第030次元 君を待つ木花7
ばあ様、と呼ばれた老婆が人払いをしたおかげで、家の中には人っ子ひとりいなくなった。そのとき初めて気づいたことだが、ロクアンズのすぐ隣ではレトヴェールが静かに寝息を立てていた。寝顔は可愛いんだよな、なんてことを思っていたとき、ふいに声がした。
「どうぞ、めしあがってください。次元師様」
ロクの近くまでやってきた老婆は、しわがれた両手で木の板を掴んでいた。そこには汁物が入ったお椀と果実を乗せた小皿が置かれていて、彼女はそれらを零さないようにゆっくり腰を下ろした。
「えっ? そ、そんな、いいよ! だってそれは、この村の大事な」
必死に手を振りながら断ろうとしたロクだったが、彼女の下腹部は、ぐるるると正直に鳴いた。
「……あっ、や、これは……」
「ふふ。おきになさらないで」
開いているのか閉じているのかわからない細い目で微笑む老婆は、木の板をロクの寝床のそばに置いた。
「とおいところ、わざわざおいでくださいますとは、まさか、ゆめにもおもっておりませんでした。おみぐるしいものをおみせしてしまい、もうしわけありません。ごらんのとおり、この村はめぐまれておりませんで、つぎのはいきゅうの日もちかいので、いまおだしできそうなものは、このくらいがせいいっぱいで……」
「ううん、そんな! むしろごめんなさい……。村の大事な食べ物なのに」
「とんでもありません。めしあがってください」
「……ねえ、もしかしてあなたが、ここの村長さん?」
「はい。わたしが、村長のツヅでございます」
ツヅは、正座を崩し左膝を立てた。両肘を曲げ、床と水平になるように持ちあげると、膝にくっつくかつかないかの位置で右手の甲に左の手のひらを重ねた。この村での挨拶なのだろう。
「ねえツヅさん、あたしたち、この村でなにが起こってるのか知りたくてここまで来たんだ。だから村のことを教えてもらえないかな?」
「それは……おえらいかたが、そのようにと?」
「え?」
一瞬、蒼い海のさざめきがロクの鼓膜をよぎった。指示されてここへ来たのかと問われているのだ。ロクは、迷わず首を振った。
「ちがうよ。自分の意思で来たんだ。あたし、困ってる人をほっとけないんだ」
「……。そうでございましたか。次元師様、すこしだけ、むかしばなしをしても?」
「昔話……? うん、いいよ」
「では、おはなしします。……いまからたった13年まえのことです。このむらには──『白蛇しらへび様』とよばれる、むらのまもりがみがおりました」
「……しらへび様……?」
ツヅは語りだした。
ベルク村にはかつて、村の人間から『白蛇様』と崇められている白い蛇が棲みついていた。それは1匹ではなく何十という数にも及ぶ、白くて美しい小さな蛇だった。真白の鱗に紅色の花を押したような斑点があり、村の人間たちはその蛇とともに暮らしていたという。
「白蛇様は、われわれにきがいをくわえるようなことは、なさりませんでした。それにそのかじつをとてもこのんでおられたのです」
「これのこと?」
「はい」
ロクは、小皿に乗った果実をひと粒つまんで持ちあげた。赤紫色でやや楕円の形になっている果実だ。
「むらのだれもが、白蛇様と、しあわせにくらしていたのです……。あの日までは」
13年前──第四次メルドルギース戦争が停戦となった翌年のことだ。村の領主だった者が急逝し、国から新しい領主が寄越された。しかしその領主の男は「財政難」だと言って、ある日突然──村中に棲みついていた白蛇を狩り始めたのだ。
「なんで、そんなひどいこと!」
「白蛇様のかわは、たいへんうつくしく、おかねになるのだと……。それだけではございません。白蛇様のかわを、ずっとうっていくために、むりやりはんしょくをさせはじめたのです……」
「……」
「ああ。いいおくれましたが、白蛇様は、すべておすなのです」
「え? でも、いま繁殖って……」
「たったいっぴきだけ……。たったいっぴきだけいたのです。しろい白蛇様とは、"まぎゃくのうろこ"の……──べにいろのうろこをもった、女王蛇が」
「女王蛇……」
「その女王蛇は、この村では、ウメとよばれておりました。とおくのくにに、うめという名の木があって、あのべにいろによくにているとか。……わたしの夫が、あの子にそうおしえたと」
「あの子?」
「フィラといいます。わたしのまごですが、いまはこのむらにおりませんで……」
聞き覚えのある名前だった。瞬時にロクは、ローノの支部にいた医療部班の女の顔を思い出した。
そして、フィラがツヅの孫であるという事実は、意外にもすんなりと呑みこむことができた。
ツヅは老婆さながらの白髪であるが、フィラの名前を口にしたときその細い目がすこしだけ開いた。フィラとおなじ、臙脂色をしていたのだ。それだけではない。この村へ訪れる前、崖の上で出会った少年の髪の色もたしかに赤黒かった。
この村の人間は、身体のどこか一部の色素が臙脂色になっているのだ。ロクは口を開いた。
「知ってるよ、あたし! 山の麓の町で、フィラって名前の、暗い赤色の髪をした女の人に会ったんだ!」
「そ、それはほんとうですか……?」
「うん」
「……ま、まさかあの子が、こんなにちかくにいたなんて……」
「でもどうして、フィラさんは村にいないの?」
「……」
「村でなにかあったの? もしかしてさっき言ってた、繁殖と関係が……?」
「……はい。そうでございます。フィラは、ウメ様といちばんなかがよかったのです。しかしたくさんの白蛇様がさくのなかにおいやられ、ウメ様もうばわれ、フィラはとてもかなしみました」
白蛇を繁殖させるように命じた領主は、その管理を村の人間に押しつけた。しかし白蛇の皮を含む村の作物の管理はすべて領主が行うこととなった。村人たちは自責の念に駆られ不運を嘆いてでも、生きるために、白蛇の繁殖を始めた。
村の作物も、守り神も誇りも、なにもかもを差し出し絶望に打ちひしがれた村人たちだったが、たった1人、
フィラだけはその深い憤りを隠せなかった。
「そして、ある夜フィラは──」
「連れ出したのよ。……柵の中にいたウメを、ね」
凛とした声が響いた。
声のしたほうへ2人が振り向くと、藁の家に入り口に、フィラが立っていた。
「ふぃ、フィラ……っ!」
「お久しぶりです……おばあ様」
「お、おまえ……なんだって、ここに」
「この子たちを追って、町を出てきたんです。……お元気そうでなによりです、おばあ様」
「なにをいうんだい。おまえが……おまえさえ、いきていれば……」
フィラのもとへ歩み寄ろうとしたツヅだったが、その短い足から力が抜け、身体が傾いた。足元を崩したツヅのもとへフィラが駆け寄ると、ツヅはそっとフィラの背中に手を回した。フィラも、やわらかくツヅを包みこむように抱き返した。
「ごめんなさい、おばあ様……。私、どうしても……村に帰ってこられなかった。みんなを傷つけたのは、私だから……」
「なにをいうんだい、ばかもの。ほんとにおまえは……ばかだね。なにもかわっていないよ」
フィラは、震えそうな唇を固く結んで、咽び泣く祖母の背中を撫でた。ふいに顔を上げたフィラの臙脂色の瞳と、ロクは目が合った。
「ここから先は私が話すわ」
「いいの?」
「……まさか、本当にこの村に辿りつけるとは夢にも思ってなかったの。だからかはわからないけど、なぜだか、話したくなったのよ。あなたたちに。……聞いてくれる?」
ロクは黙って頷いた。
「さっきの話の続きよ。私は、どうしてもウメやほかの白蛇様たちがかわいそうで……ウメを連れ出したの。そうしたら繁殖させられることはないと思った。なにより……私はウメのことが大好きだったから。ウメを傷つける領主たちの言いなりになるのが嫌だった。でも隠せるような場所が思いつかなかったら結局ウメを家に連れて帰って、そのとき家の中におばあ様と、村で仲が良かったハジって男の子と、もう1人セブンっていうちょっと年上の男の子がいたから、その3人には『このことはヒミツにして』って頼みこんだの」
「え?」
ロクは耳を疑った。危うく聞き流しそうになったその名前が、ある人物の顔を思い起こさせる。
「どうかしたの?」
「……」
しかしロクは、その名前を口にはせず飲みこんだ。ロクの知っているセブンという男は、髪の色も目の色も臙脂色ではない。同じ名前であるというだけの別人だろう。そう思ったロクは、「なんでもない」と首を振った。
フィラはふたたび話し始めた。
白蛇の管理は村人たちの役割だった。領主の使いでやってきた人間に、村人たち自らが蛇を差し出すことになっていた。つまり、領主側の人間が、白蛇とウメがどのようにして柵の中で過ごしているかなどの事情を知ることはないのだ。
まさかたった1匹しかいない雌蛇がいなくなり、どんどん白蛇が数を減らしているとも知らずに搾取を続けた領主側の人間は、当然のことながら驚愕した。気づいたときには、白蛇という種が、完全に絶ってしまったあとだった。
「それで領主さんはどうしたの?」
「……当然、すごく怒ったわ。怖かったけど、やってやった、っていう気持ちのほうがそのときは大きかった。……でも、甘かったのよ。私はヴィースのことを……領主っていう人間の怖さをなにもわかっていなかった」
その日を境に、領主ヴィースは付き人を従えて村に訪れては、村人たちに暴力をふるうようになった。性別も歳も見境なく、1人捕まえるたびに呪いのように唱えていたそうだ。──「なぜだ」「なぜだ」と。
そしてある日、怒り冷めやらぬヴィースによって身体中を痛めつけられたハジが、ついにフィラのことを話してしまったのだ。
じゃあ、とロクが相槌を打つと、フィラは苦しそうに表情を歪め、俯いて言った。
「……ヴィースに、見つかって、ウメも……家から引きずりだされて……私の、目の前で、」
喉と、手脚とを震わせながら、フィラは必死に言葉を紡いだ。
「ウメが、火に焼かれて、もがきながら、死んでしまったの」
ロクは、自分の胸に息が閊えるのを感じた。
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