第031次元 君を待つ木花8
『……ぁ、いや……っ、やめて! やめてっ! ──ウメ……っ!!』
血のような赤髪を引っ張り上げられ身体中を押さえこまれ、見せつけられたのは、渦巻く獄炎に溶けてなくなくなっていく、最愛の紅色だった。
「そのときね」
ウメのいた場所には、ただ黒い炭だけが残り、やがて火は消えた。フィラや村人たちが絶望する顔を眺めていた領主は、憤るように、嘆くように、高らかに嘲笑った。その笑い声だけが響き渡っていた。
次の瞬間。
『次元の、扉、発動』
──フィラの中にある"扉"が、音を立てた。
炎を抱いた瞳が、蛇のように、領主の顔を睨んで離さなかった。
『"巳梅みうめ"──っ!』
フィラがそう叫ぶと、突然、空気が震動した。砕け散った大地の底から、
"紅色の大蛇"が、けたたましい産声をあげて君臨した。
滝のように流れ落ちる大地の破片を浴びながらフィラが見上げれば、そこには、なくしたはずの梅色が牙を剥いていた。
『──え……?』
大蛇が地面に噛みつき、村人たちは悲鳴をあげて、フィラのそばを離れていく。伸ばした手も虚しく、フィラは目を閉じ、耳を塞ぎ、その場にしゃがみこんだ。彼女の泣き声を掻き消すように、大蛇は甲高く啼き続けた。
悪夢のような一夜は、終わりを告げると同時に少女を攫っていった。
「フィラさん……次元師、だったんだ」
「……そうよ。でも私、それから村の人たちといっしょにいるのが怖くなって、逃げるように村を出たの。私のせいでみんなを傷つけたから……。だから、ここへもずっと戻ってこられなかった」
「じゃあ、いまこの村で起こってることは……」
「……。知って、いたの。でも……みんなが苦しんでいるのを知っていながら、みんなに拒絶されるのが怖くて、ずっと、そのまま……」
いまにも泣き出しそうなフィラを見かねてのことか、黙っていたツヅが口を開いた。
「りょうしゅ様は、その日のいかりをわすれられませんで、さっきのかじつをつかってさけをつくるよう、われわれにめいじました」
「! お酒……」
ロクはローノでの話を思い出した。ベルク村で造られている酒が美味と評判で、支部にいた男性隊員たちが盛り上がっていた。こんな山奥にある村の事情を知っていたのは、その酒がひっそりと取引され、世に出ているからだろう。
「つぐなえ、とおっしゃったのです。このさきもえられるはずだった、ざいさんを、うばったつみを……つぐなえと」
「償えって……! そんなの、悪いのはぜんぶ、領主さんじゃないの!?」
「……いまはそういうじょうきょうなのです……。われわれがさけをつくるかわりに、さくもつやみずなども、まえよりはおおくはいきゅうされるようになりました。……が、そのりょうはとても、たりていません。みな、やまいにたおれたり、やまをくだったりして……いなくなって、いっているのです」
ロクは、ぐっと拳を握りしめた。腹の底から湧いてくる感情は、この村に住まう人間たちが持つ──燃えるような赤色に似ていた。
我慢できず、ロクは立ち上がった。
「フィラさん! あたし、やっぱり行く!」
「い、行くって……どこへ」
「決まってるじゃん! ──領主の顔を、ぶん殴りにいくんだよ!」
ロクは隊服の袖から腕を伸ばし、強く拳を握ってそう告げた。決意を孕んだ新緑の瞳が、フィラに降り注ぐ。
「そんな……あなたには、なにも」
「……そうだね。関係ないかもしんない。でも、そういうんじゃなくて、いやなんだ。あたし、ほっとけないんだよ! この村の人たちも……フィラさんのことも! だからあたしが行ってくる。なにも返ってこないかもしれない。……失ったものは取り戻せない。でも……それでも! あたしが許せないんだ!」
フィラはなにかを言おうとしていたが、ロクが遮って続けた。
「だからフィラさんも、いっしょにいこ!」
「……だ、だめよ、私は……」
「次元師なんでしょ? 領主のこと、許せなくないの!? フィラさんの家族を……村の人たちを苦しめてきたんだ。ずっと! そんな人を、フィラさんなら……──」
「あの子なのよッ!」
思わず大きな声をあげたフィラに、ロクは一瞬肩を震わせた。
「……あの子なのよ、私の、次元の力は……。まちがいなく、──ウメなの……!」
「そ、そんな……ちがうよ! そんなはずない。次元の力と、ふつうの生き物はちがうよ、フィラさん!」
「ちがわないわ! あんな、紅色の鱗の、蛇……ウメじゃないなら、なんだっていうの!? ……私はもう、あの子を傷つけたくない……っ!」
「フィラさん……」
これ以上はなにを言っても聞く耳を持ちそうになかった。ロクは一度だけ目を閉じて、そっと瞼を持ちあげた。
「待ってるよ」
「……だから、行かないって……!」
「ちがうよ。次元の力が……『巳梅』が、きっとフィラさんのことを待ってるんだ」
「え?」
ロクはフィラの横を通りすぎて、入り口から外へ出ていった。
フィラはゆっくりと立ち上がり、歩きだした。無意識にロクのあとを追っていて、家の入り口からこぼれる、陽の光に誘われた。
入り口から外の景色を見た、そのとき。
「フィラ!?」
家のすぐ外にいた男と、目が合ってしまった。
「フィラ……いきてたのか!」
「ほんとうだ! フィラ!」
「え? フィラ?」
次から次へと、フィラの存在に気づいた村人たちが、彼女の周りに集まってくる。フィラの顔がみるみるうちに真っ青になっていく。
「……み、みん、な……」
「フィラか? ずいぶんせがのびたな」
「かえってきてたのか」
「どこいってたんだよ!」
有象無象の声たちが、フィラの鼓膜に突き刺さる。ほとんど聞き取れなかった。自分の内側にこもって、フィラは弱々しく声を出した。
「……。ごめん、なさい。私が、私があの日、ウメを連れ出さなかったら、みんなは……」
フィラの目が、逃げるように下を向いた。周りとはちがう色をしているようで恐ろしかった。
彼女が片足を退いたそのとき。
「なにをいってるんだ?」
視界が、はっと持ち上がった。13年前、村から出ていった日となにも変わらない臙脂色が、目の前に広がっていた。
「おまえのせいじゃないよ、フィラ!」
「ばかだなあっ、おまえは!」
「あんたは……この村の誇りを、白蛇様を守ろうとした。みんな死んでしまったけど、金のために、むりやり繁殖させられる白蛇様をたすけたんだ。ウメ様のことだって」
「みんなおまえに感謝してるさ」
「つらいことなんかなにもない!」
「おまえはよくやった……! おまえは、この村の誇りさ!」
1人の男が、フィラの頭に手のひらを乗せた。ぐしゃり、と髪色を掻き回される。目元の臙脂色が、涙で淡く滲んだ。
「……わ、たし……私……っ」
「もどってきたんだな……。つらかったな、フィラ」
「──……っ」
涙が止まらなかった。拭っても拭っても、それは決して枯れないものだと思っていた。見上げれば頬から落ちて、だれかが拾ってくれる。ばかだな、と笑ってくれる。そうしたら涙の跡は残らないだなんて知らなかった。──初めから、逃げる必要などなかったのだ。
フィラは喉を躍らせて、子どものように泣き声をあげた。
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