第013次元 海の向こうの王女と執事7

  

 雪の降る夜だった。

 暗闇の世界で唯一覚えたものは、途方もない虚無感だった。意識の糸をすこしずつ手繰り寄せ、だんだんと視界が確かなものになっていくと、同時に、思考の渦に呑みこまれそうになった。

 そこは知らない場所だった。知らない匂いだった。地面はひんやりと冷たくて、朦朧とした意識が無理やり冴えていったのを覚えている。

 しかし、自分がいったい何者で、どこから来たのかも──なにひとつ思いだせなかった。


 「メルギース国の、カナラ街っていう街の路地だったんだ。そこで眠ってたらしくて……。目を覚まして、すぐに、女の人の声がした」


 『……大丈夫? あなた、とても冷たいわ。お母さんやお父さんは?』


 首を振ることは愚か、答えることもできずにただその女性の顔を見上げた。金色の長い髪に、白くてふわふわした雪が触れてじわりと溶ける。同じ色の瞳でまっすぐ見つめ返されていた。


 『うちにおいで、お嬢ちゃん』


 果てのない暗夜に輝く、月の光に導かれて、その手をとった。


 「その人の名前はエアリスっていって、カナラ街からすぐ近くの『レイチェル村』に住んでる人だった。行く宛のないあたしはその人についていって、その人の家に上げてもらったの。そしたら、その家に一人だけ男の子がいたんだ」

 「……おとこの、こ?」

 「そう。その人の子どもで、レトヴェールっていう名前の男の子。あたしとおんなじくらいの年で、これが女の子みたいな顔してるんだっ。本人にこれ言ったら怒るけど。でね、家に上げてもらって、ご飯食べさせてもらって……。すごいお腹空いてたから、それがもうほんとに嬉しくて……おいしくて。レトには『なんだこいつ』みたいな目で見られてたんだけど……あ、レトっていうのはその男の子の略称ね。それで、ご飯食べながらあたし、『これからどうしたらいいんだろう』って思ってたんだけど……」


 家に着いてすぐに、暖炉の火で身体を温めさせてもらった。出された食事は美味しく、どこか懐かしく、促されるまま木皿の中のスープをすくっては流しこんだ。

 ロクが食事をするその様子を眺めていたエアリスは、出した皿がきれいになる頃合いを見計らって、お風呂に入ろうかと提案した。

 そこからというもの、あれよあれよという間にロクは身体を洗い終え、ほかほかになったら急に眠気を覚え、居間のソファに寝転んでいた。

 次に起きたときは朝になっていて、自分の身体には毛布をかけられていた。よく晴れた冬の空だった。


 「朝起きたら、おばさんはふつうに『おはよう』って言ってくれた。……不思議だった。なんでここまでしてくれるのか、なんでふつうのことのように、接してくれるのか」


 正直なところ怖い気持ちもあった。

 知らない場所に連れていかれ、食事も風呂も寝所も与えられたのに対して、なんの代償も支払わないなんてことはない。

 恐ろしい目に遭わされるかもしれない。

 そう思った矢先、ロクは思い切って口を開いていた。


 『どうして、こんなにしてくれるんですか?』

 『ん? ああ』

 『あたし……』

 『そうねえ。じゃあ逃げる?』

 『え?』

 『いいわ。あそこのドアは開けておいてあげる。どこへでもお行きなさい』

 『……』

 『ずっと、開けておいてあげる。いつでも帰ってこられるように』


 目尻に、じわりと涙が浮かんで、必死に堪えていたらエアリスはロクの視線に合わせてその場で屈んだ。

 エアリスはゆっくりとロクの手をとって、言った。


 『ねえお嬢ちゃん、今日からうちの子にならない?』


 その金色の瞳があまりにも綺麗で、新緑と滲んで、我慢ができずに涙がこぼれた。


 「……でもそれじゃあ、ほんとのおとうさんとおかあさんは……?」

 「……わかんない。でもそのときね、おばさんが小さな紙を出したの。あたしが着てた服にはさまってたんだって。『この子を引き取ってください』って、そう書いてあった」

 「……」


 『ごめんなさい。こんなもの、あなたに読ませるべきじゃないわ。でもね……だからこそ、あなたが、あなた自身のことを決めてほしいの』

 『……』

 『私は、あなたに娘になってほしい』


 「それで……どうしたの?」

 「その家に、いることにした。髪の色もちがうあたしが、娘なんてとんでもないと思ったよ。でもおばさんはあたしに、『ロクアンズ』って名前をくれて、居場所をくれて……あ、誕生日もくれた」


 『あ! でもここに来たのは昨日だから……昨日から、ね。うっかりうっかり』

 『……』

 『12月25日。あなたの誕生日にしましょう』


 「本当の娘みたいに愛情を注いでくれた。レトは義理の兄になるから仲良くしてねっていつも言われて、なんか本当に……家族、にしてもらったんだ」

 「……」

 「レトと仲良くなるのは大変だったよ! レトね、ほんっとぶっきらぼうで、いまもだけど昔はもっと冷たくてぜんぜん優しくなくてさ。最初の頃『おまえなんかいもうとじゃない!』ってすっごい言われたんだ。本当に大変だったけど……それでもいいとこあったんだ、レト。自分が正しいと思うことを見失わないの。だからあたしは、レトのそういうところが大好きになって……兄妹になりたいって、そう思った」


 ぽつり、ぽつりと──雨が降りだした。窓の外を見つめていたロクは、はっとして半身だけ振り返った。


 「あっ。だからどうのっていうわけじゃないんだけど……」

 「……」

 「……ルイルの気持ちがわかるって言ったのは……あたしも、そんな……大好きだったおばさんを、亡くしたから」

 「え?」


 ロクは、ぱちぱちと瞬きをすると、顔を上げた。


 「半年前の、12月に亡くなったんだ。そのおばさん」

 「……びょうき?」

 「ううん。病気じゃなくて……」

 「……?」

 「────神様に、呪われてたんだって」


 ロクは、扉から背を離しゆっくりと膝を抱えた。雨の音が大きくなる。槍のような雨粒が、窓硝子を強く叩いていた。


 「……かみ……さま?」

 「──神族しんぞく、って知ってるかな? ルイル。この世界のどこかにいる……"神様の一族"。そのうちの一人に……『呪い』を受けてたんだって、おばさん。どうしてかは知らない。でも、身体に痣があった。……亡くなったあとに知った」


 どこへもやれない深い憤りと慕情を携えた、その両手をロクは強く握りしめた。

 

 「大好きだったおばさんが目の前にいたのに、あたしとレトはなにもできなかった。亡くしたんだ。…………あんなに愛してもらったのに」

 「……」


 消え入りそうな声が、赤暗いカーペットにこぼれ落ちる。

 しばしの沈黙が流れた。


 「……ああっ、ごめんね! またあたし、余計な話しちゃった。でもね、だからその気持ちわかるっていうかなんていうか……まあでもあたしの場合、血は繋がってないし、ルイルのほうがきっともっと寂しくて悲しかっただろうし、でも」


 そのときだった。

 ギィ、と。ゆっくり、扉が開く音がした。


 「……」


 中から出てきたのは、桃色の髪をした幼い女の子だった。肩まで伸びた髪の毛がそのまま横に跳ねている。彼女はまんまるの目を赤くして、じっとロクのことを見下ろした。


 「ルイル……」

 「……おなじ、なんだ」


 ぽろり、と大きな瞳でひとつこぼす。するとルイルはひっきりなしに、ぼろぼろと涙を落としはじめた。

 

 「ねえ、あなたなら、わかってくれる……?」

 「うん。わかるよ」

 「……たすけて……」

 「え?」


 次の瞬間。小さな身体がぐらりと傾いて、そのまま床に倒れこもうとした。ロクが咄嗟に腕を伸ばし、抱きかかえる。


 「ルイル! どうしたのルイル!」

 「ルイル!」


 後ろから声が飛んできて、ロクが振り返ると、ガネストが焦った顔で駆け寄ってきていた。


 「がっ、ガネスト! いたの?」

 「いまはそんなことを言っている場合じゃありません。すぐにでも王医様の診療が必要です」

 「あ、じゃああたし呼んでくるよ! どこにいるかな?」

 「時間がありません。僕が運びます」


 ロクの腕の中から、ガネストはルイルの身体を抱き上げた。そして急いで駆けだす。

 それに続くようにロクもガネストの背中を追いかけた。

 

 

 

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