第35話
遠ざかる賑やかな楽器の音と人々の声を背に、シャノンは逸る思いで目の前の人影を追った。西翼の廊下はひっそりと静まり返り、聞こえるのは騒がしく胸を打つ心臓の音だけだった。靴音すら飲み込む毛の長い絨毯に、月明かりが美しい幾何学模様を描いている。重厚なオーク材の扉が近付くたびに、息が詰まって苦しくなった。
この長い廊下に並ぶどこかの部屋で、トリスタンが愛人に愛を囁き、その身体を抱き締めている。シャノンに口付けたその唇を白い肌に押し付けている。想像しただけでも身の毛がよだち、シャノンは身を震わせた。
「全ての女性関係を断てとは言わない」だなんて、よく言えたものだと思う。あのときのシャノンは何もわかっていなかった。彼が他の女性と関係するのを黙って見ているだなんて、そんなこと、できるはずがない。他の誰かが彼に近付くだけで、嫉妬でどうにかなりそうなのに。
ミスター・シャーウッドが不意に立ち止まったので、シャノンは慌てて歩みを止めた。これまでに見てきたものと変わらない、何の変哲も無いオーク材の扉がそこにあった。彼は注意深く廊下の様子を窺うと、扉に耳を寄せ、ドアノブに手を掛けた。
シャノンは息を飲んだ。この扉の奥で、トリスタンとレディ・バークレイが睦み合っているのだ。心臓が痛いほどに胸を打つ。喉の奥が締め付けられて、息をするのもままならない。胸元に伸ばしかけた手のひらが、突然ぐっと掴まれた。
シャノンは目を見開いた。いったい何が起きたのか——その答えを導き出す隙も、抵抗する間もなかった。腕を引かれ、真っ暗な部屋の中に投げ出されて、シャノンは絨毯の上に倒れ込んだ。廊下から差し込む月明かりが、男の影を絨毯に映していた。彼は後ろ手に扉を閉めると、未だ動揺を隠せないシャノンを見下ろして、口元に薄っすらと歪な笑みを浮かべた。
「騙したのね」
咄嗟に口にしたその言葉は、驚くほどすとんと胸に落ちてきた。疑う余地なんてなかったのだ。シャノンは思った。私は馬鹿だ。トリスタンは、ずっと私に誠実だった。
「レディ・アーデン」
どこか不穏なその声でシャノンはハッと我に返った。シャーウッドは一歩、また一歩と足を踏み出して、獲物を追い詰める肉食獣のようにシャノンに近付いた。シャノンは後退りながら、素早く室内を見回した。
月明かりに照らされた室内では、部屋の隅の暗がりを除けば、はっきりと物のかたちが確認できた。この部屋は客間のひとつのようで、使われていない暖炉の前にソファが対になって置かれている。壁際には棚やテーブルが並んでおり、壁には額縁に入った風景画が飾られていた。
どうにかしてあの扉を抜けて、この部屋を出なければ。トリスタンの元に戻らなければ。威嚇するようにシャーウッドを睨み付けて、シャノンはゆっくりと立ち上がった。
突然、シャーウッドが飛びかかってきた。シャノンは弾かれたように身を翻すと、扉に向かって走り出した。けれども、彼の動きは素早かった。すぐさま手首を掴まれて、シャノンは背中から絨毯に叩きつけられた。鈍い痛みに顔を顰めた矢先、黒い影がすかさずシャノンにのし掛かかった。
「いやっ、やめて! 放して!」
シャノンはありったけの力を振り絞り、彼の胸を拳で叩いた。身を捩り、必死で逃れようと足掻くシャノンに馬乗りになると、シャーウッドは「しいっ!」と鋭く囁いて、シャノンの口を手のひらで覆った。
「騒がないで、美しい人。怖がる必要はありません。すぐに気持ち良くしてあげますから」
誘うように微笑んで、もう一方の空いた手でシャノンの脇腹を撫であげる。
「レディ・アーデン、あなたは可憐で愛らしい……」
耳元であまく囁かれて、シャノンはぞっとした。シャーウッドが顔を近付けてくる。暴れるシャノンの両腕を彼の手が押さえつけた。彼の唇が真近に迫り、シャノンは懸命に顔を背けた。
「や、めて……助けてトリスタン!」
必死の思いで叫んだものの、喉がかすれて声が出ない。シャーウッドは満足げに舌舐めずりすると、シャノンの首筋に鼻を埋め、熱い唇を押し付けた。喉に、鎖骨に、開かれた胸元に、点々と紅い痕を散らしていく。シャノンはいやいやと首を振り、掠れた声で夫の名を呼び続けた。シャーウッドはチッと舌を打つと、身を起こし、苛立たしげにシャノンを見下ろして言った。
「貴女はまだわからないのですか? 今シーズンの社交場では、貴女のご主人を含め、誰もがミス・ヴァイオレットに熱を上げていた。誰もが彼女の気を引こうと躍起になっていた。けれど私は違う。ずっと密かに貴女を想い続けていたのです。オグバーン氏が主催したあの舞踏会で、貴女を一目見たそのときから……」
シャノンの剥き出しの肩を、舐めるような視線が這った。彼はふたたびシャノンの肌にむしゃぶりつくと、鎖骨のあいだに鼻を押し付けて、忌々しげにつぶやいた。
「それなのにあのアーデンが……ミス・ヴァイオレットに求愛していたくせに、あいつは横から貴女を掻っ攫っていったんだ」
「違うわ!」シャノンは声を張りあげた。「初めは手違いだったかもしれない。でも彼は——トリスタンは誰にも見向きもされなかった私のことを、淑女として丁重に扱ってくれた。私をみつけてくれたのはトリスタンよ! オグバーン氏が主催したあのパーティーで私が魅力的に見えたのは、彼が私に自信をくれたからだわ!」
「馬鹿馬鹿しい!」
シャーウッドは吐き捨てるように言って、シャノンの首筋に歯を立てた。シャノンは呻いた。鈍い痛みが感覚を痺れさせて、腕に力が入らない。シャノンの肌に何度も鼻を擦り付けながら、彼は恍惚として溜め息を吐いた。
「貴女は素晴らしい……柔らかくて芳しくて、魅惑的で」
「ああ、そうだろう!」
突然シャノンの拘束が解かれ、シャーウッドの身体がシャノンから引き剥がされた。続いて耳を覆いたくなるような不快な音とともに、少量の血が絨毯に飛び散った。呆然と見上げたその顔が、激情を滾らせた珈琲色の瞳に映る。トリスタンは素早く上着を脱ぎ、シャノンの肩を包み込むと、すぐさま身を翻した。四つん這いになって逃げ出そうとしていたシャーウッドの襟首を捉え、絨毯の上に引き倒す。
「殺してやる!」
唸るような怒声を響かせて、トリスタンが男に殴りかかった。二度、三度、拳が打ち付けられるたびに、男は喘ぐように声をあげる。騒ぎを聞きつけた人々が部屋の前に人垣を作っていた。
「お願い、通してちょうだい」
聞き馴染んだ声が聞こえて、人垣の隙間からレティが顔をのぞかせた。彼女はシャノンに駆け寄ると、隣に膝をつき、シャノンの顔を覗き込んだ。
「大丈夫? シャノン、怪我はない?」
「アーデン!」良くとおる声がして、ラーズクリフが人垣を割いて現れた。彼は大股で部屋に踏み込むと、トリスタンを羽交い締めにして言った。「やめるんだアーデン! 落ち着きなさい!」
けれどもトリスタンは止まらなかった。彼は獣のように唸りをあげると、ラーズクリフの腕を振りほどき、床の上でのたうち回るシャーウッドにふたたび殴りかかった。
「……トリスタン」
絞り出した声は、無様なまでに震えていた。シャノンは祈るように胸の前で手を握り、トリスタンに呼び掛けた。
「だめ……だめよ、トリスタン……」
ぐしゃりと嫌な音がして、人々が息を飲んだのがわかった。はあはあと息を荒げ、肩を怒らせて、トリスタンがもう一度拳を引く。その瞬間、シャノンは彼の腕にしがみついていた。
「やめて! お願いやめて、トリスタン! 殺してしまうわ……!」
トリスタンは動きを止めた。泣きながら鼻を抑える血塗れのシャーウッドを見下ろして、それからゆっくりと振り返り、シャノンの顔をじっとみつめた。ややあって、珈琲色の瞳に光が射すと、彼はくしゃりと顔を歪め、シャノンをちからいっぱい抱き締めた。
「シャノン……ああ、シャノン、すまない、目を離すべきじゃなかった……ぼくは馬鹿だ、きみをひとりにするなんて……」
何度もすまないと繰り返しながら、トリスタンはシャノンの髪に、こめかみに口付けた。そうして鼻先が触れるほどの距離で、シャノンの瞳を覗き込んだ。
「大丈夫よ、トリスタン。私、平気だわ。あなたが来てくれたもの」
泣き笑うシャノンの頬を、大きな手のひらが包み込む。シャノンが彼をみつめ返した、その瞬間、熱烈なキスがシャノンを襲った。気持ちが昂ぶって治まらないのだろう。トリスタンは我を忘れたようにシャノンの唇を、吐息を貪った。すべてを奪い尽くすような口付けに、身体が熱をあげていく。シャノンが喉を喘がせると、彼はようやく唇を解放し——今度はシャノンを押し倒した。
「……スタン、ねえ待って。人前なのよ」
抗議の声は、すぐさまキスで封じられた。とにかく彼を落ち着かせて、このキスをやめさせないと!
シャノンは手を伸ばし、彼の髪に手で触れた。豊かな髪を指で梳いて——それから彼の頭をしっかりと抱き寄せた。とめどない想いがあふれてくる。シャノンは求められるままに、彼の想いにキスで応じた。
薄っすらと開いた視界の端に、レティとラーズクリフがちらりと映る。ふたりは心底呆れた顔でシャノンとトリスタンを見下ろしていた。
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