揺籠の中の凪 〜少年は如何にして揺り籠を離れるに至ったのか~

風閂

第一部「一夜十起」

第一章「精霊之神」

第1話「少年は猿梨の実を差し出す」

 人気の無い早朝の参道を小さな人影が元気に駆け上っていく。


「あ、コクワがいい感じに熟してるみたいです」


 明らかに変声期前の高い声は涼やかで愛らしく、緩やかにうねった黒髪の下の素晴らしく広いおでこは、出会った誰もが笑顔になるような華やかさと親しみやすさを纏っている。


「そろそろ採って帰って糖蜜煮にして貰おうかな。パンにつけると美味しいんですよね」


 濃い緑の帯で抑えられた浅葱色の長袖の袍を纏い、生成りの白袴を臑下くらいで緑の紐で縛るという格好は、この辺りのこのくらい年頃の少年の一般的な姿である。


「アキも好きだから喜んでくれますよね」


 決して高級感はないが、作りのしっかりとした衣装が汚れるのも気にせずに、参道の脇の木にするすると器用に登ってしまう。見た目の可憐さと相反して意外にわんぱくなようだ。さらにわんぱくに太い枝を渡って巻きついた蔓の先の小さな緑の実に手を伸ばして摘み取る。


「熟してきたかな?」


 そんなことを言いながら、いつも持っているどんぐりを入れるための小さな袋に入れていく。素晴らしく広いおでこに汗をかきながら夢中になって採っていると、すぐに袋はいっぱいになってしまう。


「うーん、この袋じゃあ、あまり入らないですね。セフル様に大きな袋を貰った方がよさそうです」


 そう言って木から降りようとして、足を滑らせてしまう。


「わぁ!」


 痛みを覚悟して身を丸くした体は、まるで見えない空気の塊の上で撥ねたような軌道を描く。その瞬間、周りに小さな光りが飛び交ったようにも見える。


 どさっ


 お尻から緩やかに地面に着地する。


「あー、びっくりしました」


 一段挟んだことでそれほど衝撃はなかったのか、その声は随分とのんびりした口調に聞こえる。


「助けてくれたのは精霊さんでしょうか? ありがとうございます」


 その精霊が見えている訳ではないようだが、座ったままの少年は律儀に頭を下げてお礼を言う。その目の前に、純白の毛並のかなり大きな鹿が近寄ってくる。角が無いところを見ると雌だろう。


「こんにちは」


 目の前の巨体に恐れもせずにお礼を言う。しばし、見つめ合ったあと、牝鹿はその素晴らしく広いおでこをぺろりと舐める。地面に着いた時少しこすったらしく擦り傷になっていた。

 この山には少年に対して害意を持つものは存在しない。特にこの鹿とはしばしば参道で顔を合わせる仲であり、親しいと言っても良い。


「どうぞ」


 笑顔で先ほど採ったコクワを差し出すと、白鹿は少し躊躇してみせる。


「帰りに採って帰るから大丈夫ですよ。食べて下さい」


 言葉がわかるのか少し頷いたように見える白鹿は小さな手のひらの上の緑の実をぺろりと食べると、参道を横切って反対側の木々の中に入っていった。


「ナギ、そこで何をしておる?」


 白鹿を見送るその頭上から女性の声がする。その声に空を見上げると、そこには橙色の顔をした小鳥が飛んでいる。駒鳥の雌だろう。小さな手の平を差し出すと、まっすぐそこに降りてきた。


「コクワがなってたから採ってたんです」


 もう片方の手で残った小さな実を一つ差し出すと、駒鳥がそれを啄ばみはじめる。


「もっと採ってアキに糖蜜煮を作って貰うので、何か袋をください。セフル様」


 どのような声帯をしているのか、食事中のはずの駒鳥が先ほどの女性の声で返事をする。


「それはよいが、先ほどその木から落ちたように見えたが?」


 声の割にどこか年寄りじみた話し方だ。


「あ、はい。でも、なんか精霊さんに受け止めて貰ったみたいで大丈夫でした」


 あっけらかんとした言葉に、ため息が重なる。


「……とにかく、早くわらわのところまで来い。よいな」


 ナギと呼ばれた子供は立ち上がって、落ちたときに脱げた焦げ茶の運動靴を履き直す。駒鳥が飛び去った方向にしばらく走ると前方に鳥居が見えてくる。小さな体で駆け上る参道はその鳥居を越えてもまだ遥先まで続いている様に見える。しかし、その小さな体で息を切らせて朱色の鳥居をくぐると、見えていた参道ではなく白い小石が引き詰められた不思議な空間に出る。まだ御柱みはしらの太陽が出る前の時間であるはずなのに、昼間の様に明るかった。

 その空間の真ん中で、背後にある木造建築物の厳かさとは対照的に華やかな雰囲気を纏った長身の女性が出迎える。細身だが主張するところは主張した肢体を包むのは、白い布一枚の肌着のような上着に足の付け根辺りまでしかない紺色の厚手の綾織の短いズボンを履いただけ簡素なものだ。それでも、鎖骨を隠すくらいの長さの美しい銀髪と褐色の細長い手足の印象が強く、不思議と貧相な様子には見えない。


「まず言うことは?」


 走ってきた勢いで近づきすぎた小柄な少年には仁王立ちで組まれた褐色の腕しか見えない。


「おはようございます、セフル様。今日は早起きですね」


 ぶつからないように軽く頭を下げる少年。そのほっぺたを褐色の美しい指がしっかりつまんで横に引っ張る。


「そうではないわ! 危ないことはするなといつも言うておるじゃろう」

「ふぁい」


 情けない感じで返事をする少年。


「本当にわかっておるのか? 大怪我でもしたらどうするんじゃ! 男の子じゃからといって、危ないことをしても良いわけじゃないんじゃぞ!」


 ほっぺたをつままれたまま涙目になるその顔を厳しく見つめる黒い瞳が、ふっと微笑む。


「……まあよい。おでこを見せよ」


 言われるままに緩くうねった前髪を搔き上げて、広いおでこを突き出す。しなやかな指先がそこに軟膏の様なものを塗り込んでいく。


「これでよかろう。じゃが、本当に気をつけるのじゃぞ。其方そなたの体は治癒魔法すら受け付けん。この綺麗な顔に傷でも残ったらどうするつもりじゃ。勿体ない。わかっとるのか!」


 その言葉にナギはぶんぶんと頭を縦に振っているが、どこまで反省しているのかはわからない。


「……もう体は温まっておるじゃろうから、運動着に着替えたら、いつもの素振りからはじめよ。それと」


 言葉を区切ってから広場の奥の木造の建物の軒下を指差すセフル。


「袋はあそこに置いてあるから、帰りに忘れずに持てよ」

「はい! ありがとうございます」


 やはり怒られていたことを忘れたかのような元気な返事にセフルは苦笑する。

 それから、白の半袖のシャツに濃い緑の半ズボンの体操服に着替えて来たナギが、真剣な顔で構えをとる。


 ザッ ザッ ザッ ザッ


 白の運動靴が踏み出すたびに足もとの石が小気味よい音を立てる。ともすれば転んでしまいそうな安定の悪い玉石の上で、しっかりと小さな拳が繰り返し前に突き出される。その姿を幸せそうに眺めるセフル。

 御山おやまの外の憎悪因子オディオを含んだ魔力の中では生きられなかったナギが、セフルの下に通うようになってからかれこれ五年が経つ。泣き虫で体も弱く、なにかあるとすぐに熱を出していた小さな子供も御山おやまの結界内の清浄な魔力の中で過ごすうちにみるみる元気になり、セフルのことを家族のように信頼するようになっていった。

 いつもの回数の型を終えると、二人が軽く手合わせをする……と言っても手順の決まった組み手のようなものだ。


「これが終わったら、風呂で汗を流して来い。家から来てきた服は洗っておいてやる。なんなら体も洗ってやろうか?」


 構えられたナギの小さな手に褐色の手を合わせながら、わざと意地悪く言うセフルにナギは怒ったように言い返す。


「赤ちゃんじゃないから自分で出来ます!」


 少し強めに突き出された手を柔らかく受け止めながら、少し前まで洗ってもらっていたくせに、と心の中で思ったセフルだが、口に出しては言わない。最近の彼は小さい子扱いするとむくれるからだ。ただ、セフルにとってはそんな姿も可愛いので時々言いすぎてしまう。

 そんな風に話しながら、ひと通りの組み手が終わるとナギは汗を流すために風呂場に駈け出す。セフルが更衣室に入ったときには、もう服を脱ぎ始めている。妙齢の女性の前で気前よく裸を見せるのは子供の証拠なのだとは本人は気付いていない。彼女がそんなことを思っている間にも、小さな体が浴室に飛び込んでいく。彼女は後を追わずに自分に名称魔法のウォッシュを掛けて汚れを落とす。風呂好きなのだが、いまはすることがあるからだ。お湯の音を聞きながら、籠に入れられた体操服を手に取って、洗濯の魔道具マギギに放り込む。少し魔力を込めると中で服が舞うのが見えるが、すぐに動きが止まる。そこから、取り出した服は既に乾いている。それを畳んでから横の棚に入れ、別の棚からナギが朝着て来た服を取り出すセフル。そこへ湯浴みを終えたナギが出てくる。基本的に少年は烏の行水なのだ。


「今日は少し早く山を降りてもいいですか?」


 体を拭いたナギが、セフルから受け取った服を着ながら尋ねる。頭はまだ濡れたままだ。


「よいが、何故じゃ?」


 セフルは手に持った厚手の大きなタオルで素晴らしく広いおでこを備えた頭をわしゃわしゃと拭いてやる。


「コクワを沢山採るんです。アキに糖蜜煮にして貰ったら持ってきますね」


 されるがままで答えるナギの髪を魔法で作った風で乾かしてやるセフル。


「それなら、午後の授業はテルルが置いていった問題が解けたら終わりでよいぞ」

「ほんとですか?」


 嬉しそうに振り向くおでこを褐色の指が上から鷲掴みにしてもとに戻す。


「まだ、髪がとけておらん。じっとしておれ。それにしても其方そなたは髪が多いのう。今度は切る時は、もう少しすいた方がいいかもしれん」


 セフルは木の櫛で柔らかな黒い髪を後ろからとき終わると、今度は自分の方に向かせて前髪もといてやる。


「じゃが、昨日の様子では時間がかかるんじゃないか?」


 我が意を得たりと言った感じで輝く様な笑顔を見せる。


「昨日寝る前に考えてたらなんとなく分かったような気がしたんです」


 髪を梳き終えたセフルが、少し感心したような顔をする。


「ふむ、それは楽しみじゃな。じゃが、まずは術式の授業をやらねばな」

「はい」


 と、ナギは元気に返事をしてから、座学の教室に向けて走り出した。


 お楽しみの昼食とお昼寝の後、術式の授業と同じ座学の教室の席で自分専用の記録結晶板タブレットと向き合うナギ。手には同じく専用の入力筆ペンシルを持っている。

 ナギの後ろに立つセフルは白のブラウス、黒の背広、ぴっちりした黒のスカートに着替え、太めの黒ぶちが少しつり上がった眼鏡をかけている。胸元までの銀髪は器用に髪留めでひとつにして高いところで纏められている。こだわりの女教師姿らしいが、ナギにはよくわからない。


「ユナ、テルル先生に頂いた問題を出してください」


 その言葉に応えて透明だった結晶板に三頭身に簡略化された巫女服の姿絵が現れたかと思うと、画面の端から幾つかの図形が書かれた問題を引っ張り出す。それを見たナギは躊躇せずに数式を書いて問題を解き始めた。

 セフルはナギに様々な知識を与えてきた。それは魔法が中心のこの揺籠結界クレイドル世界でただ一人、魔力回路を持たないナギの生きる力にする為だ。鍛錬と称して幾つかの武術を学ばせているのも、魔法が使えず、魔法による身体強化も出来ないナギが少しでも身を守れる様にする為だった。


「ほほう」


 以前は理解できていなかった部分も理解できている様子にセフルは感心する。その場ではすぐに出来ない問題も、何故か少し間をあけると急に解ける様になることが多い。今回もそうなのだろう。


「はい」


 最後まで解き切ってから、後ろに立つセフルに体を傾ける様にして答えを見せる。

 ユナと呼ばれた案内役が再び現れると、ナギの書いた答えに赤丸を付ける。


「ふむ、出来ている様じゃな。しかし、これが解けるとは……」


 細くしなやかな褐色の指が自慢げな顔の少年の白い頬に優しく触れる。


「じゃあ、コクワを採りに早く降りてもいいですか?」

「よかろう。じゃが、その前に」


 セフルが細く引き締まった腕を広げる。それを見たナギは立ち上がって振り返るが、そこで少し躊躇する。


「どうした?」

「なんだかこれ、赤ちゃんみたいで恥ずかしいです」


 最近のナギは大きくなってきたことを主張したいのか、時々そんなことを言う様になってきた。


「ふん、其方そなたなど、わらわにとってはまだまだ赤子じゃ」


 広げた腕で少年を抱きしめるセフル。少年も憮然とした顔をしながらも特には逆らわない。


「こうして、其方そなたの体調を診ておるのじゃ。恥ずかしいくらい我慢せい」


 ナギにもそれはわかっているのか、セフルの細いが十分に柔らかな肉体に黙って包まれている。その体温の高さに彼女は数百年の孤独が癒されていくのを感じる。


「昨晩は悪夢を見たか?」


 少年は少し考えてから、静かに首を横に振って否定する。以前は頻繁に見ていた悪夢も最近は滅多に見なくなった。


「朝方に発作は起こさなんだか?」


 今度はすぐに大きく頷く。


「かなり丈夫になってきたのじゃな。そろそろ次の段階に進む頃かの」

「次の段階?」


 抱きしめられたままのナギが小首を傾げる。その可愛さに少しくらっとするセフルだが、なんとか堪えて話をすすめる。


「詳しくは明日じゃ。今日は早く降りてコクワを採って帰るが良い。道の脇にある分くらいは全部とってもかまわんぞ。他のものたちが喰う分はまだまだあるからの。じゃが、朝の様に落ちぬように気をつけるんじゃぞ」


 ようやく褐色の圧力から解放された少年は、そそくさと身支度を整える。


「今日も、ありがとうございました。セフル様。また明日」


 深い優しさが滲み出る瞳に見送られて意気揚々と山を降る少年。手に持った袋には帰り道の参道脇で採ったコクワがいっぱいに入っている。他に人影が無いのは御山おやまと呼ばれるこの地が世俗の魔力に塗れた者を通さない結界が張られているからである。

 そんな結界の中を躊躇せず進んでいつも迎えが来る鳥居の前に辿り着いくと、少し早いのか、まだ誰もいない。仕方ないので鳥居の脇に座り込んでコクワを一つ口に放り込む。


「んー、すっぱい」


 本当に酸っぱそうな顔をする。まだ熟していなかったのだろう。


「でも、糖蜜煮にするにはすっぱいほうが美味しいって、アキが言ってました」

「何を食べているの?」


 急に声をかけられてびっくりするナギ。振り返ってみると鳥居の向こう側にいつのまにか女性が立っている。もしかしたら精霊教団エレメンタロスへの来客が迷い込んで来たのかもしれないと思い、人見知りながらもきっちりと対応しようとする。失礼があっては大宮司様に迷惑を掛けるかもしれないとの思いが、女の持つ異質な雰囲気に対する警戒心を抑え込んでしまったのだ。


「コクワです」


 全てが豊満な肉体を頭巾つきのゆったりとした黒い外套で頭から覆った女は、少しだけ見える足下も黒のズボンを履いている。


「コクワ? ああ、キウイの小さいやつね」


 今度はナギが首を傾げる。


「キウイ?」

「その実の大きなやつよ。この辺では作ってないのかしら、キウイ」


 結界を挟んでの微妙な距離での会話だが、普段から結界を意識していないナギは、違和感に気付いていない。


「一つくれない?」


 真っ赤な尖った爪を同じ色のぷっくりした唇にあてる。見る者が見れば妖艶な色気を発している様に見えただろう。しかし、そういった機微に疎いナギには子供がおやつを欲しがっている様な仕草に見えてしまう。それでつい、コクワを一つ差し出す。


「ありがとう」


 女は手を伸ばしたかと思うと、結界の外に出た小さな手を掴んで、勢いよく引っ張り出した。


「わあ」


 どさっ


 ナギの小さな体が地面に叩き付けられそうになるが、見えない何かの上に落ちた様に小さく跳ねて優しく地面に降りる。


「あら、精霊に愛されてるのね」


 女が少し驚いた様な顔をしてから、勝手に語り始める。


「こんな体まで用意して裏切り者の様子を見に来たのに、結界が邪魔で困ってたのよね」


 注意深く女を見詰めながら立ち上がるナギ。


「そうしたら、タイミング良くおでこちゃんが降りてくるじゃない。こっちもびっくりしちゃった。これも主のお導きかしら」


 何も言わない少年を見て大人しい子だと判断した女が話を続ける。


「ずっと欲しかった牢屋の鍵が目の前に転がってきたら、拾って持ち帰るのは当たり前よね!」


 言い切らぬ間に地面を蹴って掴みかかる女。もの凄い勢いで伸びてきた女の手をギリギリで横に躱すナギ。女は動きを止めずに更に腕を振る様にして追いかける。その指先を掠めるように小さな体が再び躱す。


「ちっ!」


 小さく舌打ちをした女が小さな体に向けて、予備動作もなく蹴りを放つ。しかし、その蹴りを読んでいたかのように大きく斜め後ろに飛び退き距離を取るナギ。


「やるわね、おでこちゃん。暴れられても面倒だから、手足をへし折ってから持って帰ろうかしら。手足が無くても生きれば問題ないわよね」


 目の前の女の放つ邪悪な暴力の気配が、背を向けて逃げるのは不可能だとナギに感じ取らせる。アキが来るまで生き残ること……とにかく今はその事だけを頭に残し、小さな体に緊張感を漲らせて身構えた。

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