第36話

「ギブソンズ! 人払いをしてアーデン夫妻を部屋へお連れしろ」

 ラーズクリフの落ち着き払った声がして、ヴァイオレットは我に返った。振り返ると、部屋の中まで押し入った野次馬に従僕たちが声を掛け、次々と廊下に連れ出していた。ヴァイオレットの視線に気付いたラーズクリフが、力強い足取りで近付いてくる。

「ミス・メイウッド、すまないが二人に付き添ってやってくれ。何か要るものがあればギブソンズに言いなさい。私も後始末が終わったらそちらに向かう」

 彼は簡潔にそう告げると、従僕に取り押さえられ、顔を覆ってうめき声をあげる男の元へと歩み寄った。ヴァイオレットは大きく息を吐き、廊下に集まって部屋の中を覗き込む客人に向き直ると、優雅に微笑んで言った。

「お騒がせしました。もう大丈夫ですわ。皆さまホールにお戻りになって、パーティーの続きを楽しんでいらして」



***



 燭台の明かりがぽつぽつと灯る渡り廊下を歩きながら、ヴァイオレットはちらりと後方を振り返った。あの後、アーデンはいくらか落ち着きを取り戻し、今はシャノンに寄り添うようにしてヴァイオレットの後をついて来ている。

 あんなに大勢の客人の前で淫らな行為に及ぶだなんて、ふたりともどうかしている。そう思っているはずなのに、ヴァイオレットはどうしてか、ふたりの行動を窘める気になれなかった。恥も外聞も捨ててしまえるほどアーデンに愛されているシャノンのことが、なぜだかとても羨ましかった。もしも襲われたのがシャノンではなくヴァイオレットだったとしたら、アーデンのように怒り、慰めてくれる人はいただろうか。

 答えはわかりきっていた。そんな相手はヴァイオレットにはいない。だからこそ、そろそろ認めなければならなかった。アーデンとシャノンが心から愛し合っているということを。


 アーデン夫妻に充てがわれた客室の前では、既に数人の使用人が待機していた。部屋に入ると、窓際に置かれたラウンドテーブルの上に、傷の手当てに使うための道具が一式揃えて並べてあった。ヴァイオレットは扉の前で待機していた従僕に入浴の準備をするよう言いつけて、シャノンとアーデンをそれぞれ椅子に掛けさせた。

 アーデンの指の付け根の骨頭部位は赤く腫れあがり、皮がずる剥けて痛々しいものだった。あれだけ強打を続ければ、こうなることはわかっていただろうに——酷い痛みがあっただろうに、彼はあの暴漢を殴ることをやめられなかったのだ。彼はシャノンが傷付けられたことに胸を痛め、加害者の理不尽な行いに憤っていた。

 ヴァイオレットは茶色い薬瓶の蓋を開けると、アーデンの傷付いた手の甲に軟膏を塗ってやった。ガーゼと包帯で患部を保護すると、今度はシャノンに向き直った。シャノンの身体には外傷は見られなかった。けれど、柔らかな白い肌には生々しい赤い痕が散りばめられており、それが彼女の心を酷く傷付けたことは明白で、ヴァイオレットは苦々しい思いで唇を噛み締めた。

 ヴァイオレットがふたりを看ているあいだ、従僕たちは部屋に鋳鉄製のバスタブを運び込み、入れ替わりで浴槽に熱いお湯を注いで入浴の準備を整えた。うつむいたままアーデンに寄り添うシャノンのことが気に掛かるけれど、あとはふたりに任せたほうがいいだろう。ヴァイオレットはテーブルの上を手早く片付けると、小声で使用人に声を掛け、ふたりを残して部屋を出た。

 音を立てないように扉を閉めて、ふうと小さく息を吐く。突然、扉が開かれて、驚いて振り返ると、アーデンがドアノブに手を掛けたまま、廊下に顔を出していた。彼はヴァイオレットの姿を見つけると、部屋を出て彼女と向かい合い、少し照れ臭そうに表情を和らげた。

「ヴァイオレット、実はきみに謝らなければならないことがあるんだ」彼は言った。「きみたち姉妹と初めて口をきいたあの夜、こっ酷くきみに引っ叩たかれて、ぼくは思ったんだ。きみは淑女レディとは言い難い、美しいのはうわべだけの、感情的で手の付けられない女だって。けれど、それは間違っていた。あのときのきみの行動は、充分に淑女らしく冷静だったとわかったんだ。ぼくがきみの立場だったら、きっとぼくを殺していただろうから」

 ふたりのあいだに沈黙が降りた。ヴァイオレットは何も応えることができなかった。胸の奥がくすぐったくて、あたたかな感情に満たされていく気がして、ただ穏やかに微笑んだ。アーデンも同じような気分だったのだろう。彼は皮肉に口の端を吊り上げて、いつもどおりの小憎らしい笑顔を浮かべると、帽子を持ち上げる真似をして、軽く頭を下げて、部屋の中へと戻っていった。


 ——人を疑う必要がないというだけのことで、こんなにも穏やかな気持ちになれるなんて。

 ヴァイオレットは窓辺に向かい、幾何学模様の格子越しに夜空を見上げた。もうシャノンの心配をする必要はない。アーデンはきっと、誰よりもシャノンを大切にしてくれるはずだ。

「ミス・メイウッド」

 唐突な呼び声に振り返ると、ラーズクリフが足早に廊下を歩いてきた。彼は素早く周囲を確認して、ヴァイオレットに訊ねた。

「レディ・アーデンの様子は?」

「落ち着いています。アーデン卿も、今は冷静になって、妹についてくれています」

「それはよかった」

 彼の強張っていた表情が和らいだ。窓際の壁に背を預けると、彼はほっと息を吐いた。

「あなたも、怪我はなかった?」

 ほとんど無意識に口にした言葉に、ヴァイオレットは自分で驚いた。ラーズクリフは目をまるくして、何を言われたのかわからないとでも言うように口を半開きにしていた。

「暴れるアーデンを取り押さえたときに、腕を痛めなかったかしらって……ごめんなさい、お節介だったわ」

 慌てて誤魔化すようにヴァイオレットが言うと、彼は「いや……」とつぶやいて、それから言った。「残念ながら、どこも痛めていない。怪我でもしていれば、きみに手当てをしてもらえたのに」

 茶化すようなその言葉に、思いがけず笑いが漏れる。ヴァイオレットはくすくす笑いを堪えながら、ラーズクリフと向き合った。

「ありがとうございました、伯爵様。妹と義弟のために、色々と手を煩わせてしまいましたわね」

「私の屋敷で起こったことだ。主人としての責任は果たすよ」

 彼が軽く肩を竦める。ヴァイオレットは彼と反対側の窓際の壁に背を預け、毛の長い絨毯を見下ろして、彼に訊ねた。

「……妹を襲った男はどうなるのかしら?」

「今夜のところは縛り上げて見張りを置いておくが、明日には警察に引き渡すよ。鼻の骨が折れたようだから、医者にも診せるかもしれないが……」

「そう……」

 彼はそれ以上何も言わなかった。けれど、その場から立ち去ろうともしなかった。穏やかな月の光に照らされた、完璧な造形の彼の横顔を見上げながら、ヴァイオレットは思った。アーデンがそうしてくれたように、私も認めなければならない。頑なに否定し続けていたその考えを。

「ワルツを途中で切り上げてしまってごめんなさい」

 ヴァイオレットが言うと、彼は前を向いたまま「構わないよ」と笑った。彼女は続けた。

「あなたは正しかったわ、伯爵様。アーデンが……彼も、妹を大切に思ってくれてるって、私、ようやくわかったの。きっとはじめから、私がシャノンの心配をする必要なんてなかったんだわ」

「心配くらいはするだろう。きみ達は姉妹なのだから」

「私はふたりのことを誤解していたの。シャノンはちゃんと自分の気持ちを話してくれていたのに、私の勝手な考えでふたりを別れさせようとしてた。きっと私、あの子をたくさん困らせたわ」

「仮にそうだとしても、彼女はわかっているはずだ。きみが誰よりも彼女のためを思って行動していたことを」

「でも、私たちは双子なのよ。言葉なんてなくても意思疎通ができているべきだわ。もっとはやくに気付いてあげるべきだったのに……」

 不意に光が遮られて、ヴァイオレットが顔を上げると、すぐそばにラーズクリフが立っていた。彼の手が頬に触れるまで、ヴァイオレットは身動きが取れなかった。指先で輪郭をなぞられて、ようやく思考がはっきりして。ヴァイオレットが咄嗟に身構えると、彼は慌てた様子で一歩後ろに退いた。それでわかった。彼は、ただ私を慰めようとしたんだわ。

「ごめんなさい」

「いや、いい。私が悪かった。驚かせてすまなかった」

「嫌だったわけではないの。ただ、誰かに見られたら誤解を受けると思って……」

「私はそれでも構わない」

 彼に悪気はなかったのかもしれない。けれど、無責任なその一言は、ヴァイオレットを苛立たせるには充分だった。

「嘘つきね。私と結婚するつもりなんてないくせに」

 辛辣な物言いが気に障ったのか、ラーズクリフが眉を顰めた。だが、ヴァイオレットは構わずに続けた。はっきりさせておかなければならないと思った。彼に伝えなければいけない。ヴァイオレットが彼を受け入れられない、その理由を。

「私だって馬鹿じゃないわ。あなたに好意を告げられたあと、冷静になって考えたのよ。あなたは言っていたでしょう。守るべきものがあるって」

 彼は何も言わなかった。ヴァイオレットの瞳から目を逸らすこともしなかった。

「あなたは根っからの貴族なのよ。いつも人の行動と感情を切り離して考えて、最も合理的な答えを出している。そんなあなたが守ろうとするものですもの、容易に想像がつくわ。あなたが守ろうとしているのは、貴族としての矜持よね? その肩書きに恥じないように領地を繁栄させ、領民を守る責任を果たそうとしているんだわ。ラーズクリフ伯爵家の名誉のために、あなたは何一つ恥じるもののない結婚をしなければならない。私のような中産階級の小娘ではなく、由緒正しい名家のご令嬢と結婚しなければならないのよ」

 それこそが、ヴァイオレットが彼の好意を受け入れられない理由だった。相手の男が自分に好意を抱いているかどうかくらい、彼女にはすぐわかる。ラーズクリフが彼女に向ける想いは、今まで彼女に求愛してきた数多の紳士たちと違いがなかった。唯一、彼が他の紳士たちと徹底的に違うのは、彼は今ヴァイオレットに求愛していても、将来的にはヴァイオレットの元を離れ、完璧な政略結婚をするつもりでいることだった。

 自分に正直になってしまえば、ヴァイオレットは彼に惹かれていた。ベルベットのようになめらかな彼の声が好きだったし、普段は酷く傲慢なのに、時折り穏やかに細められる碧い瞳も好きだった。緊迫した空気を一瞬で吹き飛ばしてしまう可笑しな物言いも好きだった。彼がラーズクリフ伯爵でなかったら——アーデンのようにひとりの女性を愛し、結婚の誓いを守ることができる男であれば、ヴァイオレットはきっと、彼の求愛を喜んで受け入れることができたに違いない。幼い頃に抱いた夢とはかけ離れているけれど、優しい夫と子供に囲まれた幸せな未来を夢見ることができたはずだ。

 けれど、現実は違う。彼はラーズクリフ伯爵で、貴族らしい完璧な政略結婚を望んでいる。たとえヴァイオレットに愛を囁き誘惑しても、その先の未来を約束してはくれないのだ。

 ヴァイオレットの考えは間違っていなかったのだろう。ラーズクリフは低く唸り、彼女から目を背けた。小さな溜め息が、ひとつ零れる。

 ぐっと両手を握り締め、ヴァイオレットは告げた。

「話を聞いてくれてありがとう。もう行くわ。伯母が心配するもの」

 彼は何か言いたげに口を開きかけたものの、やがて口を引き結び、ゆっくりとうなずいた。

「そうだな。きみもゆっくり休むといい」

「ええ、そうするわ。おやすみなさい、伯爵様」

 くるりと踵を返し、ヴァイオレットは薄暗い廊下を歩き出した。突き当たりの角を曲がりかけたところで、ベルベットのようになめらかなあの声が、おやすみと囁いた気がした。


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