第023次元 船上にて
船舶へ乗りこむときのことだった。コルドたちが乗り場の橋をぞろぞろと渡っていく中、ルイルは、その橋の途中でふと立ち止まった。
「……」
振り返ると、ずいぶんと小さくなったライラが手を振っていた。
このまま船に乗りこめば、まもなく船は港を離れ、故郷はどんどん小さくなる。いまでこそ姉のライラは、ルイルの見ている景色の中できちんと生きているが、しばらくしたらその姿は見えなくなる。また、離れ離れになってしまう。
そんなことが頭によぎった。ルイルはぶんぶんと首を横に振る。小さくなったライラの姿を目に焼きつけて、ふっと視線を外した。俯きがちに橋を渡りきる。
そのとき。
ぽすりと、頭の上になにかが乗っかった。
「……え?」
顔を上げたルイルの正面には、ロクアンズがいた。
「ちょっといびつだけど……受け取って、ルイルっ」
ロクはそう言って、伸ばしていた腕を下ろす。おそるおそる自分の頭に手を泳がせていくと、
やわらかくてふわふわしたものが、指先に触れた。
「これ……」
「店主のおじさんがね、これは『キッキカ』っていうアルタナ王国にしかない特別な綿花で作るから、とってもいい香りがするし人気なんだって言ってたんだ」
「……」
「ほらあたし、ルイルが王様になるんだと思ってたから、そのお祝いにもっと早くプレゼントするつもりだったんだけど……なかなか時間がなくてさ」
「毎日毎日、ルイルに会いに来るわりにすぐに帰ってしまってたのは、これを作ってたからなんですね」
「えへへ~」
出航を告げる鐘の音が、港中に響き渡った。橋がゆっくりと閉じられ、港から離れていく。
アルタナとメルギースを繋ぐ大海へ、船は漕ぎ出した。
「ルイルのために?」
「そうだよ。偶然になっちゃったけど、それがあればどこにいても……ルイル?」
ルイルは、自分の頭の上からそれを下ろした。懐かしい香りがぶわりと鼻腔をくすぐってくる。白い帽子だった。ルイルはその帽子を握り、ぎゅっと抱きしめた。
自国は遠ざかっていくのに、その匂いは、ルイルの一番そばにあるままだった。
「……ありがとう、ろくちゃんっ」
潮風とともに、キッキカの花の香りが海上を漂う。ふたつぶ、浮かべた涙が太陽の光できらめいて、ルイルはやわらかく笑みをこぼした。
アルタナ王国を出国してまもなくのこと。コルドたち一行は、海風を浴びながら甲板で朝食を摂っていた。今朝の城下町で買っておいたものを頬張っていたロクは、口にものを詰めながら「あ」と思い出したように話を切り出した。
「そういえばルイル! ルイルも次元師って、ほんとっ!?」
あーんと口を開け、いまにも大きなパンにかじりつくところだったルイルが、ぴたりと動きを止めた。
「うん。そうなの。でも、あんまりじょうずにつかえないの……」
「ええ~見せて見せてっ!」
「ルイル、使ってましたよ? 次元の力」
その隣で、ルイルが食べやすいように小さくパンをちぎっていたガネストが横槍を入れた。ロクはあんぐりと口を開ける。
「……え!? いつ!?」
「あなたが、騎士の方々から槍などを向けられたときです。彼らは国王陛下に、『なにをしている!!』って言われていたでしょう? あのとき、彼らが動揺していたのを覚えてますか?」
「え? あれって、あたしの首を撥ねるのが怖くて動けなかったんじゃ……」
「いえ、あれは、ルイルが意図的に止めたんです」
「──『念律』……っていう、なまえみたい」
「いわゆる、"念動力"に近いものです。まだ上手く力を扱えないようなので、いまは物の動きを止めたり、軽いものを浮かせることができる程度らしいです」
「へええ……」
よくよく思い出してみれば、たしかにあのときの騎士たちの表情にはどこか違和感があった。躊躇いゆえの動揺ではなく、「なにが起こっているかわからない」といったような、驚きの色を示していた。
「じゃあこれからは、いっしょに戦えるんだねっ。楽しみだな~!」
「……あの、ロクアンズさん。ちょっと聞いてもいいですか?」
「ん? なに?」
「その、僕たちはあまり次元の力に関しての知識がないというか……どうして次元師が存在するのか、なんのために戦うのか。根本的な部分を知らないんです」
ガネストとルイルが、じっとロクを見つめた。
「なので、教えていただいてもいいですか?」
ロクは食べる手を止めた。手に持っていた大きなパンを膝の上に下ろすと、彼女は話し始めた。
「うん、いいよ。あたしも知ってるのはおおまかだけど。……いまから200年前のことなんだけど、『元魔』っていう怪物がこの世界に現れるようになったのって、知ってるよね?」
「はい。ですが、なんで現れるようになったかまでは……」
「200年前──メルギース歴でいうと、327年。この世界に、突然、『神族しんぞく』って名乗る神様たちが現れたの」
「……神族?」
「神族は、当時のメルギースの国王様にこう言ったんだ」
『崇敬せよ、人間。我らの怒りに触れたこと、永劫の時を以て償え』
「ってね」
「怒り……? 200年前の人たちは、神に対してなにかをしたんですか?」
「それが、理由まではわかってないんだ。突然現れて、そう言ったんだって言われてる。……問題なのはここから。直後、メルドルギース周辺の島が襲撃を受けて、──消滅した」
「え?」
ガネストとルイルが目を瞠る。ロクは続けた。
「次々に土地が攻撃を受けていった。メルドルギースだけじゃなくて、ほかの大陸も。全壊した国だってある。その最中のことだったの。……──『次元の力』が、人間たちの中に宿り始めたのは」
神族と名乗る者たちが、人間を遥かに超越した『力』で人間の土地を侵し始めた。地盤は歪み、大地は割れ、森林は焼け野原へと姿を変えた。人間たちは成す術もなく、ただ自分たちの住む街や愛する人を目の前で失い続けた。
しかし、そんな絶望の折、人間たちは突然──『不思議な力』に目覚めた。
「歴史研究者たちのほとんどが、『なんの前触れもなく不思議な力を手に入れた』『これは奇跡の力だ』……って、そんな風に推測してる。そうやって人間たちは神に対抗する力を得て、疑うよりも先にその力を使い始めた。国の兵士だった人、小さな子ども、王族貴族関係なく、力を得た不特定多数の人たちが恐怖に立ち向かって懸命に戦った……。それが、5年も続いたんだって」
「そんなに長い間……」
「終戦したのは332年だ。神族たちはその年の暮れに突然姿を消したらしい。ようやくこの世界に平和が訪れたかと思ったら……1年と経たないうちに、のちに元魔って名づけられた、異形の化け物が世界中で出現するようになったんだ」
「神族がいなくなってすぐのことだったし、謎の化け物から神族と同じなにかを感じた人々は、『元魔は神族たちが生み出した兵器なんじゃないか』って考えた。でも人々は土地の復興もしなきゃなんなかったし、元魔をやっつけられそうだったのは次元師だけだった」
「たぶん、そこからなんじゃないか? 次元師が、元魔を討伐するっていう暗黙の使命ができたのは」
レトヴェールは指でつまんだパンに視線を落としながら、ロクの説明に加わった。
「な、なるほど……じゃあ、次元師は、その200年前の神族の襲来によって『不思議な力』を得た人たちのことをそう呼んで、元魔はその神族と呼ばれている存在たちによって生み出されている、と……」
「……わからないのは、その神族たちの怒りがなんなのかっていうのと……あたしたち人間が、どうして神族たちの怒りに触れてしまったのかっていうこと」
「──それと、次元の力を、どうやって人間たちが得たのか……だな」
「わからないこと、いっぱいなんだね……」
「そうだね。200年前のことなんて、そんなに大昔でもないから、記録が残っていそうなのに……」
「しょうがないだろ。一番情報を持っていそうだったエポールの一族が、神族からの襲撃とそこからの衰退によって消滅したんだ。王城も跡形もなくなってるし」
「ご実家には残っていなかったんですか?」
「ああ。うちはただの末裔で、歴史の証明になるような文献は残ってない」
「そうでしたか……」
聞きたかった情報を手に入れることはできたが、ガネストはなんだか腑に落ちない様子だった。しかしそれは、レトもロクもおなじだった。次元師にまつわる大方の経緯はだれもが知ろうと思えば知れるものだが、その奥に、いったいどんな歴史や事情が潜んでいたのかを知ることができずにいる。
考えてもしかたないか。ガネストはそういう風に思った。
「それにしても、難しい問題ですね」
「なにが?」
「だって僕たち人間としては、どうして神族の怒りに触れてしまったのか、そのわけもわからずに報復を受け続けているわけですよね? すべての理由がはっきりしないまま、次元師として神族たちと戦わなければいけないなんて……腑に落ちない点が多すぎます」
「たしかに、そういう次元師も多いかもしれないね。元魔に襲われて家族を殺された、とか……そういう直接的な恨みでもないかぎり……剣は振るえないよね」
「……だから俺たちは調べてるんだ」
「すべての謎を解くために、ね」
ガネストの視界に、灰色のコートを身に纏う2人の姿が映りこむ。
「研究機関に入って、そこの戦闘員として元魔と戦いながら……情報を集めていく。いまはまだなにもわからないかもしれないけど、きっといつか辿り着いてみせる。だから……2人とも、どうかよろしくねっ」
ロクがにっこりと笑って言った。ガネストの耳に、さざなみが聞こえてくる。海を掻き分けて揺らぐ船は、着実に、あの巨大な島に向かって進んでいる。
後戻りはできない。その気があったのなら、これほどの大船に乗りこんだりしなかっただろう。
ガネストは頷いた。
(……かみさまと、たたかうりゆう……)
1人、ルイルは顔色を曇らせて、無邪気に笑うロクの顔をちらりと見やった。
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