第15話
人波に紛れてホールを離れ、ラウンジへと向かうアーデンの背中を見送りながら、シャノンはしばらく動くことができずにいた。
心臓が壊れてしまうのではないかと思うほどに、胸の鼓動が高鳴っていた。メイウッド家のテラスハウスを出るまでは誇らしいとさえ感じていたドレス姿を、なぜショールで覆い隠しておきたかったのか——その答えに、今になってようやくシャノンは気が付いた。彼が選んだドレスで着飾れば、彼はシャノンを褒めてくれるからだ。
彼の言葉はどれも皮肉めいた、見え透いたお世辞だとわかっているのに、彼に褒められることを嬉しく思う自分がいた。シャノンがショールを脱ぎたくなかったのは、大胆なドレス姿を人目に晒すのが恥ずかしかったからじゃない。彼に褒めて欲しい——そんな馬鹿げた願望をいつのまにか抱いていたことに、気付いてしまうのが怖かったからだ。
次の曲目の演奏がはじまって、パートナーを連れた紳士たちがホールの中央に集まってきた。人波に押されてホールの隅に追いやられたシャノンは、動揺を隠せないまま壁際に目をやって、伯母の姿を探した。
——寄り道をしないでまっすぐ伯母様のところに戻るんだ。
彼のざらついた、不思議と耳に残る声がよみがえる。彼の言い付けどおり、急いで伯母のところへ戻らなければ。揺れ動く人波の群れを迂回するように、シャノンは壁に沿って歩き出した。
シャノンは不安でたまらなかった。彼女はいつも、夜会では伯母と壁際の席に座り、レティが誰かと踊るのをぼんやりと眺めているだけだった。だから、こんなにも多くの人が集まる場所をひとりで歩いたことなんてなかったし、誰かに置き去りにされるのが、こんなにも心細いものだなんて、思ってもみなかった。
「ミス・メイウッド」
唐突に名前を呼ばれて、シャノンは驚いてあたりを見回した。青いベルベットのドレスを着た美しい女性が、飲み物を振る舞う給仕のトレイからシャンパングラスを受け取りながら、シャノンに向かって微笑んでいた。
見覚えのない女性だ。社交の場に集まる女性に知り合いなんていないのだから、当然といえば当然だけど。シャノンは女性の視線に戸惑いつつも、失礼のないように会釈を返した。
レティに負けず劣らず魅惑的なその女性は、給仕からシャンパングラスをもうひとつ受け取ると、しなやかな所作でシャノンのほうへと歩いてきた。ドレスに隠されたシャノンの爪先から結い上げた髪のてっぺんまで視線をすべらせて、彼女は艶やかに微笑んだ。
「あらまあ、話に聞いていたとおりの初々しいお嬢さんですこと」
シャノンは真っ赤になってうつむいた。レティの他に、こんなに美しいひとがいるなんて。気恥ずかしい思いで見上げると、その女性はシャンパングラスを差し出して言った。
「レディ・バークレイよ。ミス・メイウッド、シャンパンはいかが?」
「ありがとうございます」
シャノンは受け取ったグラスに口を付け、シャンパンを一口飲んだ。口の中で爽やかな酸味がふわりと弾けて、緊張がちょっぴり和らいだ。
「どういたしまして」レディ・バークレイはにこやかに目を細めて言った。「まずはおめでとうと言わせてちょうだい、ミス・メイウッド。今夜はアーデン卿といらしたの?」
「ええ、先ほどまで一緒に。知人に話があるそうで、今はラウンジにいらっしゃるはずですわ」
「あら、可愛い婚約者を放っておくなんて、彼も罰当たりなことをするものね」
レディ・バークレイはそう言うと、シャンパングラスに口を付けた。それから思わせぶりに目を細め、シャノンの顔をじっとみつめた。
「……でも、彼の婚約者がこんなに若くて上品なお嬢さんだとは思わなかったわ。彼ってばわがままだから、相手をするのは大変でしょう?」
シャノンは首を振った。確かにアーデンは自分勝手なところがあるし、皮肉めいたことばかり言うけれど、それを嫌だと思ったことはない。
「そんなことありませんわ。彼はいつも親切で、優しくしてくれます」
「そういうことではないの。確かに彼はユーモラスで優しいけれど、ベッドの中では……あらやだ、こんなお話、この場にはふさわしくないわね」
どこか嘲るようにそう言うと、彼女は身をくねらせて、くすくすと笑いだした。
シャノンは何も言えなかった。必死に頭を働かせて、今しがた交わした会話の意味を考えようとした。
彼女は今、何て言ったの? ベッドの中って……この女性はアーデンとそういう関係なの?
「ごめんなさい、私——」
めまいがして、シャノンがふらついたときだった。
「シャノン!」
高らかに名前を呼ばれて、シャノンははっと顔をあげた。アーデンだ。彼は足早にシャノンに近付くと、腰に腕を回してシャノンを支えた。
「大丈夫かい? 気分が悪いのなら、ミセス・ドノヴァンを呼んで——」
そう言って、あたりを見回そうとして、彼は低く唸った。
「ああ、失礼。レディ・バークレイ、あなたもいらしたんですね」
素っ気なくそう告げる。目を細めてふたりをみつめるレディ・バークレイに背を向けると、彼はシャノンを抱き寄せて、なだめるように囁いた。
「さあ、伯母様のところに戻ろう。きっと疲れが出たんだ。ここのところ、式の準備で忙しかったからね」
それからレディ・バークレイに軽く会釈をして、彼は歩き出した。シャノンは彼の胸に頬を預けたまま、まだあの会話の意味を飲み込めずにいた。
「何を話していたんだ?」
まっすぐに前を見据えたままアーデンが言ったので、シャノンは彼を見上げ、小さく首を振った。
「なにも……」
彼は鬼気迫った珈琲色の瞳でシャノンを睨み付けると、唸るような低音で言った。
「いいかい、ダーリン。彼女に——レディ・バークレイになにを言われたかは知らないが、彼女の言うことを真に受けてはいけない。例の、ぼくを強請りにきたやつというのは、彼女のことなんだからね」
***
ホールの出入り口に通りかかったところで、アーデンは立ち止まった。見ると、エントランスホールの隅に置かれたソファで伯母とレティが話をしていた。何気なく顔をあげたレティは、シャノンとアーデンに気がつくと、ものすごい勢いでシャノンに駆け寄ってきた。
「どうしたの、シャノン! まさかこの男……!」
レティの目が吊り上がる。アーデンは困ったように肩を竦め、皮肉に笑って言った。
「ミス・ヴァイオレット、そうやって一番にぼくを疑うのはやめてくれないか」
事の真偽を問うように、レティがシャノンに目を向ける。ふたりのやり取りがおかしくて、シャノンは少しだけ気を持ち直した。
「なんでもないのよ、レティ。少し気分が悪くなっただけ」
「そう、それならいいわ」
レティがにっこり笑う。それから彼女はアーデンに向き直った。
「でもちょうど良かったわ。アーデン卿、馬車を出して欲しいの。ドレスにワインをこぼしてしまって、気持ち悪くて」
ばつが悪そうにそう言うと、レティは忌々しげに濡れたドレスの胸元を目線で指して、軽く肩を竦めてシャノンに向かって笑ってみせた。
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