第16話

 結婚式が一週間後に迫ったその日、メイウッド家のテラスハウスに迎えの馬車がやって来た。シャノンはレティとミセス・ドノヴァンとともに、アーデンが待つプラムウェルへと旅立った。

 プラムウェルは広々とした田園地帯が多くを占める、カワード家が代々受け継いで治めてきた土地だという。シャノンは四頭立て四輪馬車コーチに揺られながら、窓の外の景色をぼんやりと眺めていた。

 四方に広がる緑の海原に初夏の陽射しがきらめいて、ときおり農家の茅葺き屋根が小舟のように浮かんで見える。

「素敵なところね」

 向かいの席に掛けた伯母が嬉しそうに笑った。シャノンは窓の外に目を向けたまま、伯母の言葉にうなずいた。


 オグバーン氏が主催した夜会のあとも、アーデンとは式の準備で何度か顔を合わせていた。彼はいつもどおり皮肉っぽくて、けれども親切で優しかった。だからこそ、シャノンは不安だった。あの艶やかで豊満な女性——レディ・バークレイとの関係を、彼に確かめる勇気が持てなかった。言い訳のひとつでもしてくれればよかったけれど、あいにく彼はその必要性を感じていないようだった。

 シャノンはまた、自分自身が抱いている感情にも困惑していた。彼が他の女性と関係を持っていることで、こんなにも不愉快な気持ちになるなんて。

 レティは正しかったのだ、とシャノンは思った。割り切っているつもりでいたのに、いつのまにか、シャノンは彼の愛を求めるようになっていた。彼の優しい言葉はどれも、まやかしに過ぎないのに。彼がシャノンと結婚するのは、レティの幸せな未来のためなのに。いくら望んでも絶対に手に入らないものを、望まずにはいられなくなっていた。


 プラムウェルのマナーハウスは緑の森に囲まれた荘園の中央に位置しており、洋梨のかたちをした湖が屋敷の正面から見渡す限りに広がっていた。白い小道が湖に沿って敷かれていて、手入れの行き届いた庭園に噴水や花壇が彩りを添えている。

 玄関前にはすでに使用人が並んで待機しており、シャノンたちが馬車を降りると、皆一様に顔を伏せて迎え入れた。馬車の到着に合わせて屋敷から出てきたアーデンが、気さくに笑って三人を出迎えた。

「お招きできて光栄です、ミセス・ドノヴァン、ミス・メイウッド。長旅でお疲れでしょう」

「とんでもございません。お天気も景色もよろしくて、とても有意義な馬車の旅になりましたわ」

 以前からアーデンをいたく気に入っている伯母は、心底嬉しそうにそう言った。シャノンがふたりを眺めていると、レティにツンと腕をつつかれた。

「まるで伯母様が彼と婚約しているみたいね」

 くすくすと笑いながら耳元で囁くものだから、シャノンも一緒に笑ってしまった。


 プラムウェル・マナーのエントランスホールは広々としていて、正面の壁の前に豪華絢爛に花を生けた花瓶が飾られていた。板張りの床にはアラベスク文様のペルシャ絨毯が敷かれており、壁のあちこちにもタペストリーが飾られていた。両サイドの壁際から二階へと階段が続いており、宗教画が描かれた天井は高く吹き抜けになっていた。

 初めて貴族の屋敷に立ち入った三人が呆然と立ち尽くしていると、屋敷の奥から靴音が聞こえてきた。やがてエントランスホールに現れたのは、白髪混じりの、けれども威厳に満ちた老紳士と、上品に着飾った小柄な女性だった。

「父と母です」アーデンが言った。「ミセス・ドノヴァンとミス・ヴァイオレット・メイウッド、それから——」

 伯母とレティを順番に紹介して、それから彼は颯爽とシャノンの隣に回り込み、腰に手を添えてシャノンを傍らに引き寄せた。

「こちらが、ミス・シャノン・メイウッドです」

「あなたの可愛い花嫁さんね」

 伯爵夫人レディ・プラムウェルがふわりと笑う。

 シャノンは急に恥ずかしくなって、慌てて顔をうつむかせた。こんな高貴な身分の方に、微笑みかけていただけるなんて。

 プラムウェル伯爵はシャノンを見ても微かに眉を顰めただけだった。けれど、レディ・プラムウェルはとてもシャノンに好意的で、シャノンをあたたかく迎え入れてくれた。アーデンは、ふたりの結婚が熱烈な恋愛によるものだと両親にも伝えていたようで、式の急な日程にも、特に疑問を持たれてはいないようだった。


 伯爵夫妻との挨拶を終えると、シャノンとレティはベッドがふたつある客間に通された。シャペロンのミセス・ドノヴァンには別の部屋が充てがわれ、後日到着予定の父の部屋はその隣になると知らされた。

 晩餐には伯爵夫妻とアーデンも同席していた。うきうきと話をする伯母の隣で、シャノンはひたすら縮こまっていた。レティが料理長の腕を褒めていたけれど、シャノンは緊張しすぎており、料理の味すらわからなかった。



***



 翌朝、シャノンは早くからアーデンに呼び出され、急いで着替えて屋敷を出た。すでに陽は昇っており、朝露が芝のうえで陽の光にきらめいていた。空気は澄みきっていて心地よく、屋敷を囲う森のどこかで小鳥が歌うようにさえずっている。湖の前の白い小道に荷馬車が一台止まっていて、お仕着せを着た従僕たちが、たくさんの荷箱を荷台に積み込んでいた。

「おはよう、ダーリン」

 唐突に声をかけられて振り返ると、アーデンがシャツの袖をまくりながら歩いてくるのが見えた。彼は黒のベストにベージュのブリーチズ、黒い乗馬用ブーツといった出で立ちで、頭にはボーラーハットを被っていた。ゆったりとしたリネンのシャツは襟元のボタンがひとつ外されて、どこか砕けた印象を与えている。シャノンがぼんやりと目を瞬かせていると、彼はシャノンの前を通り過ぎ、荷馬車に繋がれた馬の機嫌を取りはじめた。

「すごい荷物ね」

 シャノンが荷馬車に駆け寄ると、アーデンは不敵に笑って言った。

「散歩に行くとでも思ったかい?」

 茶化すように首を傾げ、足先から頭のてっぺんまで、散歩用のデイドレスと鍔の広いストロー製の帽子で装ったシャノンを見た。

「あいにく今日は、観光に行くわけでもなければドライブに行くわけでもない。近隣の村に慰問品を届けに行くんだ」

 彼はそう言うと、荷馬車に積まれた荷物の山を目線で指した。従僕たちが荷馬車から離れ、彼の従者がうなずき返す。どうやら積荷の準備が整ったようだ。

「いつもあなたが行っているの?」

 シャノンが訊ねると、彼はにやりと笑った。

「いや、いつもは母が行く。けど、たまに帰ってきたときくらい手伝っても罰は当たらないだろう?」

 そう言ってひらりと御者席に飛び乗って、彼はシャノンに手を差し伸べた。


 アーデンとシャノンは荷馬車に乗ってプラムウェル・ガーデンの隣村へと出発した。陽は暖かく、空は青々と澄みきっており、頬に吹きつける風は心地よかった。きらきらと陽の光を反射する湖を砂利道に沿って迂回して、緑の樹々が生い茂る森を抜けると、灰色の茅葺き屋根が樹々の向こうに見えた。

 荷馬車が道を進むにつれて、シャノンは漠然とした違和感を覚えはじめた。堆肥とはまた違う生々しい異臭があたりに漂い、不気味な動物の鳴き声が聞こえてくるのだ。レースのハンカチで口と鼻を覆い、眉間に皺を寄せていると、不意にアーデンが声を上げて笑い出した。

「酷い顔だ」

「だって、酷い臭いだわ。鼻が曲がりそう」

 ムッとしてシャノンが言うと、アーデンは目尻に涙を浮かばせて、茅葺き屋根の家の裏側を目線で指した。見ると、胸の高さほどある柵の向こうに、肌色のなにかがひしめいていた。

「豚だわ!」

「そう、豚だ」シャノンの声にうなずいて、彼は言った。「豚は嫌い?」

「いいえ。でも、めずらしいと思ったの。プラムウェルは田園地帯ですもの。小作人は穀物や野菜や果物を育てるものでしょう?」

「確かに昔はそうだった。でも、近年は鉄道や蒸気船のおかげで海外から多くの農作物が輸入されて、国内の作物よりも安く出回るようになってきてる。農業だけでは採算が取れなくなりつつあるんだ。穀物や野菜を作るよりも、牧草を育てて家畜を飼うほうが効率がいいんだよ」

 アーデンはそう言って、まるで牧師か教師のように、豚の畜産をはじめるに至った経緯をシャノンに説明しはじめた。最近の経済について、海外との貿易について、昔ながらの農業のメリットとデメリットについて、ひとつひとつ丁寧に説明したうえで、各農家と交渉して豚の畜産を勧めていることを。

 彼の独特の口調は耳触りがよく、シャノンは夢中になって彼の話を聞いていた。彼が説明を終えると同時に、思わず口を開いていた。

「先祖代々農地を受け継いできた人々に豚番をさせているの? 彼らにだって誇りがあるわ。容易には受け入れられないはずよ」

「まあね。でも根気よく説得を続けていれば、納得してくれるものもいる。こういうことには忍耐強く向き合うしかない」

 肩を竦めてそう言うと、彼は路肩に荷馬車を止め、御者席から飛び降りた。荷台に積まれた荷物を抱えて茅葺き屋根の家に向かう。家の中から農夫と子供が顔を出し、彼を笑顔で出迎えた。

 シャノンは胸が熱くなった。農夫とその子供はお世辞にも清潔とは言い難く、薄汚い服を着て、肌も泥や埃で汚れていた。けれどもアーデンは嫌な顔ひとつせずに、屈託なくふたりに笑いかけている。シャノンに見せるものとは違う、穏やかで優しい笑顔で。


 アーデンは魅力的な男性ひとだった。好ましい容姿だけではない。彼は知的好奇心が強く博識で、その知識や事業で得た伝を活かし、父親の領地運営に貢献していた。領民の声に耳を傾けて、彼らの暮らしをより良いものにしようと働きかけていた。

 彼の武器は生まれ持った地位ではなく、根気強く他人と向き合う忍耐強さと、分け隔てなく人に接することができる大らかさなのだとシャノンは思った。

 彼はあんな行動に出る必要なんてなかったのだ。時間をかけて誠実にアプローチを続けていれば、彼ならきっと、レティの心を射止めることができた。彼が本当に愛する女性と結婚することができたのだ。


 村を一周して慰問品を届け終えた頃には、すでに陽が傾きかけていた。空になった荷馬車に揺られながら、ふたりはプラムウェル・マナーへの帰路に着いた。

「明日はどうする?」アーデンが言った。「ミス・ヴァイオレットも誘って観光にでも連れて行こうか?」

 優しげに微笑む珈琲色の瞳が、夕焼けのなかでシャノンを映す。シャノンは黙ってうなずいた。

 本当の気持ちは言えなかった。彼はレティのためにシャノンとの結婚を決めたのだから。レティと出掛けたい——たったそれだけの、結婚の誓いに縛られる前の、ささやかな願いを拒めるわけがない。

「あなたとふたりで出掛けたい」だなんて、そんな想い、伝えられるはずがなかった。

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