第5回「噂の学園一美少女な先輩の、意外な一面」

「おはよー」


 翌朝。理乃りのはいつものように元気よく教室に入ってきた。いつもの風景、いつものふんわり両結び。


 でも、クラスの雰囲気だけがいつもとは違った。それまでのざわつきがすっと消え、誰もが目線を逸らす。


 理乃の笑顔は行き場所を失ったかのように、曖昧に消えた。


「え、どうしたの?」


 不安げに周りを見回す理乃。


「ねえ、たすく


 いつものコミュニティの異変に気づき、俺の席にやってきた理乃が声を潜めて訊く。


「あたし、なにかした?」


「……ちょっといい?」


 俺は理乃と二人で教室を出た。


「理乃、事実だけを言うから」


 人気のない階段下で、俺は努めて冷静に、表情を変えずに切り出した。理乃はかすれた声で「うん」とうなずく。


「例の試験問題漏洩ろうえい事件、理乃が犯人だって噂が流れてる」


「え」


 理乃の瞳が大きく見開かれる。


「うそ、あれってデマだって言ってたじゃない。なんであたしが……」


「出所は分からない。今朝、学校に来たらもう、そういう話になってた。もしかしたら昨日のうちにLINEの裏グループとかで流れてたのかもしれない」


「あたしじゃないよ。なにを根拠にあたしってことになってるの?」


「くだらない話だよ。数学の梅屋うめやは理乃のような娘が好みで、理乃がそれを利用して試験問題を手に入れたって」


 本当は「理乃が梅屋と援助交際している」という話だったが、それをそのまま本人の耳に入れるのは憚られた。


「……梅屋先生が……」


「み、みんながそう信じてるわけじゃないよ。俺だってそんなこと思ってない」


 焦点の定まらない瞳で床を見つめる理乃に、慌てて弁明するように言う。つまらないその他大勢のありふれた自己弁護だ。


「でも、あたしは試験問題なんかもらってないわ。それは本当」


「うん」


「教えてくれてありがと。もう行くね」


 理乃はぱたぱたと走り去っていった。




 昼休み。


 理乃はいつもと同じように、仲のいい友人たちと弁当を食べるために、机を寄せようとした。違うのはその後だ。友人たちはなにかを伝え、ごめんね、と両手を合わせた。理乃は「ううん、気にしないで」と、両手を振って寄せかけた机を戻す。


 俺はいたたまれなくなって席を立った。


 かわいそうだとは思うけれど、男子の俺がそこで手を差し伸べたところで何かが好転するとは思えない。むしろ「ああやって男をたらし込むのね」と、余計に悪くなることだってあるだろう。できることはその他大勢のまま、加害者にならないことくらいだ。


 まったく昼飯ってのは残酷だ。誰と食べようが自由だけれど、自由であるがゆえに、そこに気まぐれは介在しない。一度決まったグループは変わることはない――パワーバランスが崩れ、カーストが変わらない限り。


 そういえば、衣川ころもがわ先輩はお昼はどうしているんだろうか。


 その名を知らないものはいない学園一の美少女。カーストにすら入っていない衣川先輩が誰かと食事をともにしているとは思いがたい。かといって教室で一人で食べているところも想像しづらい。背景レイヤに描かれるほどのその他大勢力を持つ俺ならともかく、存在自体が目立つ衣川先輩にはその居場所すら教室になくてもおかしくない。しかも亜弥あやとは違って帰宅部では部室のようなところもない。


 だとしたら、人気のないところ、普段人が通らないところのどこかだ。部室棟や学級棟には空き教室があるけれど、一人で使うには広すぎる。そうすると――俺は学校の見取り図を頭に浮かべ、その最有力候補、学級棟端の屋上に通じる階段を上がった。空き教室の先にあるその階段を使う人はいないはずだ。そして、思った通り衣川先輩はそこにいた。


「いつもここで食べてたんですか」


 衣川先輩は階段に座り込み、膝に真っ赤なノートPCを乗せていた。傍らにはグミの袋と、図書室から借りてきたらしい本が置かれている。俺が話しかけてもまるで反応せず、一心不乱に文字の剥げたキーを叩き続けている。


 衣川先輩の誰も知らない私生活を覗き見ているような気がして落ち着かない。


「衣川せんぱーい」


 カタカタカタカタ。タイピングの音は止まらない。


 俺は諦めて、衣川先輩が気づくのを待つことにした。


 タイピングに合わせて長い睫毛に縁取られた瞳が左右に忙しく動く。翠の虹彩に大きな黒い瞳孔。その瞳が俺を捉えることはない。最初はちらちらと見ているだけだったのだけれど、まったくこっちに気づかない様子に次第に大胆になった。その瞳に魅入られた俺は、目を離すことができなくなっていた。


 タン、という音でタイピングが止まった。


「ふぅ……ひぃッ!?」


「うおう!?」


 突然の悲鳴に俺は二、三段ずり落ちる。


「ななななななんですか誰ですか……って、祐!?」


「ど、ども……」


「ずっと見てたの? ……やだ恥ずかしい」

 顔を隠すようにPCを持ち上げる。その横から真っ赤な耳が覗いていた。


「それ、私物ですか?」


 俺が指さすと、衣川先輩はPCを膝に下ろして慈しむように天板を撫でた。


「ええ、初めて自分の力で手に入れた子なの」


 意外だった。学園一の美少女が実はぼっちで、PCのことを「子」なんて言うようなコンピュータオタクだったとは思いもしなかった。


「すげえキーボード打つの速いんですね」


 俺は体を起こしながら、素直な感想を言う。


「そんなことないわ。遅くてイライラする」


 衣川先輩はグミを口の中に放り込みながら、心底うんざりしたように言った。


「嘘でしょ、そんなスピードで打てるのに」


「頭の中ではもうできてるのよ。でもその速さにキータイプが追いつかない」


「できてる、て、ああ、これプログラムなんですか?」


 衣川先輩の隣でモニタを覗き込む。真っ黒な背景に緑色の文字が浮かんだウィンドウがいくつも重なっていた。何をするプログラムなのかは分からないけど。


「ソシャゲの乱数調整支援ツールよ。プロキシとして間に入れることでサーバの遅延を計測、それを使ってサイドチャネル攻撃を」


 なにそれどこの言葉? ソシャゲという単語以外まったく理解できないんだけど……。


 俺のクエスチョンだらけの顔に気づいたのか、衣川先輩が「簡単に言えば」と言い直す。


「四回以内に必ず☆五のサーヴァントが引ける。前提条件はあるけれど」


 ガチャなんてランダムなんじゃないのか? どういう仕組みでそんなことが可能になるんだ。そう訊くと、衣川先輩は目を輝かせてものすごい勢いでしゃべり始めた。擬似乱数がどうとかでライブラリがああだからワーカースレッドが共通だとメモリがうんたらとか。完全に思考停止して虚無の表情を浮かべていた俺に、衣川先輩は恥ずかしそうに目を伏せて「ごめんなさい、つい」と謝った。


 なんか、こっちこそ訊いておきながらすいません。


「衣川先輩って、コンピュータに詳しいんですね」


「そう思っていた時期もあったんだけれどね。勉強すればするほど、自分がいかに知らないかを思い知らされるわ」


 それは謙遜には聞こえなかった。学園一の美少女とコンピュータというのがどうも結びつかないけれど、さっきのタイピング速度はすごく慣れている感がある。タイピングが速いからコンピュータに詳しい、というわけではないんだろうけど、きっと毎日毎日、こんなふうに何万字もタイピングしてそうなったんだろうな、と思った。


「衣川先輩はいつもここでお昼食べてるんですか?」


「ええ。静かだし、誰にも邪魔されないから。あ、でも祐ならいつ来てもいいわよ!」


 衣川先輩はまるで友達に秘密基地を明かす小学生のように言った。


 自分の居場所が教室であることは絶対の価値観じゃない。教室が自分の居場所でないと感じるのなら、それ以外の場所を求めることは自然なことだ。亜弥にとってのコンピュータ部部室がそうであるように、この屋上に通じる階段は衣川先輩の場所なんだろう。


 でも、理乃はどうなんだろうか。


 理乃にとって、教室という場所を失うことはコミュニティを失うということと同じだ。しかもその原因がデマだなんて、こんな理不尽なことはない。


「どうしたの、祐。難しい顔して」


 気がつくと、衣川先輩が心配そうに俺の顔を覗き込んでいた。俺が階段を上がると、衣川先輩は傍らに置いた本を手に取って空いた隣を示す。俺は勧められるまま隣に座った。


「今朝、変なデマが流れたせいで理乃がちょっと孤立しちゃった感じなんですよ」


「デマ?」


 俺は理乃が数学の梅屋と援助交際して、その見返りに試験問題を受け取った、という噂を話した。


西村にしむらさんが援助交際しているとどうして孤立するの?」


 衣川先輩は不思議そうに訊いた。


「してないですよ、あいつは」


「答えになってないわ。私が訊いてるのは『どうして孤立するの』よ」


「……あいつはそんなことしません」


「答えになってないわ。私が訊いているのは」


「しませんよ、あいつは」


 衣川先輩の言葉を遮って言う。


「衣川先輩も知ってるでしょ。あいつが大人の食い物にならないために頑張ってること。なのになんでそんなことを言うんですか」


「価値観は人それぞれだと思うもの。もし、西村さんが私と違う価値観で物事を考えたとしても、それは否定すべきことじゃない――それが私の価値観よ」


「じゃあ、俺は理乃がそんなことをしていないと信じるし、そうでないという異論を認めない。それが俺の価値観です」


「……ひょっとして、祐は西村さんのことが好きなの?」


「なんでそんなに一気に俗っぽい話になるんですか! あんなに頑張ってる理乃が、そんなことするはずないですよ。それよりもっと他の方法で試験問題が盗まれた――たとえば、ハッキングとか――」


 俺は自分の言葉にはっとした。


 ハッキングなんて思いつきで言ったようなものだけれど、俺はPCを乗っ取ることができるUSBメモリを目にしてたじゃないか。


「……あのUSBメモリを使えば、先生のPCをハッキングできますよね」


 無意識のうちに声を潜める。けれども衣川先輩はまるで頓着せずに言い返す。


「ハッキングじゃなくてクラッキングね。でも、私じゃないわ」


「そりゃ分かってます。二年の衣川先輩が一年の試験問題を盗む意味がないですから。でも、どうして衣川先輩はあのとき、誰もいない俺たちの教室にいたんですか?」


「近道しようとして」


「うちの教室は空間でもゆがんでるんですか」


 なんでこの人はそんなにクールな表情ですぐにバレる嘘をつくかな。


「衣川先輩が試験問題を盗んだとは思ってないです。けど、結果的に関わってしまった可能性はあるかもしれない。あの日、俺たちの教室でなにをしてたんですか?」


「……」


 重苦しい沈黙のあと、先に口を開いたのは衣川先輩の方だった。


「あのね、これ、読んだの」


 唐突にそう言うと、傍らの本を両手で持って顔の前に掲げた。図書室の分類シールが貼られたその本の表紙には『シャーロック・ホームズの事件簿』と書かれている。


 カーディガンの袖口からちょっとだけ覗く指先が可愛い。爪が短く切りそろえられているのはタイピングの邪魔になるからだろうか。


「祐がなりたがってた人がどんな人なのか、知りたかったの。とっても面白かったわ」


「あの、衣川先輩」


「シャーロック・ホームズが出てくる本っていっぱいあるのね。だから、今度は祐のお薦めを読んでみたいわ」


「衣川先輩」


「映画になってるのもあるんでしょ? 今度一緒に……」


「衣川先輩!」


 衣川先輩は口をつぐむとじっと俺の目を見つめた。緊迫した空気が流れる。


「……私はあのUSBメモリを使ってなにかをしようとしたわけじゃないわ。むしろ、悪用される前に回収しようとしたのよ」


「回収って、どういうことですか? そもそもなんで、衣川先輩がそんな危険なUSBメモリを持ってたんですか」


「……」


 衣川先輩はそっと目を伏せる。せっかく衣川先輩が楽しそうに本の話をしていたのに、空気はぶち壊し。申し訳なくて辛い。


 でも、ここで引いたらダメだ。先生のPCを乗っ取ることができる人間がいたのなら、そいつが犯人に決まってる。そして、それが誰かは衣川先輩が知っているはずだ。


「あのUSBメモリは誰から回収したんですか?」


 その問いにも衣川先輩は答えなかった。


「お願いします、衣川先輩。理乃を救えるのは衣川先輩しかいないんです」


 俺は必死になって頭を下げた。


「無理よ」


「なんでですか!」


「あのUSBメモリが誰のか分かっても、西村さんが犯人じゃないことの証明にはならないから」


「えっ……」


 まったく予想外の言葉だった。衣川先輩は回答を拒絶するようにPCのモニタに視線を落とす。


 まさか。


 まさか、あのUSBメモリの持ち主は――。



 理乃、なのか?

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