第37話
部屋に戻ってきたトリスタンには、どこか吹っ切れたような清々しさが感じられた。彼はシャノンと目が合うと、ゆったりとした足取りでシャノンに歩み寄り、躊躇いがちに口を開いた。
「どうしてあの男に着いて行ったりしたんだい?」
穏やかで優しい珈琲色の瞳が、まっすぐシャノンをみつめていた。シャノンは椅子に掛けたまま彼を見上げ、ドレスのスカートを膝の上で握り締めた。
「ごめんなさい、私が悪かったの。あなたがご婦人と一緒だったと聞かされて、その話を信じてしまったの」彼女は正直に言った。「つまり、あなたがレディ・バークレイと、逢い引きしていると思ったの」
「なぜ?」トリスタンがシャノンの前に跪き、彼女の手にそっと触れた。「ぼくはきみと婚約してから彼女には会っていない。他の女性とだって、一度も関係していないのに」
彼の真摯な言葉が胸に刺さる。シャノンはごくりと息を飲み、震える声を押し出した。
「ずっと不安だったからよ。あなたにとって、私はお飾りの妻に過ぎないんじゃないかって」
「ぼくはずっと、きみと夫婦になりたいと思っていたよ。ぼくとの関係を親密なものにしたくないのは、きみのほうだと思っていた」
トリスタンの声は優しく、落ち着いていた。シャノンはうつむいて首を振った。
「結婚の誓いを立てる前から、私はあなたに惹かれていたわ。気付かなかった? 私はずっと、あなたの一番になりたかったのよ。あなたが私を求めないのは、私があなたの一番ではないからだと思っていたの」
「馬鹿だな、ぼくは」彼はそうつぶやいて、シャノンの手を握る手に、ぐっとちからを込めた。哀願するような眼差しが、まっすぐシャノンに向けられる。「きみの信頼を得ようと必死だったんだ。一度でも選択を間違えたら、二度と信じてもらえないと思っていた。きみとキスできる口実をみつけたとき、ぼくがどれほど舞い上がっていたかわかるかい? きみにキスするたびに、どれほど情熱を持て余していたか……」
「いいえ、わからないわ」
シャノンは言った。本当は、心のどこかで気付いていたのかもしれない。けれど、それをすんなり受け入れてしまえるほど、人に愛された経験がシャノンにはなかった。彼に愛されているのだとシャノンに信じさせることができるのは、彼だけだ。
自然と身を乗り出して、シャノンは彼の頬に触れた。
「わからないのよ、トリスタン。だから、教えてくれる……?」
彼の愛の証を求めて、シャノンはゆっくり瞼を伏せた。ややあって、吐息が唇を掠め、唇が重なった。ふたりは鼻を擦り合わせ、柔らかな唇の感触を、唇から伝わる互いの熱を味わった。愛おしい想いがあふれて、もっと深く彼を味わいたくて。大胆に彼の頭を抱き寄せると、彼はくすりと笑って唇を離し、キスの続きをせがむシャノンを宥めるように頬を撫でた。それから彼はシャノンの手を取り、慎重に立ち上がらせた。
「落ち着いて。まずは身体を診せてくれ。愛を交わす行為というのは、ときに怪我に障るものだからね」
急にキスを止められて、シャノンは不服だった。けれど、彼女は素直にうなずいた。彼はシャノンの後ろに回り込み、壊れ物でも扱うかのように、ひとつひとつ丁寧にボディスのボタンを外していった。彼の繊細な指の動きがドレスの布越しに伝わってくる。彼にドレスを脱がされながら、シャノンはいつのまにか、くすくすと声を漏らして笑っていた。
「どうして笑っているのか聞かせてもらえるかな、ダーリン?」
彼が愉しそうに言ったので、シャノンは答えた。
「ええ、もちろんよ。聞いてちょうだい、トリスタン。おかしいのよ。私、さっきまで本当に怖くて泣きそうだったの」
ぱさりと音がして、ドレスが足元に輪を作った。
「泣きそうだったんじゃなくて、泣いていたじゃないか」
「そうね。でも、考えてもみて? 初めてあなたに会った夜だって怖かったはずなのに、私、泣かなかったでしょう? だから、どうしてかしらって考えたのよ」
手際良くコルセットの紐を解きながら、彼は笑ったようだった。少しざらついた声が、からかい混じりにシャノンに言った。
「なるほどね。それで? 答えはわかった?」
「ええ、わかったわ」
そこで身体の締め付けが解かれ、呼吸がうんと楽になった。床に落とされたコルセットを見下ろして、シャノンはくるりと彼を振り返った。
「あなたを愛してしまったからよ、トリスタン」
トリスタンは呆気に取られた顔で、何度も目を瞬かせていた。シャノンは胸の前で両手を結び、祈るようにその想いを口にした。
「今の私はあのときとは違うの。あなたを愛しているのよ、トリスタン。だから、他の男性に触れられるのが堪らなく嫌だったんだわ」
ドレスの山から抜け出して、シャノンは彼に身を寄せた。逞しい胸に頬を預けると、彼の匂いと体温と、胸の鼓動に感覚が満たされた。シャノンはうっとり瞼を閉じて、彼の背中に腕を回した。
「ねえ、わかって? あなたじゃなければ駄目なのよ。私はもう、あなたのものなの」
優しい手のひらに首筋を撫であげられて、促されるままに上を向く。先ほどよりも念入りに、シャノンを味わうように口付けながら、彼はシャノンの肩を撫で、シュミーズの肩紐を滑り落とした。シャノンは身体を抱くようにして両腕で胸を隠した。もうシャノンの肌を隠してくれるものはない。最も秘められた部分を守る、一枚の下着を除いては。
「ズロース?」
彼が驚いた声を漏らした。シャノンは目を瞬かせ、まるくなった彼の瞳を見上げた。
「ええ、そうよ。好みではなかった?」
「いや……まあ、ドロワーズ姿を想像していたからね」気恥ずかしい笑みを浮かべてそう言うと、彼は「脱がしてもいいかい?」と囁いた。シャノンはこくりとうなずいた。紐を解かれたズロースが、すとんと床に落ちる。彼が、ごくりと喉を鳴らした。
そうして、シャノンは一糸纏わぬ姿でトリスタンの前に立った。彼はシャノンの身体をひととおり眺めると、シャノンの上腕を手のひらでそっと撫で、くるりと背中を向けさせた。
「怪我は……ないみたいだ。痣にもなってない。とても綺麗だよ、ダーリン」
耳元で彼があまく囁くから、恥ずかしさを誤魔化すように、シャノンはヘアピンに手を伸ばした。軽く手首を掴まれて、驚いて彼を見る。
「髪は上げたままにしておこう。濡れた髪でベッドに入るのはあまり得策とは言えない」
「……ええ、そうね」
トリスタンの言葉にうなずくと、シャノンは差し出された彼の手を取って、バスタブの湯の中につま先から身を沈めた。温かいお湯が身体中に沁みて、緊張がほぐれていく。シャノンは幸せな溜め息を吐いた。かたりと小さな音がして、トリスタンが石鹸を手に取った。シャノンは慌てて首を振り、彼の手を掴んで止めた。
「待って、だめよ。あなたは手を怪我しているでしょう?」
「いいから、じっとして」
彼は穏やかにそう言って、石鹸を泡立てて、シャノンの両肩に手を置いた。親指で頸を揉みほぐしながら、首周りを、肩を指圧する。心地良いマッサージに浮かされて、目を開けていられない。
「とっても気持ちいいわ」
溜め息混じりにつぶやくと、彼がふっと笑った気がした。鎖骨をなぞる指先が、まるく円を描きながら下へと降っていく。掠めるように乳房に触れられて、シャノンは慌てて飛び起きた。
「待って、トリスタン。それ以上は親密すぎるわ」
シャノンが抗議しても、トリスタンは満足気に微笑んだだけだった。「ぼくは……」そう口にして、シャノンの耳元に唇を寄せて、彼はあまく囁いた。「これからきみと、もっと親密な行為に及びたいと思っているんだけど」
彼のざらついた声には抗い難い魔力があって、シャノンはごくりと息を飲んだ。彼は腕捲りをしていたけれど、シャツの袖がバスタブの湯を吸って、すっかり濡れてしまっていた。日焼けした腕が濡れたリネンに薄っすらと透けていて、堪らない色気があった。
「わかっているわ。私も同じ気持ちだもの。でも……でもお願いだから、ベッドまで待って?」
震える声でシャノンが頼むと、彼はいつもの皮肉な笑みで言った。
「了解だ、ダーリン」
そうして彼は、パーティションの向こう側に颯爽と姿を消した。胸の鼓動が高鳴って、頭が沸騰しそうだった。シャノンは急いで身体を洗い、麻布のタオルで全身を拭うと、真っ白なシルクのナイトドレスに着替えた。
シャノンが入浴を済ませて出て行くと、入れ替わりでトリスタンがバスタブに向かった。彼が入浴しているあいだ、シャノンはベッドに腰掛けて、髪に刺さったヘアピンを一本一本引き抜いた。それから長い涅色の髪をゆるく編んで三つ編みにした。
そう時間も経たないうちに、ドレッシングガウンを身に纏ったトリスタンが現れた。彼は黙ってシャノンをみつめると、ゆっくりと身を屈め、シャノンの唇にキスをした。
「着替えたばかりで悪いけど、さっそくいいかい?」
ふざけた物言いとは裏腹に、彼の瞳は真剣だった。シャノンがうなずくと、彼は誘うように唇を啄ばみながら、手早く腰紐を解き、ガウンを脱ぎ捨てた。あらわになった彼の身体を目の当たりにして、シャノンは目を丸くした。
「おかしいかい?」
彼は笑った。シャノンは首を横に振った。
「いいえ。ただ、想像していたものと違っていたから……」
シャノンが呆然とつぶやくと、彼はまた愉しそうに笑った。
「想像していたのか」
「していたわ。あなただって、私の裸を想像したことくらいあるでしょう?」
「当然だ。毎日毎晩、事あるごとにしていたよ」恥ずかしげもなくそう言って、彼は悪戯な目を細めた。「それで? 実物を見た感想は?」
揶揄うようなその問いに、彼の裸体に目を奪われたまま、シャノンは正直に答えた。
「とっても素敵だわ。でも、ごめんなさい、怒らないでね。私、結婚式の前日に伯母から男の人の身体について教わったのだけど、想像していたものとあなたのものがだいぶ違うから」
「何が違うって?」
彼は露骨に眉を顰めた。
「その……伯母は、男の人の身体には夫婦が交わるための器官があって、それは股の……あいだにぶら下がっていると言っていたの。でも、あなたのそれは、どう見ても……」
トリスタンのそれはどう見ても、ぶら下がっているとは形容し難かった。彼のそれは真っ直ぐに上を向いており、触れた感触はとても硬いのではないかとシャノンには思えた。
シャノンがまじまじとそれをみつめていると、「なるほどね」と彼は笑い、「では、どうしてこんなことになっているのか、説明するところからはじめようか」
そう言って、シャノンをシーツに横たわらせた。
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