも自分がいれば邪魔になるのがわかっているので素直にアキの指示に従ったのだ。


「あら、逃げちゃ駄目よ」


 走り出したナギの足に向けて魔力球を飛ばすカルダリアの女。

 しかし、ナギは何事も無かったかのように走って行く。

 外れたのだと思った女が、アキに背を向けたまま舌打ちをする。その隙を見逃さずに、ただの無族ノーブリングでは逃げられないはず人狼レアンの加速で襲い掛かるアキ。だが、カルダリアの女は振り返りざまに勢い込んで飛び掛かってくるアキの体を蹴り飛ばす。信じられないほどの力で蹴られて軌道を変えられたアキは、走るナギにぶつけられそうになりながらも、その小さな体を抱えるようにして守る。結果的に二人が絡まるようにして地面に投げ出されてしまう。なんとか体勢を立て直そうとしているところへ、


「レサル・ガ・ユゥグス・ティラ……」


 カルダリアの女が詠唱を始める。実魔法ガ・マギアの発動時の低周波音に気付いたアキは、ナギの小さな体を掴んで獣人族の腕力で鳥居に向かって投げ飛ばす。くの字に曲がった体が結界の中に滑り込む。勢い余って木にぶつかりそうになるが、直前で止まる。小さな光が受け止めた様にも見えた。


「……主よ、神の愛を解せぬ愚か者たちの足を、凍てつく刃の群れで貫きたまえ!」


 呪文が完成すると杭状の氷の塊数十本が空間に突然現れて、もの凄い勢いで飛んでいく。


「ぎゃあ!」


 その数本にアキが足を数カ所貫かれて激痛に声をあげる。

 いつものアキならば、十分に回避出来たはずの距離だったのだが、カルダリアの女の攻撃を受けてから、アキの体は思うように動かなくなっていたのだ。


「アキ!」


 結界内に投げ出されたナギが身を起こして声をあげる。ナギに向かって飛んだ氷の杭は結界付近で全て砕け散った為、その小さな体には一つも届いていない。


「来ちゃ駄目です!」


 激痛に耐えながらもナギを制止する護衛メイドのアキ。駈け出そうとしかけたナギが、アキの必死な言葉に動きを止める。


「あらあら、感動的ね。おでこちゃんのペットへの愛情が麗し過ぎて、泣けて来ちゃいそうよ」


 わざとらしく涙を拭うフリをしながら近付いてきた黒衣の女は、アキの太ももに刺さった氷を片手で掴んで引き抜く。


「うぐっ!」


 痛みに呻くアキを冷たい瞳で見下ろしてから、剥き出しの脇腹に引き抜いた氷の杭を抉る様に突き刺す。


「ぎゃああ!」


 柔らかい部分を抉られたアキの白い肌が赤に染まっていく。


「やめて!」


 あまりに非道な光景に、ナギが悲鳴にも似た声をあげる。


「いいわよ。やめても。おでこちゃんが、そこから出てきて、私の魔法でおとなしく眠ってくれるならね」

「だ、駄……ぐぁ」


 必死にナギを守ろうとするアキの言葉を、更なる痛みが引きちぎる。


「このケダモノが! 許しも無くしゃべるな! 耳が汚れる!」


 カルダリアの女が傷ついた腹部を踏みつけにしたのだ。あまりの激痛に気を失ってしまうアキ。動かなくなった人狼レアンの腹部を踏みにじりながら、ナギの方に向きなおるカルダリアの女。


「さあ、どうするのおでこちゃん?」


 その言葉にナギはゆっくりと歩いて結界を出てきてしまう。傷つけられるアキを見ていることに、幼いナギの心が耐えられなかったのだ。


「……アキを助けて」


 目に涙を溜めながら懇願するナギ。それを見て、カルダリアの女は勝ち誇ったような表情で微笑む。


「いい子ね。もうおでこちゃんのペットには何もしないわ」


 ナギの前にしゃがみ込んだ黒衣の女の手の平が、ナギの目を塞ぐように押し当てられる。体を固くして身構えるナギ。女は静かに睡眠の幻魔法ラ・マギアの呪文の詠唱をはじめる。


「レサル・ラ・ユゥグス……しゅの名に於いて、術式界プロト・レイヤーの管理者たるレミィに命じる。この者に深き眠りを与えよ」


 女の詠唱が終わると幻魔法ラ・マギア特有の高周波音も鳴り止む。それを待っていたかのように、ナギの大きめのおでこから女の手が離れると、小さな体がゆっくりと女の胸に倒れこむ。その体を少し揺すって眠っているのを確認すると、女がほっとしたような表情をする。


「この体では、ほとんど力が使えないとはいえ、思ったより手間取ったわね。まあ、しゅにはよい土産が出来たからよしとしましょうか……おでこちゃんのペットはちゃんと始末して置いた方がいいわね」


 そう言って立ち上がろうとしたカルダリアの女に突然一羽の駒鳥が襲いかかる。


「なに!? この鳥!」


 一瞬、女の気が逸れた瞬間、その白い喉から鮮血が噴き出す。


「ごぼっ」


 何が起こったのかわからないまま顔を下げる女。そこには自分の喉に小刀を突き立てる少年の姿があった。少年が目覚めていることに驚きながらも治癒魔法を詠唱しようとするカルダリアの女。しかし、更に大きく動かされた小刀と、吹き上がってきた血液がそれを邪魔する。結局、彼女は何も出来ないまま意識を失った。


「アキ!」


 血を吐き覆い被さって来たカルダリアの女の体を押しのけて、うずくまったまま動かないアキに駆け寄るナギ。


「アキ! アキ!」


 魔力回路を持たない少年には、目の前で血塗れになって倒れているアキを救うすべはなかった。

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