第038次元 君を待つ木花15
ベルク村の領主ヴィースの家宅は広大な平地の中に建っている。その地面の一部が、地下深くからごっそりと抉られ隆起や陥没などを起こし、もとの平坦で整然とした景色を完全に過去のものとしていた。この事態を招いた元凶は何食わぬ顔でその黄色い眼をギョロリと剥いている。
フィラの次元の力、『巳梅みうめ』
鮮やかな紅色の鱗を持った大蛇は、ベルクの地に再臨した。
「そうだフィラさん、レトが……!」
「ええ、わかっているわ。私に任せて」
フィラはレトヴェールのもとに近づくとその場でしゃがんだ。倒れているレトの顔を覗きこむ。
(気を失ってる……。でもよかった。頭だけはしっかり守っているみたいだわ。頭部の外傷がほとんどない。その代わり、腕や脚に打撲痕が多いけど……。しばらく、立つことはできなさそうね)
レトの身体をじっくりと診ていたフィラの背中に、怒気を含んだ甲高い声が投げつけられた。
「なによなによなによぉ! 3対2なんて、ヒキョウなんじゃなぁい!」
「卑怯ですって? あなたたちがそんな言葉を知っていたなんてね」
「は、ハァッ!? なによアンタ! いきなり出てきて何様のつもりぃ!?」
「私はフィラ・クリストン。この村の、ベルクの民よ」
フィラの臙脂色の瞳に熱が灯る。リリアンは一拍置いたのち、ハッと小さく嘲笑した。
「やっだ傑作ぅ! アンタがフィラねぇ!? いまさら現れるなんて、どーゆう神経してんのよっ! キャッハハハぁっ! オモシロいじゃなぁい。アンタとアタシちゃんたちの次元の力……どっちが強いか勝負したげるわ! ──思穿ッ!!」
リリアンが笛に口元をあてると、ロクは青ざめた表情ですばやくフィラのほうを向いた。
「フィラさん! 下がっ──」
「大丈夫よ」
フィラはロクよりも前へ出た。落ち着き払った声音で、紅色の大蛇『巳梅』へと呼びかける。
「巳梅ッ!」
主の声に反応した大蛇が、その太い首元をねじってリリアンのほうへ顔を向けた。すると大蛇は大きく口を開けて、絶叫した。
「キャアアアアッ!!」
大地が震撼する。空が上下に振れた。──ような錯覚がした。強烈な音波と大蛇の咆哮とが正面からぶつかり合うと、刹那、爆風が巻き起こった。
相殺したのだ。それも拮抗する予兆も見せず。両者の繰り出した力は完全に塵埃と化し、風に乗って吹き抜ける。
「す、っご……」
ロクの口から思わず感嘆の声がもれた。打って変わってリリアンは、金切るような声で喚き散らした。
「はあァッ!? なによいまのぉ! キィィー! どいつもこいつも、大ッキラぁイ!!」
地団駄を踏みあからさまに怒りを露わにしているリリアンを尻目に、フィラは冷静に庭全体を見渡した。
(あの笛の音は巳梅の咆哮でなんとか対応ができる。幸い、縄を使う男の子のほうは岩に挟まってて身動きがとれない。これ以上この場が長引くのはよくないわ。あの子たちの体力もとっくに限界を迎えているはずだもの。はやく終わらせるためにも、私にできることは……──)
「……ィラ、さん」
「レトくん? 気がついたのね、よかったわ」
「ロクを、高く飛ばせ」
え、とフィラは小さく声をもらした。レトの掠れた声はロクにまで届かなかった。驚くフィラをよそに、レトは呼吸を乱しながら言葉を紡ぐ。
「飛ばして、そんな高くない、とこまで……」
「え、なに? なにをどうすればいいの?」
「水路を……」
そこまで言って、レトはまた気を失った。少女とまちがえそうな可憐な顔で小さく寝息を立てている。フィラはぽかんとしてその寝顔を眺めていた。
「フィラさん、レトどうかしたの!?」
「え、いや、それがいま、水路がどうのって……」
「水路……? ──っ! フィラさん下がって!」
ロクが叫んだそのとき。ロクとフィラのもとに音波が奇襲した。即座に対応に躍り出たロクは両手を突き出し、雷電を解き放った。
「アンタ、そろそろ元力も限界なんじゃなぁい? ムリしないでくたばってなさいよぉ、ドブス!」
「そっちこそ……! 大人なんだから、ムリすると体壊しちゃうかもよっ!」
「はああッ!? 調子こいてんじゃないわよ、ガキがッ!」
小さな背中で立ちふさがるロクをフィラは慌てて制した。
「無理はしないで、ロクアンズちゃん! ここは私と巳梅で、」
「ムリなんかじゃないよフィラさん」
「え?」
「やってみせる。守ってみせる。そのための力なんだ!」
ロクとレトの身体が、疲労が、元力が限界を迎えている。
だからなんとかして早くこの戦いを終わらせなくてはいけない。これ以上2人に無理をさせたくない。という一心で共闘を願い出たフィラだったが、どうやらそれは勝手な思い込みだったようだと彼女は身震いした。
「……そう。そうよね。でもお願い、ここは任せてロクアンズちゃん」
「フィラさん」
「私たちの力で、なんとかしてみせるわ」
ロクがこくりと頷いた。フィラは『巳梅』に向かって叫んだ。
「巳梅! もう1度、力強く鳴くのよ!」
『巳梅』が顎を下ろしていく。人ひとり丸呑みできそうなほど広がった喉の奥が、震動したそのときだった。横から飛んできた縄がその頭部に絡みつき、ガチンと鋭牙をかち合わせた。
「そうカンタンには、させねーよ……!」
盛り上がった土の大塊に身体を押し潰されながらも、リリエンは懸命に手を掲げていた。その腕には縄が巻きついている。腕から伸びる縄は、『巳梅』の頭部を捕らえてピンと張っている。言わずもがな彼による奇襲だった。
「さっすがねリリエン! あの鳴き声さえなけりゃ……こっちのモノよっ!」
リリアンは絶好のチャンスだと言わんばかりに狂喜した。笛を持ち上げ、口元に添えようとする。
(ま、まずいわ、どうしたら……! 巳梅はいま口を塞がれててあの音を相殺できない。あの音を直接喰らうわけにはいかないし、なんとかしないと……なんとか、)
『ロクを、高く飛ばせ』
フィラは、すこし前にレトが言っていたことを思い出した。彼がなにを思ってこう発言したのか、その真意までは探れなかったが、彼は苦し紛れにそう告げたのだ。落ちるか落ちないかというところで意識を保ちながら、"ロクアンズを空へ飛ばせ"と、それだけはしかとフィラに伝えた。
信じるしかない。迷っている時間はない。
フィラは意を決した。
「巳梅!!」
その名を叫ぶ。主の声がまっすぐ大蛇のもとへ届く。
『巳梅』は、がんじがらめに縛られた頭でわずかに後方を振り返り──
自身の"尾"を地中で泳がせ、ロクの足元から出現させた。
「──ぅえっ!?」
瞬間。ロクの足が宙に浮いた。それもほんの一瞬だった。彼女は、空へ向けて打ち上げられていた。
「……は? ちょ、ちょっとちょっと待ちなさいよッ! ……あっ、あんな高いとこまで行っちゃったら……──音なんて、届かないじゃないのよぉっ!」
上昇。急上昇。ぐんぐんと引っ張られていく。心地の悪い浮遊感が風とともに纏わりついて──
ロクは、身体を回転させながら、大空の中を泳いでいた。
(う、うそ……! なんで……っ!?)
空の上からは、広大な庭と、それを取り囲む森が見える。『巳梅』によって荒らされた庭の一部は文字通りの惨状だった。ヴィースの家宅から向かい側のほとんどがその有様だということが、空の上からだと十分に理解できた。
しかし。
家宅の、裏庭側。そちらは戦場になっていないため平坦な土地が広がっている。
(……あれ? もしかして)
ふいにロクはあることを思い出した。
『これを仮に家とする。そんで、水源は……』
「水源……」
『それがいま、水路がどうのって……』
「水、路……」
枝先で砂を引っ掻いて描いた、ただの記号みたいな家の絵が、
ぱっと頭に浮かび上がってきた。
『家からちょっとずれたとこの、ずっと真下』
──頭の中にある回路が、かちっと音を立てて、繋がった。
『巳梅』によって荒らされた場所からは水が湧き出てこなかった。もしも本当にヴィースの家宅の近くに大きな水源があるのだと仮定するならば、『巳梅』が荒らしていない領域の地下深くにその水路が流れているということになる。
つまりは、裏庭。
ロクはヴィースの家宅の裏庭のほうを睨んだ。平地が広がっている。なにかを耕しているのか、土地の色が一部異なっているのがかろうじてわかった。
標的とは、これまでとは比にならないほど距離があった。
ロクは、自身が発する電気がどれほど距離を出せるのか、その限界を痛感したばかりだ。それはおよそ十数メートル。いまロクがいる空中から地上への距離を考えると、絶望的な数値だった。
──それでも、と。
固く握った拳から雷が飛散した。
「──ぜったいに、届かせてみせる!!」
体内に蔓延っている小さな元力の粒子。それらひとつひとつが、主の声に呼応する。
繰り寄せろ、練り上げろ、──極限まで。最大限で最高値の元力が右の拳に集っていく。雷が唸る。右半身だけが体温を急上昇させる。
電熱が、空気を焦がすとそれが、
新しい扉を開くための鍵となった。
「"六元"──解錠!!」
詠唱が、天を衝く。
「────"雷砲らいほう"ッ!!」
突き出した拳。放した指先から、
一閃。
──"雷の光線"が、気流を裂き、撃ち放たれた。
まさに怒涛の勢い。熱線が地上を目がけて奔かけ抜ける。大気を焼き切りながら、空と大地とを裁断したそれは、次の瞬間。
地上に堕ちた。
一触即発。鉛のような爆発音が轟いた。次いで灰煙が辺り一帯に蔓延した。土塊が跳ねて離脱し、熱風爆風突風が連鎖し、視界が一瞬、暗闇に還る。
そのとき。
水がひとすじ、大地の隙間から手を伸ばした。
割れた大地の底から大量の水が噴き出した。空に向かって、透明の花が咲く。あこがれた地中の外へ幼虫たちが顔を覗かせるように、待ちこがれた青空に水しぶきが架かった。
噴き出た水は、抉られた地盤の底へとまっさかさまに落ちた。みるみるうちに水が溜まっていく。同時に、ヴィースの家宅が大きく傾き、その溜まり場に向かってひっくり返った。
「そ……そん……な」
ドボン、と横広の家屋が水の溜まり場に落ちて大きく水しぶきをあげた。否、それはもはや池などではなかった。
──"湖"
目を瞠るほど巨大な湖が、その美しい水面に射す太陽の光を、キラキラと照り返している。
「ウソ……ウソよ、ありえない、ありえない。こんな、」
そのとき。ガタガタと肩を震わせていたリリアンの上体を、なにかがきつく絞めあげた。全身が真紅色に染まっている太い体躯を見下ろしリリアンは顔をしかめた。
(し、しまったッ!)
『巳梅』は、頭部に縄を巻きつけたままの状態にも拘わらず、その長い肢体でリリアンを完全に捕縛した。リリエンは岩塊に挟まれていてもとより身動きがとれない状態だ。
小さく安堵の息を吐いたフィラは、
瞬間、思い出した。
「──そうだわ! ロクちゃんが、まだ!」
焦った様子で空を見上げる。と、上空に飛ばしたロクアンズが大声を張り上げながら地上へと戻ってくるのが見えた。
「ああああああああ──ッ!?」
地面が迫ってくる。近づいてくる。物凄い速さで自分が落ちているのが嫌でも理解できた。雷の力はもう使えない。切迫した脳内は、ついに、まっしろに返った。
が。
紅いなにかが、視界に飛びこんできた。
「ぉ、わあっ!?」
ロクは、その紅くて細いなにかに飛びついた。ロクにはそれが『巳梅』の尾の先端であることがすぐにわかった。が、彼女はその尾と衝突すると1度だけ大きく宙返りし、そこから坂道のように延々と続いている鱗肌の上をごろごろと転がり落ちた。
そうしてどんどん降下していくと、その長い坂道の終着点が見えてきた。『巳梅』の肢体が地面と接触している部分だ。リリアンを捕らえているためにぐにゃりと曲がっている『巳梅』の上体からずっと下の部分では、まるで芋虫が歩くように一部だけ盛り上がっている。
ゆえに、ロクの進路の障害とも言えるその突起部分に、彼女は為す術もなく真正面からぶつかった。
「ぶっ!」
ロクの身体はそこでようやく静止した。ずるり、と頭が落ちる。ロクは後頭部を押さえながら顔を起こした。
「……ったたぁ……。へへ、助かっちゃった。ありがとねっ、巳梅!」
『巳梅』は頭だけで振り返って、キュルル、と鳴いた。
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