第3回「噂の学園一美少女な先輩の、好きな人は……?」

 下校前のホームルーム。


 俺は、担任教師の話を聞き流しながら考え事をしていた。


 学園一のクールビューティ、衣川ころもがわマト先輩、か――。


 確かに、衣川先輩の態度には他人を寄せ付けない冷たさがある。それが鋭利な刃物のような、シャープな美しさであることもわかる。


 でも、それだけじゃない。


 俺に抱き付いてきたときに感じた柔らかさ、熱い吐息混じりの声、朱が差した頬――そこには生身の人間の温かさがあった。いつも見かける、クールな表情だけだったらこんなに心を乱されることもなかったかもしれない。これからはあの温かみは生徒会長だけに向けられるのだと思うと、なんだかやりきれない気持ちになった。


 担任教師は教卓で書類をとんとん、とまとめながら最後に付け足すように言った。


「それから、中間試験の問題が漏洩ろうえいしている、という噂が流れているらしいが、そんなデマには踊らされたりしないように。もし、そういう噂を聞いたら先生に知らせてくれ」


 試験問題の漏洩……?


 教室のざわめきが一瞬、水を打ったように消える。みんな教師の言葉とは裏腹に、

それがデマではなさそうだ、と察したのだろう。ほんとにデマなら報告する必要なんかない。


 しかし、漏洩なんて試験問題を管理している教師側の問題だろうに……。



 下校の時刻になり、校門へと歩いていた俺は、前を歩いている男が生徒会長であることに気づいた。生徒会長だったら生徒会の仕事で毎日最終下校時刻まで残っている、という印象があったからちょっと意外だった。普段なら帰宅部の俺と同じ時刻になることはない。


 生徒会長は持っていた鞄を肩に担ぐと、校門の方に軽く右手を挙げた。


 そこには門柱に背を預け、スマートフォンを手に人待ち顔で立っている衣川先輩の姿があった。


 なるほど、そういうことか。


 衣川先輩はぱぁっと表情を明るくしたかと思うと、すっと表情を消すように澄ました顔で駆け寄ってくる。


「え、うそ」「まじで」「きゃあっ」


 周りの女子生徒たちの黄色い声がさざ波のように巻き起こった。


「待たせちゃったか、ごめんなマト」


「あのっ、一緒に帰ってくれませんか!」


「えっ」「えっ」「えっ」「ええっ!?」


 あっけにとられる生徒たち。ちなみに最後で一番驚いているのは衣川先輩の目の前にいる俺。


 後ろを振り返っても、周りを見回しても、衣川先輩の話しかけた相手らしき人はいない。衣川先輩の後ろに顔を強ばらせた生徒会長がいるだけだ。


「えっと、その、俺、ですか?」


「おいおい、そんな意地悪な冗談するなって。彼が舞い上がっちゃうだろ」


 やれやれ、といった様子で生徒会長が衣川先輩に声をかける。


「だよね」「びっくりしたー」「悲惨ー」


 あはは、と笑みを浮かべる。ちょっと胸が痛いけど、みんなが笑ってるし、雰囲気を壊しちゃいけない。


「行こ、鷹野たかのくん」


「やりすぎだって、マト。ほら、彼もどんな顔すればいいか困ってるじゃないか。悪いな、キミ。マトには後で俺から叱っておくから」


 俺に手を差し出した衣川先輩を、生徒会長が制するように間に入る。


 衣川先輩は生徒会長を振り返って言った。


「誰ですか?」


 氷のように冷たい口調だった。


 一瞬怯んだものの、気を取り直して生徒会長が言う。


「おいおい、今度は俺に対する冗談か? 付き合い始めて早々にやきもち焼かせる作戦かい?」


「……誰ですか?」


 衣川先輩の柳眉が眉間に寄る。誰がどう見ても冗談ではない、素の反応だった。


 生徒会長の表情が口角を上げたまま固まる。


「昼休みに俺たち付き合うことになったじゃないか。冗談もやりすぎると笑えないぞ」


「昼休み……ああ、付き合ったらなにをするのか教えてくれた人ね。あれはとっても参考になったわ。誰かは知らないけれど、ありがと」


「誰かは知らないって……」


「似たような人ばっかりで覚えてられないもの……ごめんね、鷹野くん。待たせちゃって」


「おい。本気でこの冴えないヤツと一緒に帰るつもりか?」


 生徒会長は俺を指さし、怒気を含んだ声で衣川先輩を問い詰める。


「冴えない? 鷹野くんが?」


 衣川先輩は本気でびっくりした様子で訊き返した。


「なに言ってるのか、訳が分からないわ。なにかの冗談なの?」


「……訳が分かんねえのはこっちだよ」


 ぽつりとこぼす生徒会長。二人のやりとりを聞いていた全員の思いが一つになった瞬間だった――俺も含めて。


「さ、行きましょ、鷹野くん。マックやサイゼに」


 マックもサイゼも意味を分かってなさそうな衣川先輩は、俺の手を引いて学校を後にした。


 下校する生徒たちであふれかえる通学路は異様な雰囲気に包まれていた。


 誰もがこちらを振り返り、そして信じられないものを見るように俺と衣川先輩を遠巻きにしている。二度見、三度見当たり前だ。


「ありえねえ」「あんな冴えないヤツがどうして」「男の趣味悪い?」「弱みを握られてるとか?」「弟なんじゃない?」「あんな冴えない弟がいるわけないでしょ」


 ……みんな、冴えない冴えない言い過ぎじゃないですかね。


 衣川先輩はそんなひそひそ話を気にする様子もなく、揃えた両手で通学鞄を提げ、ぴったり俺の隣を歩いている。


 今のこの時間が楽しいか、と言われたら正直微妙だ。歩いているだけでものすごい視線を感じるし、どんな話題を切り出せばいいのかさっぱり分からない。俺は衣川先輩に話しかけることもできず、ただ黙々と歩き続けた。


 恐る恐る衣川先輩の横顔を盗み見ると、そのさくらんぼのような艶やかな唇は少し開いていて、幸せそうな笑みが浮かんでいた。


 やっぱり笑顔がめちゃくちゃ可愛い。無表情な、澄ましたいつもの顔が精密な「美」だとすれば、表情を崩した笑顔は「可憐」だった。


 手持ち無沙汰でポケットに突っ込んだ手になにかが当たった。


 そうだった。


「あの、衣川先輩」


「なに?」


 衣川先輩は食い気味に振り返る。


「これ、衣川先輩のですか?」


 俺はそう言ってUSBメモリを渡す。衣川先輩はそれを見るとあたふたとスカートのポケットを探った。


「ありがとう、確かに私のだわ……それでその、鷹野くんはその中を見た?」


 もじもじと上目遣いで衣川先輩が訊ねる。確かに中は見たけど、きっとそういう意味じゃない。


「いえ、見てないです」


「そう。よかった」


 衣川先輩はほっとした様子でUSBメモリをポケットにしまう。


「あ、あのっ」


「? なに?」


「そ、そのUSBメモリ、使わない方がいいです」


「どうして?」


 衣川先輩はきょとん、として首を傾げる。


「PCを乗っ取られてしまうかもしれないです」


「えっ」


 衣川先輩は驚いたように声を漏らす。そりゃそうだろう、にわかには信じがたい話だ。


「驚いた。さすがね。でも大丈夫よ、これは私のだから」


「そうですか……ならいいんですけど」


 でも、どうして衣川先輩のだったら大丈夫なんだろう。


 USBメモリを返してしまうと、また話題がなくなった。面白い話の一つもできずに、「退屈なヤツ」と衣川先輩に嫌な思いをさせるのが怖い。


 そろそろ駅に着いてしまう。


 なにかしゃべらないと。なにかしゃべらないと失望させてしまう。


 衣川先輩がなぜ、こんなその他大勢に過ぎない俺にそんなに好意――でいいんだよな――を持ってくれているのか、まるで見当がつかない。なぜ好かれているのか分からないから、なにかの拍子に嫌われてしまうかもしれない。あの、恐ろしく冷たい目と口調で「そんな人だとは思わなかった」なんて、言われたら心臓が縮み上がる。


 だからといって「俺のどこが好きなんですか」なんて、訊けるわけがない。そもそも告白されたわけでもないのに、学園一の美少女にそんなこと訊くなんて痛いにもほどがある。


 やっぱり、踏み込まないのが一番なんだろう。何億円だかの宝くじが当たったばっかりに破産した人もいっぱいいると言うし、俺に学園一の美少女は過ぎたる人だ。


 俺は意を決して切り出した。


「衣川先輩――実はその、今日はちょっと用がありまして」


 その言葉を聞いた衣川先輩は「えっ」と絶句して、それからしゅん、と俯いた。銀髪がはらりと顔にかかる。


「それでそのー、ちょっと付き合ってもらえます?」


 そのあまりにしょげた様子に、思わずそんなことを口走る。すると衣川先輩はぱぁぁっと表情を明るくして「うん!」と弾んだ声で返した。


 大丈夫だよな、これ。「付き合う」って言葉、勘違いされてないよな?


 電車に乗り、三つ先の駅で降りると衣川先輩が唐突に訊ねてきた。


「ねえ、あれは何をしているのかしら?」


 その指さす先には小さな公園があって、目深にかぶったキャップとマスクで顔を隠したジャージ姿の女の子が踊っている。


 中学生、いや小学生か。耳にワイヤレスイヤホンを付けていて、どんな曲で踊っているのかは分からないけれども、俺から見てもそのダンスは素人のレベルではなかった。くるりと回転するたびにキャップから飛び出た黒髪のポニーテールが軽やかに舞う。


「ダンスの練習みたいですね。キレッキレだなぁ」


「なんのために?」


「趣味なんじゃないですか? ユーチューブでも踊ってみた、ってよくありますし」


「趣味? じゃあ、あれは誰に強制されているわけでもなくて、お金になるわけでもないってことなの?」


 そんなこと知るわけがない。


「なにかの大会を目指しているのかもしれないですし、ただ単に踊るのが好きなだけかもしれません。分かんないです」


「ふぅん。大会って賞金が出るの?」


「だからその、分かんないです。学校対抗みたいな大会だと出ないでしょうし、一般向けだと出るかもしれないですし」


「ああ、じゃあそういう賞金狙いなのね」


 分かんないって言ってるのに、衣川先輩はなんだか納得したようだった。面倒くさくなってそれ以上は口を挟まなかった。


 それにしても、どこかで見たような雰囲気のある小学生だったな。

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