とうこ


 旧市街のはずれには、真っ白な雪花石膏の壁が立っている。

 つるりとなめらかな表面は陽射しにほんのり透きとおって、いつでもきらきら輝いている。のけ反るほど仰いでも、頂上は見えない。やんちゃ盛りのゴールデンレトリバーの仔犬に引きずられ旧市街を一周してへとへとに疲れきったあと、六時きっかりに、その壁際にぽつんと据えられているベンチに座ってひと休みするのが、僕の朝の日課だった。

 夏の、よく晴れた朝のことだった。

 その日も僕は、仔犬に旧市街中をさんざん走り回らされたあと、呼吸をととのえながらいつものベンチに腰をおろした。ちょうど遊歩道をはさんだ壁の向かい側からオークの古木が枝をのばしているので、夏のあいだ、ベンチはいい具合に日陰になっていて涼しい。ポケットから引っぱりだしたペーパーバックの昨日の続きの白い頁に、ちらちらと木漏れ日がまぶしかった。

 しばらくして、僕はふと、本から顔をあげた。

 どこか遠くで、ポロンと、透きとおった音が鳴った気がした。

 街中を全力疾走して疲れきった仔犬は、ちいさな体をぺたりと地面に伏せて、僕の足元で眠っている。

 またポロンと、明るい、透きとおった音がした。硝子のしゃぼん玉が割れるような、心地いい音だった。弦をはじく音だと気がついた。春に聴きにいった市民楽団の演奏会で、舞台の端に鎮座していた金色のグランドハープを思い出した。なるほど、これはハープの音だ。だけど、どこから。

 本を閉じて、僕は周囲を見た。

 闇の底に沈んでしまう冬のかわりに、この街の夏は日が長い。夜が更けてもほんのり明るい空の下で浮かれ騒いでいた夏の街が、ようやく目を醒ますのは、中央広場の鐘楼がのんびり十時を鳴らす頃。早朝の、ただでさえ人通りのすくない旧市街のはずれは、ひっそりと静まりかえっている。

 また、ポロンポロンと、弦をはじく音がした。音は僕の背後から、つまり壁のむこうからするようだった。夏の木立がそよ風にゆれて、コマドリがさえずる真っ青な空を、少したどたどしいハープの音色が、ゆったり渡っていく。

 しずかな夏の朝にその音は、まったくふさわしく思えた。僕はまた本をひらいて、いつもよりやわらかな気持ちで続きの頁をめくった。

 その日から、いつものベンチに座ってたどたどしいハープを聴きながら本の続きを読むのが、僕の朝の日課になった。

 なぜ今まで気づかなかったのかと呆れるくらい、その音をさがすのは容易だった。大抵いつでもハープの音は鳴っていたが、ときどき聞こえない日もあった。そういう日は、ひんやりした壁に耳を押し当てると、壁のむこうの地面を打つやわらかい雨の音がした。こちら側で雨が降っている日は、僕は居間のソファに座って本の続きをめくりながら、窓の外をぼんやり眺めた。僕の足元に伏せて、仔犬は恨めしそうな顔でやっぱり窓の外を見上げていた。

 少しずつ、たどたどしかったハープは上達していった。少しずつ、仔犬も大きくなっていった。僕の部屋の本棚は、ポケットに捻じこむせいで少し表紙がよれた本でいっぱいになった。

 六日間降りつづいた雨がようやくあがった朝、僕は久しぶりに散歩に出かけた。

 仔犬はすっかり大きくなって、昔の利かん気が嘘みたいにどっしり落ち着いた成犬になっていた。けれど、さすがに待ちかねたらしかった。僕が玄関のドアノブをひねるやいなや、扉の隙間から勢いよく飛び出して、庭先の郵便ポストの前でじれったそうに振りかえって尻尾を振った。まっさらな朝の空が目にしみるほど青かった。

 ベンチはすこし湿っていた。

 久しぶりに旧市街中を引っぱり回されてへとへとになっていた僕には、ベンチのひんやりした湿り気も、梢をゆらす夏の朝のそよ風も、みずみずしく心地よかった。僕はいつものように腰かけて、本の続きをひらいた。

 壁のむこうの音を聴くため、僕はしずかに耳をすませた。

 弦を掻き鳴らす音は、はじめて聞いた頃のような危なっかしさはすっかり消えて、今では夏の小川のようにきらきらと流麗にひびく。しかし、今日は何の音もしなかった。

 僕はがっかりした。

 つめたい壁に、耳を押し当ててみた。雨の音さえしなかった。壁のむこうはしんと静まり返っていた。僕はますますがっかりした。

 本の続きはきのうほど面白くなくて、適当なところで閉じてしまって、足元の愛犬を呼んだ。いつもよりずっと早くベンチを立った僕を愛犬はふしぎそうな目で見上げたけれど、おとなしく立ち上がって、のっそりのっそりついてきた。

 次の日も、ハープの音は聞こえなかった。

 耳を押し当てても、つるりと冷ややかな壁のむこうはひっそりしていた。僕はがっかりして、さっさと本をとじてベンチを立った。

 次の日も、その次の日も、壁のむこうは不気味に押し黙っていた。

 そんな日が幾日も続いて、僕がすっかり諦めかけた頃。背後から、ふいに、弦をはじく音が聞こえた。

 僕は本から顔をあげて、背中の壁を見つめた。

 真っ白な、つるりときらめく雪花石膏の壁のむこうで、透きとおったハープが鳴っている。ひんやり冷たいその壁に、僕は耳を押し当てた。白く繊細な指がすべって、弦を軽やかにはじくのが見える気がした。胸が騒いだ。

 なめらかなアルペジオが装飾音をきらきらまとって、水面にきらめく波紋のように壁にやさしく打ち寄せる。ゆったりした低音の旋律が暗い水底をゆらめいている。ときどき、高音の跳躍が飛び上がって、ちいさな魚が水面に銀の鰭をひらめかせる。クレッシェンド、デクレッシェンド、弦の低音から高音まで一気に駆けのぼったグリッサンドの最頂点で高音の旋律が金色の火の粉をあげて砕け散る――――

 甲高い悲鳴が、とつぜん鼓膜を貫いた。

 ガタンと大きなものが倒れる音がした。たくさんの弦が濁った不協和音を叫んだ。ビンッと弦が幾本か切れ飛んで、宙を裂く音がした。甲高い悲鳴はますます怯えたように、僕の鼓膜を震わせていた。恐慌状態のその悲鳴を聞きながら、このハープを鳴らしていたのは若い女性だったのだと、僕はなぜか、そんなことをぼんやり考えていた。

 唐突な悲鳴は唐突に止んだ。

 押しつけた耳に沁みるくらいの静寂が、壁のむこうを覆った。何が起こっているのか、僕には理解できなかった。

 ふいに、ものすごい数の足音がドカドカと近づいてきた。硝子の割れる音、なにかを踏みつける音、狂ったような悲鳴が混じっている。街中の住人が一気に雪崩れこんできたようだった。死に物狂いで何かから逃げているような狂乱だった。

 その混沌が駆け抜けていった途端、凄まじい爆撃音が僕の耳をつんざいた。

 硝子が砕け散る音、固いなにかが引き裂かれる音、ひしめいた家の石壁が連なって崩れ落ちる音が轟いた。悲痛な悲鳴があちこちであがった。大地が砕ける音がした。なにか巨大なものが爆発する音がした。天がまっぷたつに裂けたような轟音が僕の鼓膜を貫いた。幾百という弔いの鐘が一斉に、大気を震わせて狂ったように鳴りだして、頭が割れそうだった。壁のむこうの世界が崩壊したのだとわかった。

 雪花石膏の壁は、微動だにしなかった。

 ただひんやりと、そこに立っていた。しずかな旧市街のはずれにコマドリがさえずって、頭上の梢の隙間から、澄みきった青空が見えた。

 僕はもう一度、壁に耳を押し当ててみた。

 壁のむこうは、しんと静まり返っていた。

 耳が痛いくらいの静寂が、そこにはもう、何ひとつ存在しないことを告げていた。むこうにあったはずの何かは、跡形もなく消滅してしまった。僕はあのハープが、もう二度と鳴らないことを悟った。

 本をとじて、僕はベンチを立った。

 足元に寝そべっていた愛犬が眠そうに顔をあげて、ちらりと壁の方を見た。それからのっそり立ち上がって、僕のあとを追いかけてきた。


 旧市街のはずれの壁際のベンチでひと休みするのが、相変わらず僕の朝の日課だった。しかしあの日以来、壁のむこうは押し黙って、何ひとつ、音が聞こえてくることはなかった。

 僕は本のページをめくりながら、ときどきあのハープの音を懐かしく思い出した。白い華奢な指先が、弦の上をしずかにすべる様子をぼんやりと思い描いた。真っ白な腕にやわらかな白い袖がゆれて、亜麻色の長い髪が陽射しにきらきら波打つところを。紅い唇が、コマドリのような声で軽やかに歌を口ずさむところを。

 僕の二つ目の本棚がいっぱいになった頃、愛犬は眠るように逝った。大往生であった。旧市街を見下ろす丘の上の、若いオークの木の根元にその死骸を埋めた。白いノコギリソウの花をその前にそなえて腰をおろし、本の続きをひらくのが、僕の朝の日課になった。

 もう、あの壁際のベンチへは行かなくなった。

 丘の上から見下ろす白い壁はいつでもきらきらと朝の陽射しにきらめいていて、そのむこうにはただ、何もない闇がひろがっているだけだった。



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