第17話

 シャノンたちがプラムウェルに滞在して三日目の朝、父がプラムウェル・マナーに到着した。父は初日に伯爵夫妻との挨拶を済ませると、翌日にはミセス・ドノヴァンとプラムウェルの観光に出掛けたり、そのまた翌日には伯爵と狩りに出たりと、夢にまでみた貴族らしい生活を存分に楽しんでいた。シャノンはアーデンの提案どおりにレティと三人で観光に出掛けたり、レティとふたりで森の散策をしたり、のんびりとした時間を過ごすことができた。

 特に結婚式の前日は、朝から晩までレティと一緒だった。結婚したら離れて暮らすことになるからと、屋敷のあちこちを歩きまわって子どもの頃の思い出話をした。アーデンとは一度も顔を合わせなかったけれど、結婚式の前日に花婿が花嫁に会うのは縁起が悪いとよく言うもので、シャノンは仕方のないことだと思って諦めた。晩餐にはレティと父と伯母と、それから伯爵夫妻が同席したが、アーデンはとうとう顔を見せなかった。


 夜も更けて皆が寝静まった頃、シャノンは純白のウェディングドレスを着たトルソーの前に立ち、牧師の前でアーデンの隣に立つ自分の姿を思い浮かべていた。不思議と緊張はしていなかった。ただ、漠然とした不安が胸の奥で燻っていた。何度か窓の外を覗いては見たものの、アーデンの馬車がまだ屋敷に戻っていなかったからだ。

 結婚式の前夜には、花婿は友人たちと独身最後の夜スタッグ・ナイトを楽しむものだ。誰だってそうするはずだ。シャノンは自分に言い聞かせた。

 ——ほんとうに?

 頭のなかで、誰かの声が聞こえた気がした。

 ——彼は今、本当に友人たちといるの? 美しい愛人と最後の夜を楽しんでいるのではなくて?

 可愛らしいくしゃみが聞こえて、シャノンははっと我に返った。嫌な汗が背筋をつたって流れ落ちる。ネグリジェの胸元をぎゅっと握りしめて、シャノンは固く目を瞑った。何度か深呼吸を繰り返し、気持ちを落ち着けると、彼女はそっとベッドに近付いて、横になって寝息をたてるレティの肩に毛布をかけた。

「ばかね」

 ちからなくつぶやいて、窓辺に向かい、夜空に浮かぶ蒼い月を見上げた。



***



「シャノン、準備はできた?」

 弾んだ声が聞こえて、振り返るとレティが扉の陰から顔をのぞかせた。その後ろに父の姿も見えている。着替えを手伝ってくれたメイドがふたりに向き直り、深々と頭を下げた。シャノンは促されるままに席を立ち、はにかんだ笑みを浮かべた。

 シャノンは純白の婚礼衣装を着て、清楚に着飾っていた。シルクのドレスは金糸や銀糸を使わずに白い絹糸で刺繍が施されており、床まで届くオーバースカートは裾にカットワークレースをあしらったトレーンを引いていた。可愛らしく結い上げられた栗色の髪はシルクのヴェールで覆われて、頭には薔薇とオレンジの花冠を載せている。

「ほんとうに綺麗だわ、シャノン」

 菫色の瞳を宝石のようにきらめかせて、レティが感嘆の吐息を漏らした。

「着替えるだけでも一苦労しそうだわ。大変だったでしょう?」

 ため息混じりにそう言われて、シャノンはにっこり笑って首を振った。

 式の当日、シャノンは朝から婚礼の身支度で、プラムウェル・マナーの一室に閉じ込もりきりだった。といっても、シャノンの仕事は特になく、ただひたすらお人形のように突っ立ってドレスを着せてもらい、鏡台の前に座って化粧や髪のセットが終わるのを待つだけだったけれど。

「忙しかったのは着替えを手伝ってくれたメイドたちのほうよ。私はただじっとしていただけだもの」

 笑い混じりにそう言って、シャノンはレティの姿をまじまじと見た。

 今日の式でメイド・オブ・オナーを務めることになっているレティは、華やかな社交パーティーでの姿とはほど遠い、質素なモスリンのデイドレスを着ていた。紺地のドレスの襟と袖に白いレースをあしらっただけの、シャノンが着たら、それこそ屋敷の使用人に見間違われてしまいそうな地味なドレスだというのに、レティが着ると落ち着いた気品が感じられて、まったく印象が違って見える。

 オグバーン氏主催の夜会を訪れた翌日から、レティは華やかなドレスを着るのをやめてしまった。

「あなたがアーデンと結婚するのなら、私がこれ以上夜会に出る必要はないでしょう? 華やかな都会での自由な生活を、シーズンが終わるまで楽しませてもらうわ」

 本人はそう言っていたけれど、シャノンの結婚のために持参金のすべてを使って欲しいとレティが父に手紙を書いていたことを、シャノンはちゃんと知っていた。地位と財産だけが目当ての打算的な花婿探しから、レティは抜け出すことができたのだ。


「ねえ、シャノン。ちょっといいかしら。式の後はふたりきりになる時間なんてないだろうから、今のうちに話しておきたいことがあるの」

 レティが不意に言った。幼い頃から仲が良かったふたりに気を遣ったのか、父は穏やかにうなずくと、メイドを連れて、黙って外に出て行った。扉が閉まり、部屋が静けさに包まれる。シャノンがソファに座ると、レティはシャノンの隣に掛けて口を開いた。

「……大丈夫なの?」

「何のこと?」

「今夜のことよ。明日の夜からは拒むことができても、初夜の契りだけは拒めないでしょう? 法的に夫婦として認められるためには必要なことだもの」

 レティに問われて、シャノンは目をまるくした。急激に頬が熱くなっていく。

 そうなのだ。今日、これからシャノンはアーデンと結婚する。挙式を終えた夫婦は、結婚披露のパーティーのあと、初夜を迎える。今夜、シャノンはアーデンとそういう行為をするのだ。

 初めて出会った夜の出来事が、ふと脳裏を過ぎる。あのときはまだ彼のことを知らなくて、とても怖い思いをしたけれど、彼の人となりを知った今ならあのような恐怖は感じない。それどころか——。

「……ええ、大丈夫よ。覚悟はできているし、彼はそういうことには慣れているはずだもの」

 シャノンが何気なくそう口にすると、レティは思いのほか驚いた顔になった。

「シャノン、あなた……」

「ねえ、レティ。アーデンは今夜、本当に私を抱くと思う?」

「それは……初対面であんなことをする男だもの。言うまでもないでしょう」

 一瞬言葉を詰まらせて、レティが言った。

 ——でも、彼はあのとき私のことをあなただと思っていたのよ。

 口にしかけた言葉を、シャノンは慌てて飲み込んだ。

 婚約してから今日この日まで、彼は至って紳士だった。シャノンに対して如何わしい真似をするどころか、キスのひとつすらしようとしなかった。シャノンは彼のお飾りの婚約者でしかなく、女性としての価値で言えば、彼の憧れのレティどころか、あの美しい愛人にも劣るのかもしれない。

「そんなに気に病むことないわ。一晩だけよ。今夜を乗り越えれば、あなたは彼に無理に抱かれる必要はなくなるのよ」

 慰めるようにレティが言う。

 そのとおりだ。シャノンはうなずいた。今夜、彼と過ごすことができたとしても、明日からはそうはいかない。あのとき約束したとおり、ふたりはそれぞれ自由になる。お互いに干渉しないでいることを、シャノン自身が約束させてしまったからだ。まさか、自分が彼に惹かれることになるなんて思いもせずに。

 結婚式の前夜、彼が誰とどこにいたって関係ない。ふたりの結婚は茶番に過ぎず、彼はこの結婚で好きでもない相手とありもしない愛を誓うのだ。酷く惨めな気持ちだけれど、シャノンはこの不実な結婚について彼を責めるつもりはなかった。確かに、この結婚はレティの評判を守るためだけのものかもしれない。けれど、彼はシャノンを見捨てることだってできたのに、シャノンの名誉を守るために最善を尽くしてくれたのだから。


「誓います」

 アーデンの一縷の迷いもない声が聖堂に響く。はっとして顔をあげると、牧師の穏やかな瞳がシャノンをまっすぐみつめていた。高い窓から陽の光が降り注ぎ、教壇を厳かに照らしている。低く重厚な牧師の声がシャノンに問いかけた。

「シャノン・メイウッド。汝は、この男を夫とし、良き時も悪き時も、富める時も貧しき時も、病める時も健やかなる時も、共に歩み、他の者に依らず、死が二人を分かつまで、夫のみに添うことを誓いますか」

「誓います」

 顔を上げ、シャノンは言った。

「よろしい。では、誓いのキスを」

 牧師の声に促され、アーデンと向かい合う。薄いヴェールが取り払われて、彼の姿がはっきりと目に映った。銀のベストに紺のジャケットを合わせた婚礼衣装を着た彼は、いつもよりもいっそう逞しく凛々しく見えた。

 たとえ仮初めのものでしかなかったのだとしても、彼は今日まで精一杯シャノンに尽くしてくれた。彼の努力に報いよう。彼がそう望んだように、しあわせな花嫁を演じてみせよう。

 煮詰めた珈琲のように濃い色の彼の瞳をじっとみつめる。薄っすらと瞼を閉じれば、あたたかな吐息が唇に触れた。あの夜の、シャノンのすべてを奪うような激しいキスとは違う、唇が微かに触れ合うだけの優しいキスだった。ふたたび彼とみつめ合い、シャノンは幸せに満ち足りた笑顔を浮かべた。

 

 私は今日、彼と添い遂げることを神に誓った、世界で一番幸せで——愚かな嘘にまみれた花嫁だ。

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